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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 切支丹の江戸 part12


いつも通っているような場所を史跡として訪れる「切支丹の江戸」、第12回の今日は品川から茗荷谷、池袋を回りたいと思います☆
最初の2ヶ所は友だちの家を訪問したついでなんですけどね。天気がいいことを感謝して、いざ出発 (*^▽^*)


品川


まずは電車に乗って品川へ。駅の東側は江戸時代には海でしたが、今は埋め立てられ、定期借地権付きのマンションが建てられています。

その一角にある友人宅に見舞いに訪れたのですが、住所表示を目にして、ここが殉教地である可能性に思いが至りました。

海中に立てた木に、逆さに人を縛り付けて、満ちてくる潮で処刑した品川海岸刑罰場のあった場所を、高木一雄氏は「港区芝浦四丁目か港南一丁目周辺」ではないかとしているのですが、この辺りがそれに当たります。訪問先の友人にそれを言ったら、彼女もクリスチャンなので驚いていました。

定期借地権付きだから、マンションも安く手に入ったそうで(その分抽選の倍率が高かったらしいですが)、意味があって自分がここに住むようになったのかなと言っていました。きっとそうではないかと、少なくともそう思って、同じ信仰を持っていた昔の殉教者たちを祈りと賛美で慰めることは意味があることだろうと話しました。今が昔とつながっていることを感じた瞬間でした。


文京さくら祭


さて次は文京区へ。茗荷谷にある切支丹屋敷跡には私も何度か足を運んだことがあるのですが、切支丹屋敷があった敷地内に、昔からの知り合いが住んでいることを聞いたのはほんの一ヶ月前。その彼女が引っ越す直前のことでした。

最後の掃除に行く際に家を見せてくれるというので、とりあえず駅で待ち合わせ。播磨坂の文京さくら祭を見て食事をしてから向かいました。どんな発見があるのか楽しみです♪


シドッチ記念寮


こちらがシドッチ記念寮。カトリックのクリスチャンの方が運営する女子寮です。入寮する人はクリスチャン限定ではなく、国籍も様々で、国際的でアカデミックな雰囲気が漂っています。

ここは切支丹屋敷の中でもシドッティ神父が臨終の時を迎えた詰め牢と呼ばれる半地下の牢の上に建てられているのだとか。

それが寮の名前の由来になっているんですね。

寮の礼拝堂


中に入ると、迎えてくれたのは経営者のSさん。昔は相当な美人であったことが覗える、今でもきれいな女性です。

玄関を入ってすぐの所に礼拝堂のようなスペースがあり、ここで祈れるのが素晴らしいです。木製のイスはどこかの教会から貰い受けたものだそうです。

壁には切支丹屋敷関係の資料や写真が掛けられていて、一つ一つ熱くSさんが説明して下さいました。 この寮に長く住んでいた私の知人は、キリシタン関係には疎く、そんなに重要な場所に自分が住んでいるとは知らなかったのだとか。私の興奮する様を見て、すごい所に住んでいたのだと認識したようです。


シドッチ記念寮

キリシタン史

切支丹屋敷写真資料

寮のステンドグラス

西洋紀聞


Sさんはシドッティ神父を取り調べた新井白石のファンだそうで、新井白石の「西洋記聞」を見せて下さいました(私たち2人に新しい「西洋記聞」もプレゼントして下さって・・・ちゃんと読まねば)。

シドッティ神父を取り調べた内容を記した「西洋記聞」は、江戸時代には禁書とされ、明治になってやっと何百部か出版されたそうですが、これがその一冊だそうです。稀少本ですね (゜ロ゜)

Sさんの話を聞きながら、史跡保存における様々な戦いや、同じカトリックでも修道会によっては考え方ややり方が違って、齟齬が生じることがあるんだと感じました。Sさんはカトリック関口教会に通っていて、そこの管轄を受けるものとしてこの資料室を運営していこうと考えていらっしゃいます。

カトリック界も大変だなと・・・


だけれど切支丹屋敷関係の主導権を握ろうとする修道会があり、巡礼団をここに連れて来て、交通費を要求することもあるそうで。私には理解ができないのですが、ここを宣伝してあげる「宣伝費」として求めるようです。

また神父になるには一生童貞の誓いを立てるのですが、神父になって日本に来てから、それを破棄して、日本人女性と結婚した人がいるのですが、今でもキリシタン専門家として活動していて、ここに来ては絵を売ろうとするのだとか。結婚相手の女性が画廊で、それで営業に訪れるわけですね。なんだかなぁ。。という感じです。カトリック界も大変だと思ってしまいました。

(実は私たちがここを訪れた2日後に、切支丹屋敷で発見された骨がシドッティ神父のものだと確認されたという文京区の会見が行われたのですが、その会見場でもその元神父が話をしていました。名前や経歴に「神父だった」とは書かれていませんでしたが、神父っぽい服を着ていました。服の趣味が変わらないだけかもしれませんが、普通に神父に見えてしまいますから、「元」を付けないとフェアでありません)


切支丹屋敷跡のマンション


Sさんにたくさんお話を伺い、大変よくしていただいて、あっという間に3時間余りも経ってしまい、お礼を言いながら外へ。

前来た時には、建設反対運動の真っ盛りだったマンションはしっかり建てられて、その前に切支丹屋敷の解説板が設置されていました。

ここのマンションの駐車場付近で発見されたのが、シドッティ神父と2人のキリシタン、長助とはると見られる遺骨ですね。時を経て、時が来て、明らかになることがあるんだと感じました。


遺跡解説板

遺跡解説板

遺跡解説板

遺跡解説板

切支丹屋敷跡碑


さて考えが深くなってしまうのが、マンションの真ん前にある「切支丹屋敷跡碑」。これは都が建てたもので、ここが跡地なんだから建てていいと思うのですが、問題はその横にある、最初にカトリック神父が建てた石碑です。

これはウェルウイルゲン神父という貴族出身の神父が、獄門橋があった場所(JRの高架下のトンネルの入口)に建てたものでした。それがいつの間にかこちらの映像社の敷地に移設され、そこに又東京都が史跡認定したという碑や解説板まで建てられるようになったため、すっかりここに元々ウェルウイルゲン神父の碑が建てられたように思われていると、Sさんは言っておられました。

しかもこのウェルウイルゲン神父の碑、神父が自分の名前を刻んだことを教会の上長が咎め、ウェルウイルゲン神父も反省して後に新しい碑を作って、カトリック関口教会に建てたそうです。つまりこちらにあるのは失敗作で、消し去りたい過去、もっと言えば偽物な訳です。だけれど人目に付く所に設置されているからと、石碑は時間が経つと劣化して文字が読めなくなるため、ウェルウイルゲン神父は碑の削り直し費用60万円を映像社の方に渡したけれど、お金だけ受け取って石碑は修復されないままだとSさんは憤慨しておられました。

都や区が各関係者の話を聞いて


これらのことについて、私はSさん側からしか話を聞いていないので、判断する立場にはないのですが、史跡認定をしている東京都の教育委員会や、切支丹屋敷の記者会見をしている文京区が、各関係者によく話を聞いて、問題なく史跡保護がされるように対処してはどうかと思います。

ウェルウイルゲン神父の碑が移設されたのも、町内で話し合いが持たれ、映像社が好意で受け入れたものかもしれず、修復費用もちゃんと渡ったのか、またお礼として受け取ったと認識されてないか等々、相手にも確認してみなければ一方的には判断できないことが多いからです。

それらの経緯を、都や区が本気になって解明しようと取り組んでくれれば、切支丹屋敷の殉教者たちも喜ぶと思うんですがね☆

あとSさんに聞けたおかげで、八兵衛石と切支丹屋敷の井戸が、近所のD家の庭に残されていることを知りました。ウェルウイルゲン神父の碑には、八兵衛石が碑のそばにあると書かれているので、現在の位置関係だと、隣の小さな石が八兵衛石だと皆思ってしまいますね。切支丹屋敷関係の主導権を握りたがっている修道会でもそう誤解しているようでした。ほんと真実というのは、ただで手に入るものではないし、そうしようと思っても無理なんだと感じました。


切支丹屋敷跡の碑

都教育委員会の解説板

ウェルウイルゲン神父の碑

近所のお宅



切支丹屋敷に何度か行って、やっと今回表面以外のことに接せられた感じでしたが、次は又がらっと変わって、近代から現代のキリスト教の歴史を見ていきたいと思います。では東京の真ん中へゴー♪


ゆうぽうと


今回は夫と一緒にまずは用事を済ましに、大崎と新宿に行きました。昔行った所が今どうなっているかを調べようとする活動の一環です。

こちらは大崎のゆうぽうと。大きな施設でコンサートホールまであったのに、今解体中なんですね。15年前に訪れたのですが、工事現場のフェンスにちょうどその時の空撮写真が載っていました。ありがたやー( ̄(エ) ̄)ノ


解体中

15年前の写真

内部にあった作品

内部にあった作品

バスタとやら


新宿では人並みにもまれながら南口へ。キリスト教書店の「オアシス」があるので、たまに来ます。

この人出はバスタとやらがオープンしたからのようです。高速バスを利用する外国人も増えましたね。いろんな言語が聞こえてきます。そのうち私たちもここを利用するんだろうな♪

サンルートプラザ東京

「オアシス」

原首相遭難現場


さてと、JRでするっと東京駅まで抜けまして、お目当ての場所へ。

「原首相遭難現場」がずっと分からなくて、私は一人でさ迷っていたのですが、夫がネットで見つけて連れて来てくれました。

分かってみれば券売機のすぐ横で、これを見落とす方が難しいよね、みたいな立地。前からあったのかなー? 最近出来たんじゃないの?などと疑いながら、それでも見つかったので懸案事項が一つ消えた感じです。でもここで平民宰相原敬は襲撃され、間もなく死去したんですよね。もっと深刻になるべきかもしれません。原敬はクリスチャンでしたし。

最近読んだ記事では、暗殺の前日、原敬は大久保利通が襲撃された後遺体が置かれた部屋を見たそうですね。少し因縁めいたものを感じるというか・・・、何かを教えてくれる予兆だったのかもしれません。


原首相遭難現場

原首相遭難現場解説

構内地図

中央南口ドーム

東京駅丸の内口


では丸の内口を外へ。改装後初めて見る夫は、「すごいねー」とシャッターを切っております。テレビではリニューアル後はこうですと、映像をたくさん流してくれますが、実際に見るとおのぼりさん的になりますね。

毎日東京に通勤していても☆

東京駅丸の内口

大手町

大手町でランチ


大手町で自然派カフェでランチを。玄米はよく噛むから、少しでも満腹になりますね。

色とりどりの野菜をきちんと食べると、気分も良くなってくるような。自分のメンテナンスを食から始めるのは知恵だなと思いました♪


 池袋へヾ(●⌒∇⌒●)ノ


池袋史跡公園


次は池袋駅へ。今回は池袋周辺がメインなのです。まずは池袋史跡公園へ。

ここに「成蹊学園発祥之地」碑があり、私は成蹊学園がキリスト教主義の学校だと勘違いしていたので来たのですが、違うみたいですね。

人にもそう言ってしまったことがあるような、、あはは。<( ̄∇ ̄)ゞユルシテクダサイ...


成蹊学園発祥之地

成蹊学園発祥之地

池袋の由来碑

池袋の由来

自由学園 明日館


次にやって来たのは自由学園の明日館。

こちらの建物は、有名な建築家フランク・ロイド・ライトの作品として知られています。

時を経ても古びないモダンさがあります。結婚式場としての需要が多いみたいで、確かに現代人の目で見ると、学校と言うよりガーデンウェディングの式場っぽいかも(^^;)? この日も結婚式が行われていたので内部は見学不可(展示室を除き)でした。


自由学園 明日館

自由学園 明日館門扉

自由学園 明日館の庭

自由学園 明日館解説

婦人之友社・羽仁先生記念展示室


さて忘れちゃならないのが、自由学園を創立した羽仁もと子・吉一夫妻。2人ともクリスチャンで、もと子さんの方が旦那さんより7歳ほど年上でした。もと子さんは二回目の結婚でしたし。

この2人が1903年に創業したのが婦人之友社で、その記念展示室が唯一中に建物内に入れる部屋として公開されていました。

創業と共に創刊された「婦人之友」(「家庭之友」を改題)のバックナンバーや羽仁夫妻の活動が紹介されていて、私たちとしては「これが見たかったよ」という感じ。創刊の前日に、2人の最初の子供が産まれたんですよね。

何々、羽仁夫妻の住居はここの近くの「上り屋敷」にあったんですと? ではこの後寄ってみましょう☆


羽仁先生記念展示室

「婦人之友」

羽仁夫妻の活動

羽仁もと子著作集

遠藤楽のフェンス


さて、ライトの日本での一番弟子とも言うべき建築家が遠藤新(えんどう・あらた)という人で、ライトと一緒にここや帝国ホテルを建設しました。

遠藤新もクリスチャンなんですが、ライトほどは知られていなくてちょっと残念。だけれどこちらのフェンスは、遠藤新の息子で同じく建築家の遠藤楽が手がけたものなんだとか。

今も道をはさんだ所には婦人之友社の社屋があるのですが、その敷地内にかつて「婦人之友」読者の会の「友の家」があり、それが遠藤楽の設計で、2007年に建て替えられてしまったのですが、その際に建物屋上にあったフェンスがこちらに移設されたとのことです。今もある婦人之友社社屋も遠藤楽の作品ですし。この一帯が師弟と親子の作品なんですね。


重要文化財

遠藤楽のフェンス

婦人之友社

花がもさもさ〜


この辺りは緑が多いなと思ったら、ガーデニングをしている家が結構あって、それで街の印象が形作られているようです。

工事中の家の壁にも花がもさもさ〜。池袋は都会だけれど、ちょっと住宅街まで入ってくると落ち着いた感じでいいですね。

漂ってくる花の香りがすてきです(*゜v゜*)

もさもさ壁

もさもさ花

甘い香り

「唐種招魂」

上り屋敷公園


では羽仁夫妻の家があったという「上り屋敷」へ。現在は公園になっています。

元々「お上(あが)り屋敷」とは、江戸時代の狩場の休憩所のことらしいです。

子供が走り回っている姿がまぶしいです。そのうちこの子たちの時代になっていくんだよなぁ・・・☆


上り屋敷公園

上り屋敷公園

巨木

宮崎滔天旧居


上り屋敷公園から少し行った所にあるのが宮崎滔天の旧居。

現在も子孫の方が暮しているみたいで表札が出ています。

宮崎滔天はクリスチャンで、孫文を支援した人なので、私にとっては結構関心のある人なんですけど、一般的にはここは柳原白蓮の住んだ家として知られているみたいですね。柳原白蓮は歌人で、大正三美人の1人に挙げられる人ですが、夫に三行半を突きつけて年下の恋人と出奔。その青年が宮崎滔天の息子だったため、ここで柳原白蓮も暮した訳です。


宮崎滔天旧居

柳原白蓮も暮した

日本基督教団 東京池袋教会


立教大学方向に出ようと歩いていたら、大きな教会を発見。

日本基督教団の東京池袋教会って、こんなに大きかったんだ( ゜o゜)

巨大な戦艦のようです。いや、十字架を帆に見立てた大型帆船でしょうか。ノアの箱舟をイメージしてるのは間違いないでしょうね? 見たところ、3階建てではなくてそれ以上に見えますが(旧約聖書に出てくるノアの箱舟は3階建て)。


東京池袋教会

東京池袋教会

東京池袋教会案内

立教大学


では緑生す立教大学へ。本館のモリス館や図書館は都の歴史的建造物に指定されています。

東日本大震災の後、修復工事が行われることとなったと聞いていたので、どんなふうになるんだろうと思っていましたが、従来のイメージが損なわれなくて良かったです♪


解説板

歴史的建造物

歴史的建造物

附属小学校

立教通り


立教大学の前は立教通りで、校旗なんでしょうけれど十字架をあしらった旗が翻っていてうれしいですね。

日本では珍しい光景ではないでしょうか。立教など聖公会が建てた学校や病院は、周囲の街と一体となって発展していく感じがします。


池袋聖公会


では学内ではなく単体で存在している教会はどうだろうと、池袋聖公会にも足を伸ばしてみました。

緑道の途中に住宅に混じって建てられていて、ほっと息がつけるような優しい印象ですね。

緑道のバラもよく手入れされていてきれいです(´▽`)


池袋聖公会

池袋聖公会教会

緑道のバラ

功雲院


最後の目的地、祥雲寺に行く途中、気になるお寺を見つけました。功雲院という、鳩に関係があるお寺らしいですが、門のところにあるサクランボが豊かにわっさわっさと揺れていて、いい意味でインパクト大です。

別名「鳩寺」と書いてありますが、「サクランボ寺」にしてはどうでしょうね☆


別名「鳩寺」

サクランボわさわさ

サクランボ美味しそう

祥雲寺


ではラストの祥雲寺へ。赤い門は徳川綱吉から拝領したものだとか。シドッティ神父が日本に上陸したときの将軍ですね。会ってはいませんが。

ここに江戸時代に罪人の首をはねた首斬り浅右衛門の墓があるというので来てみたのですが、見つかるといいな。

お墓は苦戦することが多いけれど・・・。

首斬り浅右衛門の墓


思ったより苦戦せずに見つけました、「首斬り浅右衛門」こと、七代目山田浅右衛門の墓。

七代目なのでキリシタンの首を斬った人ではありませんが、吉田松陰の首をはねた人みたいですね。

なかなかセンスのいい墓石じゃないでしょうか。名前に「先生」とまで付けられていますし。そんなに褒められたことをしたとは思えませんけど。


祥雲寺解説

首斬り浅右衛門の墓

浅右衛門墓の後の木

祥雲寺境内



熱くなったり冷ややかになったり


熱くなったり冷ややかになったりします。キリシタンに関することを追い、その場所に行ってみると。殉教地に行っては腹を立て、迫害者の末を見ては冷ややかになったりする訳で、要するに感情移入ですけど。

だけれどそれとは違った意味で、一番熱くなるのは、現在につながっている何かを発見する時です。昔の人が祈ったことが今叶えられていることや、成し遂げられていることを知る時に最も大きな感動がきます。

実はそれが私を動かす原動力になっています。ただの歴史探訪だったら、飽き性の私はとっくの昔に止めていたことでしょう。有り難いことに飽きられないほどの発見をして、今に至っています。「切支丹の江戸」を満喫する春なのでした。。ヾ(●⌒∇⌒●)ノ




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