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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 切支丹の江戸 part4


今日は殉教地めぐり友だちのM子ちゃんと都内をめぐります。東北から始まる私の殉教地めぐりで、最初から共にしてくれた人ですね。
NHK朝ドラの「マッサン」ゆかりの場所にゴーです ρ(^-^*)ノ


日本聖公会 東京聖三一教会


「マッサン」を知らない人のために解説しますと、このドラマは「マッサン」こと竹鶴政孝とその妻リタをモデルにした物語で、日本初の国産ウィスキーを開発した竹鶴政孝とそれを支えた妻とが温かく描かれています。

NHKの朝ドラ史上では、外国人が主役級となるのが初めでだということでも話題になりました。私はちゃんとは見ていなかったんですけどね (^^;)

だけどこのリタさんがクリスチャンで、しかもかなり熱心に信仰的に生きた人だということで、M子ちゃんはとても関心を持っていて、私も感化される形で追うようになったのです。で、今日最初に訪れるのは、竹鶴政孝が晩年に通い洗礼を施してもらった教会。世田谷区にある東京聖三一教会です。周囲は高級住宅街で、よそ者は入って行きにくい感じです。

聖堂内


教会に入って行くと、チャプレンが迎えて下さり、いろんな話をして下さいました。

リタさんは宣教師と言ってもいいくらいの働きをした人だということや、竹鶴政孝の洗礼は、「死んだら妻と同じ所に行きたい」と願う政孝の意志を、義理の息子が汲んで、臨終の間際にチャプレンを病室に呼んで行われたものだったことなどです。

ドラマにあやかって各種の本が出されるようになり、この教会にも出版関係者が取材に訪れるのだとか。国際結婚が今とは違って大変珍しく、戦争もあった時代なので、日本を故郷としたリタさんは苦労が多かったでしょうね。クリスチャンの生き方が多くの人に知られ、教会に通う人が増えればいいな♪


東京聖三一教会

教会案内

東京聖三一教会

狛江の泉龍寺


それでは次は私の趣味の領域へ。小田急線に乗って狛江の泉龍寺に向います。

長い参道と広い境内、鬱蒼とした木々など、かなりの由緒なんだろうと思いますが、私は学生時代、狛江の隣駅に住んでいましたが、この寺のことを全然知りませんでした。まあ、私にはよくあることですけども (;´д`)

さて泉龍寺に来たのは、島原の乱の第一次追討使の目付、石谷貞清(いしがや・さだきよ)の墓を探すため! 早速墓域に行ってみましょう。

「石谷」という特徴ある苗字なのですぐに見つかるかと思いきや、石谷さんの多いこと・・・。あっちにもこっちにも石谷さんがいます。きっとこの辺りの名家なんでしょうね。聖母の騎士誌に載っていた写真を参考に、五輪塔型の墓を探し回ってみましたが、発見には至りませんでした。考えが甘かったか。。この中にあるんだとは思いますけど。


石谷さん

石谷さん

泉龍寺

正信寺が見つからず・・・


仕方ないので六本木に向かい、次なる目的地、正信寺を探しましたが、今度は寺さえも見つけられませんでした。ただこっちの場合は、住所の場所に寺がないので、どこかに移転したか、無くなった(他の寺に吸収合併された)のだと思われます。

ちょっとアヤシイお店が入る雑居ビルとなっています。ビルの名前に寺名の名残が見えるので、もしかしたら今も何らかの関係がある・・・のかな? 何とも言えませんけど。

キリシタン武将 パウロ明石内記


ここにあった寺に葬られたのが、パウロ明石内記というキリシタン武将です。明石内記の父は明石全登(あかし・たけのり)という、武将としてもキリシタンとしても有名な人で、それゆえ一家はキリシタン一家でした。明石全登は宇喜多秀家の重臣で、義弟でもあったので、当然関ヶ原の戦いでも西軍につき敗れました。

後に豊臣方の残党狩りにあい、仙台領で捕まって、江戸に送られる途中で病死しました(一説には舌を噛んだとも)。なので正信寺がここにあった時代でも、明石内記の墓や位牌はなかったそうですから、寺が見つからなくても問題ないですね。

少し歩いて六本木墓苑という、正信寺など五ヶ寺の共同墓地も見てみましたが、新しいもので当然何の痕跡もありませんでした。たぶん明石内記の肉体の欠片は六本木駅近くの雑居ビルの地下に眠るか、工事の際に残土として持ち去られたことでしょう。


六本木墓苑

六本木墓苑

インターナショナル・クリニック


外交史料館に行こうと向っていると、交差点でインターナショナル・クリニックを発見。この病院、見たことがあります。

ドクター・アクショーノフという無国籍のお医者さんがやっている診療所で、長きにわたり日本に暮す外国人を診てきたのだと。

少し前に亡くなったとニュースで流れていたけれど、まだクリニックはあるんですね。そのうち取り壊されそうな感じですけど。確かアクショーノフ氏は両親がロシア人なので、宗教的にはロシア正教徒だったかと。クリスチャンだから国籍は天にあると考えていたかもしれませんね。


外交史料館別館


では外交史料館の別館へ。ちょっと門を入って行きにくい感じがありますかね。今日はM子ちゃんの情報により、ここで「マッサン展」がやっているとのことで来たんですが。

中に入ると吉田茂像が出迎えてくれて、受付の警備員さんに来意を告げるとすんなり入れました☆


「マッサン展」

「マッサン」とは

竹鶴政孝の資料

竹鶴政孝の資料

展示室


展示室は壁の常設展示と、ガラスケースの特別展に分かれていて、竹鶴夫妻の資料も興味深かったですが、それ以外の常設展示部分に大いに関心をそそられました。

日本の外交資料がどどんと並んでいるのですが、どれも本物で、そんじょそこらじゃ見ることができないような歴史的品々です。

日米修好通商条約というものが結ばれたとかは学校で習うけれど、その実物を目にすることは滅多にない経験です。何か興奮してきます (゜0゜*)


日米修好通商条約

金時計とメダル

遣米使節に贈られた

リンカーンの親書

ナポレオン三世親書

岩倉使節団

日朝修好条規調印書

日露講和条約調印書

降伏文書


講和条約の調印書だなんて、それで戦争が終わったということですよね。

そんなすごいものを間近に見ちゃっていいのかしらと思うくらいです。

こちらは第二次世界大戦の降伏文書。1945年9月2日に調印されたことがわかります。こういう文書に調印して、戦争が終わるなど歴史の区切りがつけられていたんですね。歴史を「生」で見たような感じです。


降伏文書の解説

署名時の写真

対日平和条約調印式

受諾の演説原稿

外交史料館本館


外交史料館別館の展示は、興奮を通り過ぎてショックですらありましたが、眩暈を感じながら本館へ。外務省飯倉公館を挟んだ所にあります。

受付で名前を書いて入館証をもらえば入れるので、こちらも意外と警備は厳しくないような。どこか緊張する雰囲気は漂ってますけど。

こちらでは奥には入れなくて、公開されているのは入ってすぐのロビーの展示だけでした。訪れた時は杉浦千畝関係のものがメインで、複製が大半ですがかなり精巧な複製なので、すごくリアルです。外交の現場ってこうなんだなと、片鱗を感じました。

こんな勉強になる所、もっと皆来てみるといいのにと思いました。特に外交史料館別館の常設展は、エブリ日本人カモン!といういう感じです。


旅券の変遷

杉浦千畝について

ヴィザ・リスト

ヴィザ発給に関する電報

麻布


麻布という街があることは知っていたけれど、こんな所歩いたことなかったなと思いながら、外交史料館よりも大きな麻布郵便局を横目にてくてく。

視線の先には東京タワー。日本の中心を闊歩してるんだという晴れがましい気持ちが、特権階級に属しているような錯覚を生みます。いかんいかん、政治家や役人もそんな気持ちになって道を踏み外した人が多くいるのかも。


一乗寺


さて、やって来たのは一乗寺という小さなお寺。ここにキリスト教禁令が出されるきっかけとなった、岡本大八事件の当事者の墓碑があるということで。

きっと墓地を探し回るんだろうなと覚悟していましたが、すんなりと目指すものを見つけられました。家康の重臣の一人であった本多正純の墓です。

本多正純の墓碑


本多正純の家臣であった岡本大八がキリシタンで、キリシタン大名の有馬晴信から賄賂を受け取ったことが明るみに出て、しかもそれが本多正純の名前を使った詐欺だったことから、家康が激怒したのが岡本大八事件。

双方がキリシタンだったことから、家康は元々嫌いだったキリスト教を更に嫌悪し、2人を死罪にし、禁教令を出しました。この事件の際は、本多正純が処分を受けることはなかったのですが、その後家康が死去すると幕府内の権力闘争に負け、改易されました。

秋田の佐竹氏に預けられ、横手城下に息子と共に幽閉されたままこの世を去ったのですが、死後も墓を建てることを許されず、270年経った1910年になって、この寺に遺髪を納めた墓が建てられたのです。

だけれど元大名だったとは思えないような、薄っぺらい墓碑です。旧家老の西島家の墓域内にひっそりと建てられていますし。キリシタンには割と好意的な人だったんですけどね。いや、好意的だったから小さくても墓を建てて供養してもらえたのか・・・☆


西島家の墓域

本多正純の墓

本多正純の墓

本多正純の墓

麻布小学校


地下鉄駅に行こうと道を戻っていると、曲がり角に小学校が。時々すごい都会にあったりしますね、公立の学校って。

名前も「麻布小学校」だなんてカッコいい。解説板があったので読んでみたら、紀州徳川家の屋敷跡だそうな。

明治大正期をここで過ごしたらしいけれど、王政復古の世界でどう生きようと考えていたのか・・・。模索していたでしょうね。


紀州徳川家屋敷跡

イグナチオ教会の鐘楼


M子ちゃんに付き合ってもらって四ツ谷に来て、上智大学とイグナチオ教会を軽くご案内。聖三木図書館の司馬遼太郎の手紙も是非見せたくて♪

2人でお祈りして一日を終えました。今日も守ってもらって感謝です L(´▽`L )ウハー



自分が暮している所が遠藤周作が暮していた所との近くだと知ったのは、長崎旅行ででした。遠藤周作の住所が書かれた手紙をコルベ神父の記念館で見て。それ以来行ってみようと思っていた所に、今日は向かいたいと思います♪ ついでに町田市の遠藤周作ゆかりの地も訪れることにしましょう ('-'*)


遠藤周作の住んでいた家はいずこ?


その住所を車のナビに入れ、素直に来てみたところ、ここに到着しました。町田市の住宅街の真ん中で、最寄駅の玉川学園からも徒歩でちょっとありますね。坂ですし。

遠藤周作は歩くのが嫌いじゃなかったようですね。環境はいいと思います。

ここは遠藤周作の終の棲家ではないのですが、創作活動で一番脂が乗っていた頃の住居だと思います。


玉川学園駅前の道


続いて遠藤周作が利用していた駅へ。小田急線の玉川学園駅です。

周作は駅周辺の桜並木がお気に入りで、桜の季節になると、知人を招いて花見をしていたのだとか。

今は桜の植え替えでもしたのか、あまり立派な木はありませんね。街はきれいですけど☆


町田ドライヴィングスクール


そして町田ドライヴィングスクールへ。周作が運転免許を取った自動車学校です。

以前は南大谷自動車学校という名前だったようです。建物等も新しいので、リニューアルされたんでしょうね。

仮免のための練習は、町田駅の方にあった障害者のための自動車教習所で行っていたようですが、そちらは今はありません。


本町田遺跡


どんどんいきましょう。実際に暮していたのだから、周作の痕跡は数多く残されています。現代の人ですし、作家なので書かれたものからいろんな行動がわかりますので。

こちらは本町田遺跡。町田市史を読んで探検に行ったということです。周作は歴史全般に興味があり、身近な所にある史跡に想像力を刺激された話がエッセイに頻繁に出てきます♪

復元住居入れます!


たぶん周作が訪れた頃にはこんなに整備されていなかったろうと思いますが、今はとてもきれいな史跡公園になっています。

復元された住居には入れますし!

休憩所みたいな小さな資料館もあって、発掘品が展示されています。こちらも新しくてきれい。勉強になりますし、公園みたいな感じで気軽に立ち寄れるのがいいですね ヽ(‘ ∇‘ )ノ


本町田遺跡

復元住居内

資料館

縄文時代の出土品

町田代官屋敷跡


周作は町田市史を結構詳しく読んでいたみたいで、町田代官屋敷跡にも町田市史を見て来てみたそうです。

今は非常に排他的な雰囲気が漂っていて、「近づいて来るな!」という感じですね。

一般の人が住んでいて、よほどちゃんとお願いしないと見学させてもらえなさそうです。


町田代官屋敷緑地保全地域

町田代官屋敷跡

町田代官屋敷跡

日本基督教団 鶴川教会


せっかく町田市の深い所まで来たので、教会も検索して寄ってみました。日本基督教団の鶴川教会です。

建物が立派で驚きました。高級マンションみたいな建材で建てられていて、植栽までがプロっぽいです。

信徒さんの中にその道に長けた人がいるんですかね☆


小山田城跡


では周作がやはり町田市史で興味を持って訪れた小山田城跡へ。現在は大泉寺というお寺がある周辺が小山田城跡です。山門が素晴らしいですね。

正に「古刹」といった趣き。森閑とした参道も心が洗われる思いがします。

現在は大泉寺


お寺の本堂はコンクリート製で無機質な感じですが、耐震や防火という面ではいいんでしょうね。

古い歴史を物語っているのは、境内の斜面に残る石造物やお墓。

大泉寺の裏手には本郭などが残っているようですが、基本的には立ち入り禁止になっているんだとか。ちゃんと連絡して許可をもらえば大丈夫なんでしょうけど、境内だけで私は満足です。「城」と言っても平安末期のことですから、居館のような建物だったんだろうなと、頭の中でイメージして楽しみました (ΦωΦ)


小山田城跡

小山田城跡

お墓

石造物

桜美林大学


町田の中心部に戻っていたら、桜美林大学の前を通りました。キリスト教系の学校ですね。

創設者で初代学長でもある清水安三は、中学時代にウィリアム・メレル・ヴォーリズの感化を受け、同志社大学神学部に進み、卒業後、日本人宣教師第一号として組合教会から中国に派遣された人物。

北京の朝陽門外に貧しい少女たちのための学校、崇貞平民女子工読学校(後に崇貞学園と改名)を設立しました。

清水安三と「桜美林」


崇貞学園が日本の敗戦により中国政府の接収となり、日本へ引き揚げてきた清水安三は、戦争で荒廃した日本で再び教育活動を再開することを決意し、1946年に桜美林学園を設立しました。

「桜美林」という名前の由来となったのは、フランスの牧師で教育者だったジャン=フレデリック オベリン。まさかフランス人の名前だとは・・・。オベリンの教育理念と実践を、当時校舎を取り巻いていた桜をヒントに、オ=桜、ビ=美、リン=林と当てはめ、「桜美林」としたそうです。

清水夫妻はアメリカのオベレンカレッジで学んだ経験があったので、そのキリスト教的思想と精神を生かしたいという思いがあったんでしょうね。清水夫妻は今でも中国で教育の恩人と尊敬されているそうです☆


高ヶ坂熊野神社


では町田市内中心部をもう少し回りましょう。高ヶ坂熊野神社です。

遠藤周作はやはり町田市史を読んで探検に訪れました (^^;;

ご近所ですからね、何かのついでに寄ってみることもできたんでしょう。

高ヶ坂熊野神社

高ヶ坂熊野神社

町田天満宮


こちらは縁日に訪れた町田天満宮。遠藤周作はカトリックのクリスチャンだけれど、ガチガチな、他を否定するような人ではなかったようですね。

クリスチャンでガチガチな人は神社参拝を嫌ったりしますので。日本的なものが自分の底辺に流れていることを意識しつつ、キリスト教に向っていたのではないでしょうか。


町田ことばらんど


そして町田ことばらんどへ。今日はここで遠藤周作「侍」展を見ます♪

「侍」は、伊達政宗によって遣欧使節としてヨーロッパに派遣された、支倉常長をモデルとした小説です。

小説のラスト、肝になるところを、周作が書き直していることに、非常に興味をそそられました。そこに周作の思想が表れている気がして。

この小説の最後は、少々尻切れトンボのような感じになっているのですが、それが意図的なもので、周作が一番悩んだ点だったことがわかります。大幅にカットして尻切れトンボ状にしたことが周作の信仰観を物語っているのだと感じました(読んだことない人には分かりにくい文ですみません;;)。

町田ことばらんどには周作の蔵書が寄贈されていて、入口前に置かれている像は、周作の別荘に置かれていたものです (´▽`*)


乾物屋


ではついでに町田駅周辺も歩きながら、周作の姿を追ってみましょう。

こちらの老舗乾物屋「河原本店」は、周作が散歩の途中、店先をひやかすのが好きだった店。現在も盛業中です☆


久美堂


駅前の「久美堂」はよく立ち寄った書店。ここで作品にインスピレーションを与える本や資料を見ていたんだと思うと、すごく身近な感じがします。

私にとって遠藤周作は、とても偉大な人で雲の上にいるイメージでしたが、立ち寄った本屋とかがあると、普通に生活してたんだなと思います。


町田POPビル


踏み切りを渡って町田POPビルへ。昔はここにボウリング場があり、周作は一時期ボウリングにハマって家族で訪れていたんだとか。

ますます普通に暮してた感じがしてきました。普通に家族サービスして、普通に流行にハマって・・・。


「やきとり鳥長」跡


最後に周作が数人で訪れて「鳥長はうまい」と色紙にしたためたという、「やきとり鳥長」の跡へ。何の因果か現在も焼き鳥屋が営業しています。

店名も違い、焼き鳥にあまりこだわってない風なので、経営者は替わってそうですけれど。でも周作が生きて暮していたということが、体温まで伝わってくるようなリアルさで感じられました。

誰かのことを考えながら追うことで、時間を超えて感じられることがあるというのは、私にとって福音(大袈裟かもしれないけれど)ですね♪




人はニ度死ぬ


「人はニ度死ぬ」と云います。
肉体が死ぬ時と、人の記憶から忘れ去られる時がそうだと。
人間が長生きして100歳、子孫がいる人はそれから50年くらいは覚えていてもらえるでしょうか。

頑張って業績を残しても、よほどの人でなくては100年は覚えておいてもらえないでしょう。何が言いたいかというと、それだけを考えていては虚しいということです。最近人生の虚しさについてよく考えます。

たった一回の人生で、自由に活動できる時間は数十年に限られるのに、人の思惑や移り変わる物事に捉われて肉体志向で物質的に生きてはいけないなと思います。肉体はちゃんと生かさないといけないけれど、基本は精神志向で。

人生が虚しいことを覚悟しながら、その本質たる不可逆性にビビリながら、毎日を選択していこうと思う今日この頃です。人生の秋を迎えているから、こんなこと考えるのかな。。('-'*)







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