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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 西国街道のラウダーテ vol.2


「泊めてくれてありがとう♪」と、Aにお礼を言って神戸に向かい、大阪の隠れキリシタンⅢでお世話になったSさんと合流。ランチ後、岡山へ向かう予定です。

思えば昨日からずっと26聖人と同じ路程を歩んでいます。大阪から堺へ往復したところまで一緒です。そしてこれからもっと同じ道を行くのかも…と、姫路を通過するとき気付きました。何か意味があるのかな? 悟りを乞い願いながら西へ☆



桃たろうポケット


岡山駅に着いて路面電車で予約した宿へ。今回は2泊します。

そもそも今回の旅行のきっかけになったのが、岡山で行われる歴史イベントなのです。RSK放送の番組公開収録に当たり、やって参りました。

Sさんに勧められ新幹線で来たので少し時間が余り、明日行こうと思っていた所に行くことに。トコトコトコ…(^▽^)ノ

人気の少ないアーケード街の一角にあるここ「桃たろうポケット」なる所がかつて町会所があった場所で、26聖人が宿泊したかもしれない場所の一つですね。宿泊と言っても宿屋とかではなく、牢ですけど。町会所には町奉行や同心などが詰めており、牢も敷地に備えられていました。

私が優れモノだと思っている、日本カトリック司教協議会推薦「日本二十六聖人 長崎への道 巡礼マップ」には、岡山では岡山城内に宿泊しただろうと書いていあるのですが、城内ってことあるかなーと思い。


 

桃たろうポケット

鐘撞堂

解説

アーケード街

京橋


収録が行われる岡山市民文化ホールへは路面電車駅から1分なのですが、満員電車が予想されたので、徒歩で向かうことに。

「桃たろうポケット」に寄りながら30分ほどでしょうか。途中、趣ある橋があったので写真を撮りましたけど、後で調べたらこの京橋を26聖人は渡って城下に入ったようです。

土地勘がなくて位置関係も分からずに来たのに、偶然にも同じルートを通っていたなんて。川の水は空を映した緑色。当時はどんな色をしていたんだろう。通って行ったのは1597年のことだから、ちょうど420年前のことですね。



京橋の石標

解説板

京橋

水管橋

旭川


京橋と一緒に水管橋もかけられていて、それが国の登録有形文化財なのだと解説板に書かれていました。

旭川の右手に見えるのが岡山市民文化ホールで、左手奥にあるのが県庁ですかね。

城の真ん前に当たる県庁の場所は昔、池田輝政の命を助けた番藤右衛門(ばん・とうえもん)の子孫、番家の屋敷があった所です。


池田家の存続


池田家は1584年、小牧長久手の戦いに秀吉側として参戦しました。総大将・豊臣秀次と共に、駒を進めましたが、家康側に奇襲されて敗走。先方隊が池田隊に攻め込み死闘を繰り広げました。この際に池田輝政の父・恒興と兄・元助は討たれ、首を取られました(この時代の戦って「首を取る」とか本当に怖い;;)。

輝政も敵陣に後を追って切り込もうとしましたが、馬の口を執っていた蕃藤右衛門が「ここで主君を死なせるわけにはいかない」と馬の口を離さず、それで輝政は生き延びるようになったのだとか。一説には「お父さんもお兄さんももう逃げましたよ。さぁ、早く逃げましょう」と騙したとも。

輝政は怒って鞭を振るって番を血だらけにし、その後も加増しませんでしたが、若き主君が生き残ったことを他の家臣たちは喜び、輝政の跡を継いだ利隆の代になると、番家は取り立てられ、家老に遇されました。

それで城から近い一番いい場所に屋敷を構えるようになったんですね。池田家の存続をもたらしたことも重要ですけど、人の命を救ったこと自体がとても大きな功績だったのかもしれません ( ^ω^ )



岡山市民文化ホール


岡山市民文化ホールで行われたのは「歴史トーク&講演」。講演の方は研究者による専門的なもので、少々取っつきにくかったですが、歴史トークは私のようなゆる系歴史クラスタでもついて行けるレベル設定。

最近よくテレビで見かける磯田道史と岸井成格、小日向えりの三人が集まり、宇喜多秀家にまつわる秘話を語るというもので、会場は盛り上がっていました。特に当地出身の磯田道史の岡山史跡に対する愛が激しくて、笑いを誘うほど。こういう地元愛溢れる講演は、現地に行かないと聞けないなと思いました。

ロビーには磯田道史が持参した池田家の殿様たちの書や日本画が展示されていました。「ガラスケース無しで見られますから、是非見て行ってください」と言っていました。これを見ると、四代目以降は池田家は安泰の時代に入り、藩主は殿様芸に邁進したんだなと感じます。平和きたれり☆



歴史トーク

藩主の書状

藩主の書

藩主の書状


 岡山城へ行ってみよう☆


京橋の橋脚


講演が終わって、まだ明るかったのでお城の方に行ってみることに。川沿いの散策路には詩碑や解説板などがあります。

中にはちょっと?なものもあって、世界で初めて空を飛んだのは岡山の表具師だったという大きな石碑も。

岡山市長「世界で初めて空を飛んだのは岡山の表具師幸吉です!」ライト兄弟「えっ?」幸吉「わし?」…って感じではないかと (;^_^A



詩碑

電信発祥の地

世界初の飛行

夏目漱石が滞在

モニュメント


岡山城と県庁を結ぶ所にはモニュメントが。岡山市は城と後楽園を中心に観光に力を入れているのに、駅周辺の商業地に人が多く、観光地にはあまり人がいないのが不思議。

この辺りは藩の家老クラスの屋敷があったようですね。伊木家屋敷跡の解説板があり、幕末の岡山藩筆頭家老 伊木忠澄(いぎ・ただずみ)の写真が載っています。

幕末から明治への転換期に、藩の新しい体制を模索して奮闘した人ですね。どうして幕末ファンが多いかというと、こういう忠臣がいて、理想を掲げる若い人がいて、それぞれが熱く駆け抜けた時代だからなのでしょう。今もそういう転換の時代なんですかね? もう少し後の時代の人から見たら。


伊木忠澄と浦上キリシタン


およ? よく見たら、伊木忠澄が藩政を仕切っていた頃に浦上キリシタンが岡山に流配されて来ていますね。これは予想外の発見。忠澄は1869(明治2)年、一旦引退するも、1871(明治4)年2月に岡山県大参事となり、11月に辞職しています。

一方浦上キリシタンはというと、岡山藩預けの117名は、1870年1月(明治2年12月)に長崎を出て岡山に到着。飢餓に苦しめられ10か月で4人が死亡し、40人が改心(棄教)を申し出ました。その後鶴島という不毛の地で強制的に開墾をさせられ、更に13人が死亡。長崎への帰還が許されたのは1973(明治6)年のことでした。

ばっちりかぶってます。しかも忠澄がしていた大参事って、今でいう副知事ですから、職務上知らなかったはずがありません。長崎の信徒を流配するに当たり、各藩に受け入れの可否を予め問うたのですが、その際に「可」の意思決定をした過程にも忠澄が関わっていたことでしょう。ここも浦上キリシタン関係地なんですね。



県庁

伊木家屋敷跡

伊木家屋敷跡

岡山城堀

橋を渡ると岡山城


さて橋を渡ると岡山城です。左右は水をたたえたお堀。絵になりますけど、天守が見えてくるのはもっと先。

岡山城の天守は1945(昭和20))6月29日の空襲で焼失してしまい、現在はコンクリート造のものが建てられているのだとか。

一度は見てみたいと思っていても、用がないとなかなか。日が長い時期に来たおかげで見られるようになってラッキー♪



烏城公園

大石

大石の使用

解説板

案内図

巨石の石垣

解説板

小早川秀秋の石垣


岡山城を築いたのは宇喜多秀家。父 直家が築いた石山城を二ノ丸内郭にして、新しく本丸に天守を築きました。

秀家は築城と同時に城下町整備も進めましたが、関ヶ原合戦に敗れて八丈島流罪となりそこで生涯を閉じました。

そこへ入城したのが、関ヶ原合戦で寝返って勝者となった小早川秀秋。わずか1年10か月という短い在城期間でしたが、城と城下町の改造を積極的に行いました。

次いで城主となった池田氏が明治に至るまで岡山藩を治めました。だから城内には宇喜多時代、小早川時代、池田時代の石垣が残っていて、それぞれの特徴が見どころとなっています。こちらは小早川秀秋の築いた石垣。若い藩主の勢いと不安定さが見え隠れしているように思うのは、その末路を知っているからでしょうか。



小早川秀秋解説板

月見櫓

石垣

池田氏時代の石垣

天守が見えた


ようやく天守が見えてきました。記念写真ポイントですね。近所の人が散歩しているだけで人影はまばらです。心ゆくまでアングルを探せるのはいいですけど。

宇喜多秀家はイケメンで秀吉にも贔屓にされ、五大老の一人に任じられた人物。飛ぶ鳥を落とす勢いだった秀家の運命が傾き始めたのは、宇喜多騒動の辺りからか…。


廊下門


関ヶ原では豊臣一門だった小早川秀秋が裏切ったせいで、西軍は総崩れとなり、宇喜多勢は壊滅。

激怒した宇喜多秀家が「おのれ秀秋!」と小早川の陣に切り込もうとしたのですが、明石全登に制止され、九州に逃れました。

宇喜多秀家はその小早川秀秋に城まで奪われていたんですね。八丈島で長生き(島で50年ほど暮らした)した秀家は、秀秋の岡山入城と死をどんな思いで聞いたんだろう。


廊下門解説板

狭間

表書院解説板

表書院跡

宇喜多時代の石垣

案内板

不明門

不明門解説板

岡山城天守


不明門をくぐると、のっぺりとした岡山城天守が出現。

これ、CGじゃないですよね?

何かキレイ過ぎて歴史が刻まれている感じがしなくて、バーチャルリアリティーで見ているような…。

防火や耐震のため鉄筋コンクリートで造るのはやむを得ないとしても、どこかにもう少し時代を感じさせる工夫があってもいいんじゃないかと思ってしまいます。この建物は城というより、お城風ビルディングですね。それでも何にもないよりは再建天守があるのは良いことですね☆彡



岡山城天守

天守の礎石

天守の礎石

文化財指定の門


 ここからはキリシタンを求めて・・・♪


右手は岡山後楽園


では城を後にして…と言いつつ、まだまだ昔は城内だった所ですが、夕景を眺めながらお散歩気分で歩きます。

右手に見えるは岡山後楽園。もう閉門時間過ぎているので、本日はスルーです。ここらが観光のメインなんでしょうけど、私の関心はどちらかというと城下に。

体力のもつところまでキリシタンの足跡を追ってみることとましょう。


池田光政隠居所跡


烏城みちを行くと、池田光政隠居所跡が。ここが昔は二ノ丸西丸で、引退した池田光政が暮らしていたそうな。

光政は池田輝政の孫で、初代岡山藩主ですね。祖父・輝政と父・利隆の時代は姫路藩主ですので。

家督を継いだ光政は岡山藩主になる前は、播磨姫路藩主、因幡鳥取藩主を務めていました。

この人の治世は将軍家光と重なるので、キリシタン衰亡のときですね。信徒を牢に入れたりしたかもなぁ。



池田光政隠居所跡

解説板

古地図

烏城みち

評定所跡


方向音痴を発揮して迷いましたが、親切そうな人に尋ねて分かる所に復帰。ちょうど行きたい場所に出ました。

こちらが日銀岡山支店。そこから道を挟んだ北側の一帯が評定所の跡地です。

評定所は藩の司法をつかさどる機関。民事裁判もそうですが、罪人の取調べなどもしました。キリシタンの嫌疑をかけられた人なら、ここに呼び出されお裁きを受けたことでしょう。

そういう司法機関には未決囚を入れておく牢もあったと考えられるので、そこに26聖人が宿泊した可能性があります。「日本二十六聖人 長崎への道 巡礼マップ」の「岡山城内に宿泊」というのも、ここまで城内に含めてのことであれば納得。行政機関がある〇〇丸は城内と考えてもいいですからね☆



日銀岡山支店

日銀岡山支店の北

評定所の跡

評定所の跡

西丸西手櫓


少し進むと西丸西手櫓。去年一人で来たなー。今年も一人だけど (^-^;マケナイモン

つまり、ここまで西丸だったということですね。西丸は光政の隠居所があった所です。さっきの評定所跡は道一本隔てているから城内と言えるか微妙ですけども。

しかしまぁ、かなり核心に迫っていると信じて、ここらで情報を整理してみましょう。


26聖人の宿泊地はどこ?


26聖人の宿泊地候補としては、①岡山城内の牢屋、②町会所、③評定所、④法界院を挙げることができます。「長崎への道 巡礼マップ」では①と④を採用していて、④のことはキリシタンと関係がある寺院だからとしています。しかし私が調べた限り法界院はキリシタンと関係があるようには思えなくて、場所も城下から随分と離れていて不適当だと思います。

③の評定所跡は「城内」とは言えなくても、「西丸と近接した城下」にあったので、①と③が同じである可能性もあり、その場合はここで問題解決です。②の町会所はそこへと信徒を引っ立てた役人が詰めていた所で、他の行政機関に身柄を引き渡す際に、牢屋が一時的に使用された可能性もあるのではないか?

…というので、どうでしょうね。確かなことは、岡山では26聖人は比較的心が楽だったということですね。護衛を務める明石全登がキリシタンで、あれこれと信仰的な便宜を図ったでしょうから。

次の宿所からはキリシタンに嫌悪を抱く毛利氏の領地で、そこで毛利の役人に護衛を引き継がなければなりませんでした。束の間の、安らいだ時間だったと信じたいところです。



西丸西手櫓

隣は禁酒会館

内堀跡

解説板

本行寺


もうこの辺にして宿に戻ろうと思っていたのですが、何となく根性が出て、本行寺まで歩いて来てしまいました。

今度は浦上キリシタンが滞在した場所ですね。26聖人だ、浦上キリシタンだと忙しいですが、両方が訪れているのでご容赦ください。

本行寺は今は移転して道の東側にありますが、以前は朝日新聞岡山支局などのある一帯にありました。そこに弓ノ町牢獄で棄教した者たちを移して住まわせたのです。門は昔からのものであるらしく、裏側に1945年の空襲のときの焼夷弾の跡が残っています。この寺は戦争遺産でもあるんですね。



本行寺

本行寺解説

山門裏

焼夷弾の跡

朝日新聞岡山支局


本行寺の前から朝日新聞岡山支局をパチリ。この建物、安藤忠雄が手掛けただけあって、整っています。

無駄なものを省いたミニマムなスタイルですが、2階が庭になっています。安藤忠雄はクリスチャンじゃないけど、教会の設計もしていますね。

ここにいた浦上キリシタンは棄教したから長崎に戻れると思っていたのに、信仰を守る人たちよりも先に鶴島に送られ強制労働させられました。過酷です。故郷に帰れると思って棄教したのに、騙されてたなんて。神を捨てた者にとっては余計に辛い労働だったのではないでしょうか。



マンホール


岡山市内を歩いていると、無視してもしきれないほど桃太郎に出会います。マンホールにももちろんお供を連れたももたろさんが。

岡山では永遠の推しメンなんでしょう。たとえるなら、リンゴの花とリンゴの実のような。たとえがロマンチック過ぎて、自分でも何を言っているのか分かりませんけど…。

あ、なんか疲れがピークに達してる気がする。。((+_+))


岡山県備前県民局


さぁ、今日はこれでラスト!弓之町牢跡です。浦上キリシタンが囚われていた場所ですね。現在は岡山県備前県民局というものになっています。

信徒たちが入れられていた牢があったのは、別館の辺り。道に面した方ではなく、裏に回った駐車場とかある所です。

岡山藩預けとなった117人のうち、15歳以上の男子29人がここにあった牢に収容されました。

岡山藩での牢屋生活で、彼らが一番苦しめられたのは飢餓でした。元々十分な食料も与えられていないのに、そこから役人が上前をはねるので、信徒の口に入るのはわずかな量だけ。敷地内の草まで牛馬のように食んでいたといいます。若い人に食料を譲った者は粗食と減食のために病を得、全身が腫れあがって、見るも無残だったとか。

個人的にはちょっと前からしていた偏頭痛が全身に及んできて、一歩歩くのもしんどいですが、こういう所は体引きずりながら来ちゃってもいいのかもしれません。少しくらいは何かを感じないといけませんから。



別館

敷地内

弓之町牢跡

水平社跡碑

消火栓のふた


歩道の消火栓のふたにもやっぱり桃太郎。放水しているみたいですね。ふっ、私のハートはいつでも大火事よ(殺し文句のセンスが古い!)。

今日はこの辺にしておこうと思います。栄養と睡眠、あと頭痛薬が必要かと。旅はまだ2日目。早めに寝て回復せねば。明日に向けて、Let's be スッキリ!




          西国街道のラウダーテ


今回の旅行記のタイトルは「西国街道のラウダーテ」にしました。自分が行こうとしている道が西国街道で、ちょうど26聖人の路程と浦上キリシタンの流配地を辿っていくことになるのだと気付き、それに驚いて。

またラウダーテ(Laudate)は、ラテン語で「ほめたたえよ」という意味の言葉。ラウダーテ・ドミヌム(Laudate Dominum)だと「主をほめたたえよ」という意味になり、この名を冠した聖歌が昔からあります。恐らく26聖人も歌ったり、聞いたりしたことがあったでしょう。

西国街道を歩んで行った彼らの姿こそ、神への賛美だったのではないかと思い、聖歌のイメージに重ねました。420年前、あるいは150年前の祈りが、調べとなって私の耳に聴こえてきますように――。






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