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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 切支丹の江戸 part6


今日は新宿区をお散歩。前々から気になっていた所を訪ねます。用事帰りなので、荷物が多いのと、天気がぐずついてるのが気になりますが、心はいつも晴れ!と思って出発 ρ(^-^*)ノ


慶応義塾大学病院


普段乗らない総武線に乗って信濃町駅へ。改札を出ると慶応義塾大学病院が目に入ってきます。

遠藤周作や尾崎行雄の終焉の地ですね。2人ともクリスチャンです。

遠藤周作はそれよりも前に長期入院していた時期があったので、生前この病院の前を通ると、時折車を停めさせて、しばらくじっと見つめていたのだとか。

終わりの見えない入院生活って、どんな気持ちだったんでしょうね。自分の体なのに思うままにできない辛さもあっただろうし。作家の軌跡は苦悩が刻まれていることが多いですね。


明泉寮


続いて坂を下りながら明泉寮へ。5.15事件の犬養毅が所有していた屋敷跡です。犬養毅が襲われたのは首相官邸ですけど。

その屋敷を新しくイギリス風に建て替えたのが、犬養毅の息子の嫁で、その建物が初代明泉寮となりました。以前は上智大の人しか入寮できませんでしたが、今はそれ以外の大学でもいいみたいですね。

現在の建物は最近建て替えられたもので、90部屋もあるんだとか。カトリックの女子修道会が運営にあたっていて、中には聖堂もあるようですね。あ、ちなみにカトリックのクリスチャンで作家の犬養道子は犬養毅の孫。ここにあった家に住んでいたことがあります☆


出羽坂


線路にぶつかって出羽坂を下りつつ二葉保育園の方へ。昔はこの辺りはあまり治安のいい所ではなかったそうです。

坂を下った鮫ヶ橋と呼ばれる所は今でいうスラムで、筵で作った簡易テントみたいなものを張って、私娼が営業していたのだとか。今では高級な感じさえする所ですけどね。


二葉保育園


さて二葉保育園にやって参りました。昨今の恐ろしい事件のせいでしょうか、外部をシャットアウトする構造になっていますね。

建物も新しく建て替えられたものでしょうから、中に入りたいと思いませんので大丈夫です。

ここに来たのは、野口幽香(ゆか)と徳永恕(ゆき)という、2人のクリスチャンの女性が、貧しさのために教育を受けられない子供たちのために幼稚園を開いた場所だったからです。大正5年にその「二葉幼稚園」を「二葉保育園」と改称して現在に至っていますけど、設立のヴィジョンは今も受け継がれていますかね。高級住宅街になった今も――。


日本基督教団 信濃町教会


続いて日本基督教団の信濃町教会へ。

写真は撮りませんでしたが、この教会のある大通りまで歩いてくる間中、あっちにもこっちにも、驚くほどたくさんの創価学会の施設を見ました。

たぶんお近くの人はよくご存知なことなんでしょうけれど、私は初めて知りました。信濃町は創価学会の街なんですね。。

そんな中で頑張っている信濃町教会! 頑張ってほしいです☆


牛込見附跡


電車に乗って飯田橋駅へ。牛込橋の所にある石組みは牛込見附跡です。ここが・・・元々の牛込なんですね? 牛込ってもっと四ツ谷寄りのイメージがありました。

「見附」ですから、江戸時代はここで不審な者を見張っていたんですね。キリシタンだとわかれば逮捕された訳ですし。信徒たちにとっては戦々恐々の場所だったことでしょう。


牛込橋

牛込橋

牛込橋解説

富士見町解説

日本基督教団 富士見町教会


さて飯田橋にはとても歴史あるプロテスタント教会があります。1887年創立の富士見町教会です。

明治期を代表するキリスト教者 植村正久が、創立以来38年間にわたり牧師を務め教会の基礎を築いた教会で、多くのクリスチャンが誕生しました。

初めは麹町一番町にあったのですが1906年に現在地の富士見町に移り、教会名もそれに応じて変わりました。高層ビル群の中にあって、抜群の存在感ですね ヽ(*゜O゜)ノ


御受難修道会 東京修道院


では次は筑土八幡神社へと参りましょう。しばらく歩きますがこれくらい平気。

降り出した雨の中、寒さを感じながら歩を進めていると、筑土八幡神社の参道脇に修道院を発見!

御受難修道会の東京修道院だそうです。キリスト教界におりながら、初めて聞く名前ですが、うーん、すごいロケーションにありますね。


筑土八幡神社


それでは筑土八幡神社の石段を登ってみましょう。ヨイショヨイショ。。(体が重い)

うむぅ、この神社の敷地の端っこみたいな所に、「孫文亡命地」と書いてある史跡マップ(新宿区の博物館で手に入れた)を見て来たのですが、それらしき痕跡が見られません。

大体境内に人が住むって、宮司さんでもなければ難しいですよね。その上社殿の他は空いているスペースがほとんどないので、家とか建てられなさそうです。どういうことなのか・・・( ̄へ ̄|||)


筑土八幡神社

筑土八幡神社解説

田村虎蔵顕彰碑

孫文亡命地?


推測なんですが、石段を下った神社の外側の所に孫文が匿われた家があったのではないかと思い、史跡マップに該当する地点に来てみました。

ここが孫文亡命地・・・です?(イマイチはっきり言えないのがもどかしい)

とりあえず、暫定で、ここということに(^^;;
孫文はクリスチャンでした。クリスチャンでもいろんな働きをした人がいるから、追うと多岐に亘って大変ですね。それだけ面白いですけど☆




では次も新宿区を攻めたいと思います。新宿区なんて、学生時代から行き来している地域なのに、ファンで小説を読破した夏目漱石の終焉の地も見に行ったことがなかったものですから・・・。ファン失格ですね。というか、そもそもファンなのかという (^。^;)
過去を悔い改めるつもりで、行って参ります!


袖摺坂


まず来たのが袖摺坂。大久保通りから横寺町に登る小さな石段の坂です。

江戸時代にはこの周辺にホームレスの人が多かったため、「乞食坂」と呼ばれていたのだとか。

実は今、四ツ谷にいたキリシタンがどこに住んでいたのかを探していて、それで彼らが「乞食」だったと文献に書いてあるものですから、ここに来てみた訳です。

ここがそのような人たちの溜り場だったらしいので、ここにキリシタンがいた可能性はあります。逆に言うと、可能性しかありませんが。江戸時代、キリシタンが真っ当に暮すということは非常に困難なことだったので、どこの誰で何の仕事をしているのか、どこから来てどこの寺に属しているのか等々を、煩く聞かれない環境に紛れ込むしかありませんでした。「隠れ」にでもならない限り・・・。

だから可能性はありますよね。「乞食坂」――。彼らの苦労に頭が下がるような思いがします。


袖摺坂解説

袖摺坂

矢来町ハイツ


それではまっすぐ進んで牛込中央通りを右折。しばらく歩くと左手に見えてくる矢来町ハイツが、昔小浜藩酒井家の下屋敷だった所だと、例の新宿の史跡マップに書いてあったのですが・・・。

解説板等は建てられてませんねぇ。あのマップ、前回も惑わされたような(自分が勝手に勘違いしただけですが^^;)


秋葉神社


小浜藩酒井家の下屋敷跡はあそこだったのかな?で留めておいて、矢来町ハイツを過ぎた所にある秋葉神社へ。こちらは無事発見♪

ここにある「正雪地蔵尊」なる石造物が元「キリシタン灯籠」だという話を聞いて来たんですが、それって一体どんな感じなんでしょう?

正雪地蔵尊


な、なるほど!

一部の人が「キリシタン灯籠」と呼んでしまっている織部灯籠の、一部が祀られています。

上部の火袋が失われて、竿部分だけ残って、それがお地蔵さんとして祀られてしまったんでしょうか。

奇妙な形だから、拝まれてしまったのかもしれませんね。事情は分かりませんが、家族健康のご利益があるらしいです。とりあえず都内の「キリシタン灯籠」をまた一つ確認できて良かったです☆


正雪地蔵尊

正雪地蔵尊

矢来公園


正雪地蔵尊から数分歩き、矢来公園へ。

こちらが小浜藩酒井家の下屋敷で碑があるというネットの書き込みを見まして。

ありました!公園も碑も。こっちだったのかー。

杉田玄白の生誕地でるあると書いてあります。小浜藩士の子供だったんですね。大名の下屋敷というのは家臣とその家族も住んでいたんですね? 受験で日本史選択でない私は知らないことが多くて困ります o(;△;)o

小浜藩酒井家下屋敷は


どうしてこんなに小浜藩の酒井家下屋敷跡にこだわっているかというと、小浜藩主で幕府の老中を務めた酒井忠勝が、キリシタン政策に大きく関わっているからです。特に宣教師や武士階級のキリシタンの取調べが、将軍家光列席の上、「酒井忠勝の牛込屋敷」で行われたというので、関心を払わない訳にはいかなくて。

でもここは下屋敷だから、将軍を迎えるとは思えませんね。「牛込」とは言いにくい(?)ですし。迎えるなら上屋敷でしょうね。もっとリサーチしてみなければ☆

≪後日加筆≫
上記のように書いておりましたが、家に帰って調べてみたところ、酒井忠勝が暮らし、家光がしばしばやって来た屋敷はここで良かったようです。江戸時代、神楽坂駅の南側には若狭小浜藩主酒井家の広大な屋敷地が広がっており、酒井忠勝は神楽坂を通り牛込御門をくぐって、江戸城に登城していました。

明暦の大火の際には、4代将軍徳川家綱が江戸城からこの屋敷に避難してきたこともあったのだとか。その時に警備の御家人たちは抜き身の槍で警護の任にあたりましたが、その様子を模して、酒井家では屋敷の周囲に竹矢来を作りました。それがいつしか評判となって、牛込屋敷周辺は「矢来下」と呼ばれるようになり、後年「矢来町」となりました。だから矢来町ハイツも屋敷地だったのでしょうね (^^)


矢来公園

小浜藩酒井家下屋敷跡

小浜藩酒井家下屋敷跡

矢来公園

日本聖公会 聖バルナバ教会


ちょっと疲れてきたので先を急ぐことにしましょう。神楽坂駅方面へと向い、日本聖公会の聖バルナバ教会をウォッチ。

聖公会だけれど、イングランド風ではないですね。一律ではつまらないから、環境に合わせていろんな様式で建てているのかもしれませんね♪

「バルナバ」は慰めの子という意味だったと思うけれど、来た人に慰めを与える教会なんでしょうか。


聖バルナバ教会

聖バルナバ教会

宗参寺


早稲田方面に15分ほど歩いて宗参寺へ。キリシタンを取り締まる宗門改役を務めた柳沢信尹(やなぎさわ・のぶただ)の墓があるということで来てみたんですが、墓地はどこでしょう?

境内は随分と荒れていて、本堂なのか住居なのか分からない建物があるのみで、解説板はあるものの、全然読めません。

この寺と墓地を訪れた人のサイトを見たんですが、随分と様子が変わってしまったということでしょうか。そんなに昔の記事じゃなかったのになぁ。特に墓地はナッシングです。寺の周りを外に出てぐるりとめぐってみたのですが、マンションが建ったり工事中だったりで・・・。数年のうちに大きく様変わりして、今では何も残ってないのでしょうか?ミステリーです (ーΩー )ウーン

宗門改役 柳沢信尹


1709年、イタリア人宣教師シドッティが日本に密入国を果たすのですが、すぐに捕まってしまい江戸に送られました。もう天草島原の乱が終結してから半世紀以上も経っていたので、キリスト教宣教師が来るということ自体が事件で、驚きをもって受け止められました。

このシドッティ神父の取調べをしたのが、将軍の補佐役をしていた儒者の新井白石で、取調べをした結果を著した「西洋紀聞」はつとに有名なんですが、この時代のキリシタン政策を司る宗門改役は柳沢信尹で、宗門改役は切支丹屋敷を管轄していたことから、切支丹屋敷で行われた新井白石のシドッティ取り調べには柳沢信尹も同席していました。

結局シドッティは切支丹屋敷に死ぬまで幽閉されることになり、最後は召使の夫婦に洗礼を施した廉で半地下の冷たい牢に入れられて死んでしまうのですが、シドッティが死亡したのが1714年で、柳沢信尹が宗門改役の任を解かれたのが1715年なので、死ぬところまで見ていた、あるいは死なせたのは柳沢信尹ですね。お墓どこに行っちゃったんだろう。。

≪後日加筆≫
後で調べてみましたら、宗参寺は「近くに末寺がある」と書かれていまして、私はその末寺に行ってしまったようです (^^;)
江戸時代の古地図を見ると、本家の宗参寺と末寺がすっぽり入る敷地が全部宗参寺でした。つまり現在よりもっと広い境内を持つお寺だったということですね。今度改めて訪れてみようと思います♪



宗参寺

宗参寺

夏目漱石終焉の地


では本日のラストはこの公園に飾ってもらいましょう。

夏目漱石終焉の地で、現在は漱石公園という公園です。

事務所みたいな施設があって、資料や散策マップがもらえます。

明治の文豪 夏目漱石はここに住んで、ここで死んだんですね。どんな人にも波に乗っている時があれば病む時があり、死ぬ時もあります。どんなにすごいと尊敬される人でもそれは同じなのだから、それを「空」だといったソロモンの言葉は言い得て妙、いえ、真理ですね。

学生時代にハマって尊敬してたけど(それは変わらないとしても)、夏目漱石も人だったんだなと感じました。え、そんなこと知らなかったの?という感じですが、何と言うか、一人の人間であって、その限界の中にいたという意味です。人間の限界の中で、何が残せるのが一番良いことなのか、考えてみようと思いました☆


夏目漱石終焉の地

復元された漱石山房

漱石山房の記憶

漱石公園


とある宗教家と


とある宗教家と宗教問答をしたことがあります。
当時15歳だったから随分とませたガキだったと思いますが。

私「色即是空、空即是色。世は虚しいというんですけど、それは分かるんですが、それを分かってどうしろということなんでしょうか?どう生きればいいと言っているんでしょうか?」
宗教家「それは虚しいという意味を、まだよく分かってないからそう言うんですよ」

それから時が流れ、今では言われた意味が少しは分かり、自分の信仰を持つに至って、こういうことなんだろうなという答えを得ました。幸いなことに。

虚しいものに溺れないで、現世に生きていても、見えない世界を同時に生きようと思います。今日はどうだったのか振り返ると、毎日ちょっと恥ずかしいですけどね。それでもそれも幸いなことかと――。




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