大阪女学院
次に見えてくるのは
大阪女学院。ここまで来るとプロテスタント系の街になるようです。
実はこの場所は前田利家の邸跡で、前田利家終焉の地でもあります。前田利家は五大老に列せられ豊臣秀頼の後見人を任じられた人ですね。
秀吉の死後、徳川家康が勢力拡大を図るなか仲裁役として尽力ましたが、秀吉の死の8ヶ月後に大坂の自邸であるこちらで病没しました。この頃高山右近は前田家に身を寄せていたので、右近もここに来たことがあるんじゃないかと思います。
前田家の姫たちと細川家
ここでちょっと面倒くさい人物相関図をご紹介することをお許しください。前田利家の四女が宇喜多秀家の正室だったと書きましたが、利家の七女は細川忠隆(ガラシャの長男で嫡男)の正室として嫁いでいました。石田三成が細川邸を取り囲んだとき、その中にはガラシャらと一緒に七女の千世がいたんですね。
千世は姑ガラシャと運命を共にしようとしていたんですが、近所の宇喜多家に姉の豪が嫁いでいるじゃないですか。豪が言うんです。「こちらに逃げて来なさい」と。千世はガラシャに逃げようと持ち掛けますが拒ばまれて、結局自分だけが宇喜多屋敷に逃げ延び、その後実家である前田屋敷へと移りました。
それを後で聞いた細川忠興は激怒。「玉が死んだのにオマエの嫁は何で生きてる!離縁しろ!」→
長男「ヤダ」→廃嫡。
こういうのをお家騒動といい、江戸時代ならお取り潰しもあり得る危険なやつです。忠隆は剃髪して隠居し、千世を離縁して前田家に返しています。結局離縁したのだから、離縁自体が嫌というより、父忠興のやり方が嫌だったのでしょう。
ガラシャの子供たち
長男が廃嫡されて、お鉢が回ってきたのが三男 忠利でした。次男の興秋は忠興の弟 細川興元の養子になっていて、そちらの家を継ぐことになっていたのです。江戸で忠利は人質生活をしていたのですが、呼び戻されることに。しかし代わりの人質が必要となり、忠興は次男の興秋を送ることに決定。
これを「あり得ん!」と憤った興秋は、江戸に向かう途中で出奔し、大坂の陣では豊臣家に味方し大坂城に入城。これを「あり得ん!」と怒った忠興により勘当され(皆短気過ぎるよ!)、興秋は大坂城落城の際逃げ延びたのに、忠興の命により自害させられました。
それで兄たち2人がいなくなって、三男の忠利がめでたく細川家を継ぎました…って、全然めでたくないですよね (~_~;)コワイワ-
ちなみにガラシャがもうけた三男二女の中で、洗礼を受けたのは女の子2人と興秋の3人。興秋の養子先の興元もキリシタンでした。次男の興秋を飛び越して三男
忠利が家督を継いだのも、キリシタンだったことが少しは関係していたかもしれませんね。
この時代キリシタンであるということは、信仰より政治的な意味合いとして取られることが多かったのかと思います。