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旅行記 > 切支丹の江戸 part3
花粉の飛散も収まってきたので、そろそろ活動し始めようと思い、気になっている地域に向かいました。手帳サイズの地図帳を持って、今日出かけるのは文京区一帯。切支丹屋敷で亡くなった人たちの行く末を追います☆
日本女子大学
今日はかなり歩くことを覚悟して、目白駅で降りました。学生にでもなった気分で日本女子大へ。目白通りをまっすぐなので迷うこともありません。
昔この周辺に住んでいたんですが、お店とか結構変わっていますね。都内は変遷が早いです ∈( ̄o ̄)∋
成瀬記念講堂
正門から見える建物は成瀬記念講堂。創立者、成瀬仁蔵の名を冠したこの講堂は文京区の指定有形文化財です。
日本女子大はキリスト教系の学校ではないのですが、成瀬仁蔵はクリスチャンで牧師をしていたこともあります。
同じくクリスチャンで明治から大正期に実業家として活躍した広岡浅子の資金援助を受けて創立されました。
村岡花子がNHKの朝ドラ主人公のモデルとなってから、村岡花子ら女性文学者を集めて勉強会を催した広岡浅子にも注目が集まるようになりました。再来年には広岡浅子自身が朝ドラ主人公のモデルとなるらしいですし。クリスチャンにスポットが当たることで社会の風向きも変わるかもしれません。期待がふくらみますね♪
早速ですが・・・
まだ日本女子大の前を通っただけですが、早めにランチを。この先はあまり食事をする所がなかったような気がするので。1人で中華屋さんに入れるようになったのは・・・私の場合、昔からですね。割と人目を気にしないといいますか...ヾ(@゜▽゜@)ノアハ
和敬塾
それでは再び街へ出て、和敬塾をちらり。こちら側から見たことはないかもしれないですね。解説板を初めて見ました。
ここから道を折れて旧高田老松町へ。昔ながらの町並みっぽくて、昭和の香りを感じる瞬間も。今ではそれを嗅ぎ分けられる人も少なくなっているかもしれませんが(^^;)
和敬塾について |
町名解説 |
旧高田老松町 |
旧高田老松町 |
同仁キリスト教会
しばらく行くと同仁キリスト教会が。地図に「教会」と書いてあったので、つい行きたくなりまして。
同仁キリスト教会は、1890年にアメリカから来日した宣教師による教会で、プロテスタントの単立教会。幼稚園を併設していて、広い園庭が見えます☆
パリ外国宣教会
またしばらく歩くとパリ外国宣教会の建物が。日本で「信徒発見」をして、世界を驚かせた修道会です。
同時期にベトナムや李氏朝鮮、清(中国)にも布教して、ひどい迫害を受け殉教者まで出してますが。
今も日本に拠点があったんですね。知りませんでした。
パリ外国宣教会 |
パリ外国宣教会 |
永青文庫
それでは永青文庫へ。現在やっているMOMOYAMA展では、前期後期で展示される物が違うので、見たい物が分散している場合は二回行かねばならないのです
(^。^;)
今回見たかったのは「ガラシャ夫人消息」。細川家当主に嫁いだ細川ガラシャ夫人直筆の書状です。伸びやかなかな文字で綴られた書状は、どこか天にでも舞い上がりそうな自由さが漂っていて、細川邸という限られた空間でしか暮せなかったけれど、心は自由だったのだなと感じました。
この女性、日本人なのになぜ「ガラシャ夫人」と呼ばれるかといえば、キリシタンになって洗礼名が恩寵を表す「ガラシャ」だったからです。本名は玉さん。明智光秀の三女でした。波乱の生涯についてはまたいつか語りたいと思います♪
道栄寺
永青文庫周辺にある野間記念館、関口カテドラル、椿山荘(山形有朋の屋敷跡)などを横目に見ながら、結構歩いて道栄寺へ。
こちらまで来ると切支丹屋敷はすぐで、この寺には切支丹屋敷で処刑された内藤新兵衛という人物が埋葬されました。
処刑されたのはキリシタンだと発覚したためですが、内藤新兵衛は館林宰相(後の五代将軍綱吉)の家臣に仕える同心荷物持でした。
本気でキリスト教を信じていたかどうかは不明ですが、身体検査でメダイ(キリシタンの信心道具の一つで、聖像を刻んだメダル状のもの)が出て来たため、小伝馬町の牢に送られ拷問を受けて、キリシタンであることを白状したために、切支丹屋敷内の書院の庭で斬首されました。切支丹屋敷に幽閉されていた宣教師から洗礼を受けたんでしょうか・・・。
道栄寺の境内には地蔵尊など幾多の石造物が配置されているのですが、その中には十字を掲げているかに見える物もありました。何でもキリシタンと結び付けてしまう人が見たら「キリシタン地蔵」とでも名付けそうですが、うーん、私はその考え方に否定的な立場ですね。
切支丹屋敷跡
それでは道栄寺との距離をみるために切支丹屋敷跡へ。坂道を上り下りしながら遺体を運んだんだなと思いました。運ぶ役人の足は重かったことでしょう。
切支丹屋敷には都の史跡であることを示す碑と外国人司祭が建てた碑が置かれています。少し前までその左手にある石を八兵衛石だと思っていた(ある神父さんがそう言っていたので)のですが、どう見ても違うようです(残っている写真と見比べて)。
字が薄れて読みにくかった解説板は新しくなってうれしいのですが、この周囲にできるらしいマンションの建設を反対するビラが激しく貼られていて、そちらに目を奪われます。前来た時よりは収まってきている感じではありますが・・・。住民の人たちは高い建物が建つことに反対のようですね。
新しくなった解説板 |
旧地名について |
切支丹坂 |
切支丹坂 |
伝明寺
切支丹坂を下って高架下のトンネルにぶつかった辺りが獄門橋跡。高架をくぐった先は庚申坂が続いているのですが、庚申坂を上らずに左手に折れて数分進むと伝明寺が現れます。
伝明寺は藤で有名で藤寺とも呼ばれているのですが、この命名者は将軍家光。鷹狩りの際に立ち寄って藤を愛でたのだとか。
伝明寺の門前にも十字を持っているような地蔵尊が。家光は家康に倣ってキリスト教禁令を徹底した人物で、キリシタン処刑の頭目と言っても過言ではないくらいなので、そのゆかりの寺にキリシタンが信奉した物が置かれているはずはないと思われます。やはりこれは十字架ではなく錫杖なんでしょうね。
中間の角内
ただしこの寺がキリシタンと関係がない訳ではありません。キリシタンだということで処刑された、角内という人がこの寺に埋葬されています。
越中に生まれ、切支丹屋敷でジョゼフ・キアラ神父の中間をしていたのですが、泥棒が入ったために持ち物検査をしたら、首に掛けたお守り袋からキリシタンの信心道具が出てきたのだとか。それで小伝馬町の牢に送られて拷問を受けキリシタンだと白状したため・・・という下りは前出の内藤新兵衛と同じ。
処刑された場所も年も内藤新兵衛と同じなのに、葬られた寺だけが違っているのが不思議です。寺の裏手にある墓域には、雑然と無縁仏の墓碑が積まれた一角が。この辺りに眠っているんでしょうか。
播磨坂さくら並木
若干寂しい気持ちになりながら春日通に出ると、都会だなーと思う光景です。広い車道を車が走り抜け、人は街の付属品のような。
しかし播磨坂のさくら並木だけはオアシスのようで、人が暮す空間を残してくれている感じです。解説板によると、元は松平播磨守の上屋敷だったそうな。常陸府中藩を治めていた家ですね。ここに江戸屋敷を設け、所領地では石岡に陣屋を置いていたようです。今は緑陰だけですが、桜の頃は見事なんでしょうね
(* ̄ー ̄)
井上哲次郎旧居跡
播磨坂を進んで右手に曲がると、公園の中に建物が保存されていました。解説板によると井上哲次郎旧居跡だそうです。井上哲次郎は帝国大学で日本人で初めて、哲学の教授となった人で、哲学用語である「形而上」(Metaphysical)
の訳者。
内村鑑三が教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して最敬礼はおこなわなかった不敬事件に際してはキリスト教を激しく非難し、植村正久と論争したことがありました。調べて来た訳ではなかったけれど、来る甲斐のある所ですね。
不敬事件で内村鑑三を非難した割には、その後「三種の神器のうち剣と鏡は失われており、残っているのは模造である」と著書で述べ、頭山満ら国家主義者から不敬だと批判され、本は発禁処分となり、公職を辞職しました。「不敬」という言葉が独り歩きしていた時代だったのかもしれません。考えさせられます。
井上哲次郎旧居跡 |
井上哲次郎旧居跡 |
淑徳学園
さてこの道を進んできたのは、伝通院の裏手にあったという小石川無量院の跡を見るため。無量院は伝通院の塔頭の一つで、切支丹屋敷で死去した宣教師らを葬った寺です。
無量院は1908年に起った伝通院の火災のときに焼失し、1945年の東京空襲でも焼けてしまったため、谷中の功徳林寺に吸収合併されたらしいですが、お寺が吸収合併されてもお墓はそのまま(魂だけ抜いて持っていくので遺骸や遺灰は土中に残していく)であることが通常だと聞くので、宣教師の骨は無量院跡にあるのではないかと思いまして。
高木一雄著「江戸キリシタン山屋敷」によると、無量院の跡地は女子学校と沢蔵司(たくぞうす)稲荷の辺りであったろうということなので来てみましたら、女子教育で定評のある淑徳学園と、道を挟んだ所に沢蔵司稲荷を発見。ちょうどこの辺りにあったんでしょうね。沢蔵司稲荷の前のムクの巨木は樹齢約400年というので、埋葬の様子を目撃していたはずです。木に手を当ててみても何も語ってはくれませんけど。
ムクの巨木 |
ムクの解説 |
慈眼院・沢蔵司稲荷
沢蔵司稲荷が伝通院の境内に祀られ、その別当寺である慈眼院が成立したのは、解説板によると1620年代のことなので、無量院がここにあった訳ではなさそうですね。
無量院は1614年に神田に始まり、1657年に小石川に引っ越してきたようです。だから跡地としては淑徳学園の線の方が濃厚です。
今は道の真ん中になってしまっているムクの巨木は、沢蔵司が宿る御神木だということで、元は沢蔵司稲荷の境内にあったそうですし。こういった細かいことや位置関係も、その場所に来てみて初めてわかるので、踏破することには意味がありますね。ここまで随分歩いたけれど、まあ良かったかなと
( ̄∇ ̄*)ゞ
沢蔵司稲荷解説 |
沢蔵司稲荷 |
周辺地図 |
善光寺坂の善光寺 |
日本基督教団上富坂教会
ついでと言っては何ですが、教会と関連施設の多そうな地域があったので寄ってみました。日本基督教団の上富坂教会です。
歴史のありそうな教会で、周りにも教会関係の施設が何棟にも分かれてあります。
中でも富坂キリスト教センターというのは、明治時代にドイツ人とスイス人によって結成された東亜伝道会に始まるもので、1982年からは日本人が主体的に運営する形になり、キリスト教関係の研究・研修などの活動を中心に行っているもようです。
無知な私は知りませんでしたが、伝統があるんですね☆
おやつみたいな?
歩き疲れて最後が少し雑になってしまいましたが、行こうと思っていた所は大体行けたので満足してはなまるうどんへ。家まで帰るまでに力尽きそうなので食べて帰ります
(T▽T)
体力つけなきゃなぁ。。
文京区の史跡めぐりは曲者です。一つ行くと、もう一つ興味深い所が出てきて、尽きることがないのです。ネットでまた行きたい所が出てくるし。困ったことだけれど楽しんで行こうかなと思っています♪
さて次は友人のY子と、Y子のお昼休みに築地を回った時のものです。休み時間がたった一時間しかないので競歩のような早歩きでめぐりました (;^_^A
すし処「福音」!
築地駅で待ち合わせて最初に向ったのは、以前から気になっていたすし処「福音」!
奮発してごちそうしようと思って入店したのですが、すでに席は一杯で、30分も待たなければならないと聞き断念。
1時間しかないのでここで食べてたらそれだけで終わってしまいます。次があることを信じて次なる場所へ向いましょう☆
聖路加国際病院
次に来てみたのが聖路加国際病院のトイスラー記念館。開いてればなと思ったのですが、ここもクローズ。しかしこれは想定内のことで、病院内にある二ヶ所の礼拝堂をめぐることに。一緒にお祈りできるのが恵みですので♪
旧館の礼拝堂は荘厳な感じで、本館の礼拝堂はシンプルで慰められる雰囲気です。本館の方は急患が多く運ばれてきた時には病室になるよう設計されていると聞いたことがあります。オウムのサリン事件の時には患者が収容されたんでしょうね。こういう場所を予め備えさせるようにしたのは天からの霊感だったのではないかと思われます。
カトリック築地教会
余韻を味わう時間はないまま、カトリック築地教会へ。
扉を押してみましたが、ここもクローズ。前来た時は開いてたのにな。今日は若干ツイてないような気が・・・(>_<)
日本殉教者記念碑 |
記念碑 |
幼稚園のオブジェ |
暁星学園発祥の地碑 |
明治学院発祥の地碑
Y子もクリスチャンでキリスト教史に興味を持っているので、私としては紹介したい所が山ほどあります。特に居留地があった築地には、キリスト教系の学校が始まった所が多くあるので。
こちらは明治学院発祥の地。ヘボン塾に始まるキリスト教系の学校ですね。今も名門校です♪
ヘンリー・フォールズ住居跡
聖路加国際病院方向に進むと、緑地帯の中にヘンリー・フォールズ住居跡の碑が。ヘンリー・フォールズは宣教医でした。
進んだ医療で奉仕することで宣教を進めていこうという方針が、開国されたばかりの日本では採られました。日本の近代化に大いに貢献してくれたことでしょうね。
慶応義塾発祥の地碑
駅の方に向かいながらチラ見したのが慶応義塾発祥の地。福沢諭吉はクリスチャンではありませんでしたが、大学には多くの宣教師を教師として雇い、彼らが聖書を教えることを容認しました。
それで慶応では初期から受洗希望者が何人も出ました。憲政の神様と呼ばれる尾崎行雄もその一人です☆
救世軍渡来記念の地碑
そろそろ時間だねと言うと、Y子が「私の会社の近くにも興味持ってくれそうな物がありますよ」と。
では行ってみようということで、新富町駅方向に向かって行くと、京橋税務署の向かい側の歩道に「救世軍渡来記念の地」の碑が! すごい私の興味関心のど真ん中です
\(o ̄∇ ̄o)/
「一八九五年(明治二八年)九月英国より来日したライト大佐一行はこの地に日本最初の本営を設け救世軍活動を開始した。一九九五年九月日本における救世軍創設百年を記念して設置する。救世軍本営」と書いてありますね。山本軍平の揮毫で「先ず人を造れ」とあります。胸に響く言葉ですね。
築地本願寺
仕事に戻るY子と別れ(Y子は私の夫と同郷で仲がいいのですが、私のことを「つむじ風のように来て去っていった」と言っていたらしい^^;)、一人でもう少し築地散歩を。
インドの寺院のような築地本願寺を横目に、築地市場へと向います。グルメ番組でお馴染みの築地市場ですが、私は行くのが初めて。グルメに縁がなかったせいですね。
浴恩園跡
築地場外市場の賑わいをかき分けて、突き進んでやって来たのは築地市場の正門。もうこの時間は仲買人とかもいなくて閑散としています。
しかしそれが狙いだったんですね。見つけました、「浴恩園跡」の解説板を!
浴恩園とは寛政の改革で知られる松平定信の下屋敷に造られた庭園。ですが下屋敷になる前は、小田原藩の江戸屋敷があったのだとか。
そしてその頃キリシタンだと訴えられた布施彌一右衛門という、小田原藩稲葉氏の家臣が取り調べのために江戸に送られ、1648年に斬首されているのです。処刑地が藩の屋敷内であったかどうかは分かりませんが、まず小田原からここに来たであろうと考えられます。それで来てみたんですね。何かヒントでもないかと思って。まあ、「浴恩園跡」であることだけでもはっきりして良かったですかね☆
築地場外市場
昼時を過ぎても尚混雑する築地場外市場の人波を眺めつつ、食べ物や見るものなど、一瞬の楽しみのために生きている人がこれほどまでに多いのかと感じました。
築地市場は移転することが決まっているけれど、どうなっていくんでしょうね。それに応じてもっと享楽的な施設が作られて、そこに人も向っていくんでしょうか。
そういうことは江戸の昔からきっと変わってないんだろうな...( ̄∧ ̄)
築地小劇場跡
少し遠回りして築地駅に向いつつ、築地小劇場跡を見学。土方与志(ひじかた・よし)と小山内薫が1924年に開設した日本初の新劇の常設劇場です。
小山内薫はクリスチャンですね。演劇という点でも親近感がわきます。味わいある「築地小劇場跡」の文字は、作家の里見ク(さとみ・とん)の揮毫です。
里見クはクリスチャンではありませんが、実兄で同じく小説家の有島武郎はクリスチャンでした。クリスチャンだったのに、キリスト教で禁じられている自殺を、それも不倫の末に女性と心中してしまったんですけどね。そんな兄のことを里見クは「兄貴ははあんまり女を知らないからあんなことで死んだんだ」と言っていたそうです。即物的な考え方ですね。
築地小劇場跡 |
築地小劇場について |
恵比寿でティータイム
電車で恵比寿に移動して、友人Mとお茶しました♪
Mは世田谷の実家から自転車で来たというから驚きです。どんな体力してんねんと、うらやましいやら呆れるやら。うん、でもやっぱりうらやましいですね。東京の坂も交通量もものともしない体力とバイタリティーを持ちたいと思いながら、熱いお茶をすすりました(* ̄ー ̄)
機会があることが幸いなこと
都内が遠いという距離に住んでいる訳ではないけれど、Y子やMに会いましょうと言われてこそ行き、それならついでに近くの興味ある所にも行ってみようと思うので、機会があることが幸いなことだと思いました。
何か特別な取り柄があるのでもない、私のような者に会いたいと言ってくれる好意に感謝したいですし。だけれどいつも興味があるとおりに誘われるとは限らないので、やはり主体的に動く姿勢も必要ですね。
幸いを喜びながら、自分でも機会を作りながら、都内の膨大な史跡を諦めずに踏破して行きたいと思います ( ̄‥ ̄)=3
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