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旅行記 > 切支丹の江戸 part9
今日は練馬区へ。今までほとんど縁がなかった地帯です。それ故どんな歴史があり史跡が残っているのかも調べたことがなくて。せっかく行く機会が与えられたので、キリシタン関係も探してめぐってみましょう♪
練馬区立美術館
まずやって来たのは練馬区立美術館。ここで催されている「舟越保武彫刻展〜まなざしの向こうに」が見たくて☆
「長崎26殉教者記念像」で知られる舟越保武はカトリックのクリスチャン。キリスト教に材を取った作品が有名です。
駅から美術館へ向う道でも何人かシスターを見かけました。そりゃ来たいですよね。
それにしても・・・練馬区立美術館ってすごいんですね。ポップで進んでて、公の美術館にはないテイストがあります。外観だけですっかりファンになってしまいました。館内以外は自由に入れるので、公園として来ている親子連れも多くいます。近所にあったら何もなくても来ますね〜(o^-^o)
舟越保武と信仰
舟越保武は父親がクリスチャンだったことで、若い頃は却ってキリスト教には背を向けており、洗礼を受けたのは結婚してから。長男が生まれてすぐ死んでしまったことをきっかけに信仰が芽生え、クリスチャンとして生きていくようになりました。高村光太郎賞を受賞した「長崎26殉教者記念像」で一躍有名になるのですが、その制作過程で、キリシタン殉教者の顔がどんどん父親に似ていったと書いていますね。
息子の舟越桂氏も彫刻家なのですが、「父は聖なるものと美しいものは同じだと考えていたのだと思う」と述べていました。この展覧会は全国にある舟越保武作品をできる得る限り集めた大展覧会で、現地に設置されている巨大な作品は、舟越保武の実物大デッサンが展示されていました。
ファンには垂涎のラインナップで、盛岡まで行かなきゃ見られない作品まで一気に見ることができました。「聖クララ」像など初期の作品は整っていて美しいけれど、どこか虚ろで、美智子妃殿下が興味を持たれたという「病醜のダミアン」は、言いたいことは分かるけれど語り過ぎな印象。
島原の乱のキリシタン兵士「原の城」
私が心惹かれたというか、釘付けになったのは、島原の乱で散った一人のキリシタンの姿を表した「原の城」でした。霊魂がその体から抜け出ていってしまった瞬間の立ち姿で、凄まじい空気を感じました。画集や何かでは見たことがあったけれど、前に向って、つまり見る者に向って傾いてきている圧迫感は、作品と同じ場所にいてこそのもの。
実物を360度見ることができるのも貴重だと思い、それぞれの像をぐるぐる回りながら見てみたのですが、舟越作品には文字が書かれていることが結構多いんだと知りました。「原の城」の兵士の鎧の裾には「寛永十五年如月二十八日原の城本丸にて歿」と。作者がその幻影を見たかのように刻まれていました。
これはキリシタンが死んで「天国に行きますよ」という賛歌ではありませんよね。多くの評論家が言うような「現実と幻想のあいだ」でもなく。単純に言い切れない、糾弾するような、奇妙な後味の悪さが心に残りました。
さて、このような大規模な舟越保武展が練馬で開かれたのは、昔「練馬文化村」と言われる、若き芸術家の集まった街があり、舟越保武もそこで制作活動をしていたからです。是非その場所も調べて行ってみたいですね☆
舟越保武展 |
緑のクマ |
練馬区立美術館 |
トンボのオブジェ |
石神井公園
ではせっかく練馬に足を踏み入れたので散策を。草ぼうぼうで池がほとんど見えない石神井公園へ。近づいて行ったら蚊の大群に囲まれました。野生です。
ど根性ガエルは、石神井公園がモデルとなっているのだと駅前の周辺マップに書いてありました。日本の原風景の一つなんですね。
禅定院
車通りも人通りも多い割には道が狭い町を交通に気をつけながら15ほどてくてく。
禅定院に着きました。門構えからして立派です。創建が古いんでしょうね。
石神井小学校の前身である豊島小学校が、区内初の公立小学校としてここに創立されたとも書いてあります。境内に小学校があったということ・・・かな?
「キリシタン灯籠」
さて、ここに来たのは「キリシタン灯籠」と呼ぶ人もいる織部灯籠があるから。
境内の中ほどに石造物が集められたスペースが設けられ、その中に、ご丁寧に「キリシタン灯籠」という石碑まで建てられて、その灯籠が置かれていました。
区の登録文化財になっているから、大切に扱っているんでしょうけど、織部灯籠を「キリシタン灯籠」と主張してしまった勢力の強さに、言葉は悪いですけど呆れるというか・・・。
現在ではこの形の灯籠を「キリシタンが礼拝したキリシタン灯籠だ」と主張する学者はいないのですが、一旦区の文化財として登録されると、誤りでも訂正するのが難しいんですかね。矛盾を感じます。日本全国で「発見」されてしまった「キリシタン灯籠」。そこにキリシタンがいかどうかも考証されないまま、形だけで認定されている現状です。何とかならないものでしょうか
(´ヘ`;)ウーン
所沢道
西に進み十字路に出くわして、高札型の解説板で、今歩いている道が所沢道だと知りました。異様に大きな木がそびえているけれど、もしかしたらここ、昔高札場が建てられていた、札の辻だったかもしれません。
近くには北条氏康から朱印状をもらった道場寺というお寺もありました。そっか戦国時代、練馬は北条氏のテリトリーだったんですね。考えてみれば当然ですが。
三宝寺
5分ほど歩くと三宝寺に到着。ほんと、人と車が接触しそうで気を遣います。自転車も多いですし。
三宝寺は将軍家光が鷹狩りの際に、休憩所として寄ったお寺。だからこの山門は「御成門」と名付けられています。
江戸時代にはこの門は閉じられ、庶民の通行が禁止されていたのだとか。家光はここまで足を延ばしていたんですね。健康と事情収集のために。じいちゃん家康のやったことをそのまま踏襲しています。
じいちゃんに倣うのは別にいいけれども、だけどそれによって、キリスト教禁令も厳罰化して引き継ぐようになったのですから、そこは良いとは思えません。御成門の通行が許され、キリスト教を信じても殺されない時代になりましたけど、この歴史のツケはどうするんだと、家光関係の史跡に来ると腹立たしい気持ちになるんですよねぇ。まあこんな所で顔を曇らせてても何にもなりませんけど。
長屋門
さて三宝寺にはもう一つ見ておかなければならない門が。通用門として使われている長屋門です。
こちらは練馬区にあった勝海舟の屋敷から移建されたものなのだとか。勝海舟が練馬に家持ってたというのは初耳です。
勝海舟はクリスチャンではないけれど、晩年宣教師と親しくし、自邸内に教会を設けられるようにしました。援助者となったと言っていいでしょう。
宣教師の娘と自分の息子の結婚を了承したり、その宣教師さんが亡くなった時には、墓碑に聖書の言葉を揮毫したりもしてますし。本人は「オレ、半分クリスチャンだから」みたいな気分だったかもしれません。今となっては本人に訊けないので、わかりませんけど。
でもそれだけキリスト教に対して好意的に接し、援助したのに、自身がクリスチャンにならなかったことは、私には惜しく思えることですね (ーー;)
長屋門 |
長屋門解説 |
甘藍(キャベツ)の碑
本日の最後は甘藍(キャベツ)の碑。行きには道の反対側にあって見られなかったのですが、気になって帰りに寄ってみました。
現在では練馬が農作物の生産地としてよく知られていますが、そこに新しい作物を導入した人がいたということですね。生産性を上げることで、人口の多さと歴史的な辛苦によって、しばしば危機が訪れた東京を支えてきたんだなと思いました☆
練馬散歩の後は霊園散歩。前行った時に見つけられなかった井上政重の墓を、今度こそ見つけてやるぞということで。夕方からは用事があるので、それまでの時間、気合を入れて歩くとしましょう♪
染井霊園
はい、着きました染井霊園。井上政重というのは、初代宗門改役になり、自分の屋敷を改造して切支丹屋敷を作った人物。この切支丹屋敷が、小伝馬町の牢屋敷に代わって、キリシタン迫害の舞台となりました。
井上政重は死後お寺に埋葬されたのですが、井上家が明治時代に神道に改宗したので、今は染井霊園の神葬墓地に墓があるそうです。それで来てみた訳ですが・・・。
霊園にも一応住所みたいな区画の番号があるんですけど、これがネット等に書かれているのが微妙に間違っているために、前回は見つけられませんでした。なので今回はその番号が、一部は間違っていても大体は合ってるんじゃないかという予測して、いくつかのパターンを考えてやって来ました。果たしてリベンジなるか!?
三井道郎の墓
区画の一部の番号を入れ替えて、その場所を探してみましたが・・・私の目論見は見事に外れ、発見に至りませんでした。残念無念。この方法ではダメみたいです(ノ_-;)
それでも歩いていると、別の発見もあるもので、日本正教会の長司祭で神学者でもあった三井道郎(みつい・みちろう)の墓を見つけました。
ロシア語に堪能だったので、大津事件の時にはロシア皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)の通訳もしました。神田のニコライ堂のニコライ大司教が亡くなった後は、この人が正教神学校の校長になって陣頭指揮を執っていきましたし。
歴史上の人物と言っていいかと思いますが、さほど有名ではないのでネットに墓の区画番号まで書かれていることはないかと。つまりこうやって見つけられたのは幸運なことだと感謝せねばなりません。井上政重はまた空振りしてしまいましたが、、ね。
岩崎豊弥夫妻の墓
染井霊園内ではありますが、岩崎家の墓所は特別に塀で仕切られてあって、一般の人は入ることができなくなっているのですが、何故か岩崎豊弥夫妻の墓だけは、岩崎家墓所の前方に出っ張ったような所にあって見ることができました。
岩崎豊弥氏は、エリザベス・サンダース・ホームを開設した澤田美喜さんのお兄さんですね。岩崎豊弥夫妻はクリスチャンではありませんが、澤田夫妻はクリスチャン。エリザベス・サンダース・ホームが発展してできた聖ステパノ学園はキリスト教主義の学校で、キリシタン遺物も多数収集、展示しています。
ローダスカ・ワイリックの墓
続いて外国人墓地となっている区域でローダスカ・ワイリックさんという人のお墓を見学。
標柱や解説板があるので、どんな人だろうと思って見てみたのですが、当時人々に忌み嫌われていたハンセン病者の看護に務め、様々な医療奉仕活動をした人だそうです。
「東洋のナイチンゲール」と呼ばれているみたいですが、私は全く知りませんでした。世の中で頑張っている人がたくさんいて、その中にクリスチャンも多いのに、ほんとに知らないことだらけですね。
宣教師として来日して教会を開き、伝道する傍ら、学習院や府立第四中学校でも英語教師として働いていたのだとか。一生結婚もしないで人々に奉仕し、日本で亡くなって日本の土になってくれたんですもんね。こういう人たちのこと、ちゃんと学ばんとですわ...(*゜。゜)
ローダスカ・ワイリック |
ローダスカ・ワイリック墓 |
記念碑 |
片山廣子の墓
続いて片山廣子(かたやま・ひろこ)のお墓へ。この人のお墓は区画番号調べて持ってきたのです☆
佐々木信綱に学んだ女流歌人で翻訳家でもあります。今残ってる写真を見ても相当な美人で、芥川龍之介や室生犀星から「クチナシ夫人」と呼ばれていたといいます。
私がこの人のことを知ったのは、東洋英和女学院の先輩として、村岡花子と交流があったからで、片山廣子はクリスチャンではありませんが、学んだ学校の影響でキリスト教的モチーフの作品を残しています。隣にあるのは廣子より先に亡くなった長男のお墓ですね。ひっそりとしています。
片山廣子之墓 |
片山家墓所 |
札幌開拓の始祖 |
高村光雲らの墓所 |
巌本真理らの墓
案内板が出ていたので高村光雲や高村光太郎、その妻智恵子が眠る高村家の墓を見て(有名人はお墓の案内出るんですね)、巌本真理らのお墓も見学。
巌本真理はハーフ美女のヴァリオリニストですよね。キリスト教主義教育者 巌本善治と若松賤子の長男、巌本荘民(まさひと)とアメリカ人女性との間に生まれた女性です。
でも高村家と巌本家のお墓は前回も見ましたからねぇ。新しい発見にはなりません。まあ一回目よりは詳らかに霊園を見て回ったので、ちょっと慣れましたけど。次は必ず井上政重をゲットしたいです(しつこいか ^^;?)
巣鴨地蔵通商店街
今日は歩くことを覚悟してきたので、染井霊園から巣鴨の地蔵通まで30分弱ウォーキング。
昔よく来た地蔵通は、「おばあちゃんの原宿」と言われています。懐かしいです。
芋ようかんが買いたかったけれど、この後友人と待ち合わせて講演会に行くので我慢。ああ、いいですねぇ。。
地域公民館 |
地蔵通 |
遅めのランチ
疲れてきたのでここらでランチ。店員さんが皆中国人で、巣鴨にありながら中国語が飛び交う中華屋さんに入店し、海鮮八宝菜を一人で注文、一人で寛ぎました
( ^-^)_旦""
ディープな関心ゆえに、段々人に付き合ってもらえなくなって、今や一人散策が主流になっている私ですが、しっかり栄養摂ってリスタートです。
巣鴨・庚申塚
では巣鴨にある目的地へ。都電駅近くの庚申塚です。いつも前を通り過ぎていて、ちゃんと見るのは初めて。
塚ではなくて、社が祀られているんですね。ここに来たのは、切支丹屋敷でキヤラ神父らを取り調べた第二代宗門改役、北条安房守正房が最初「湯島の総禅寺に葬られ」たけれど、「現在墓は巣鴨の庚申塚にある」と本に書いてあったから。
だけど墓らしきものはありません。「庚申塚にある」というのは、庚申塚の境内にあるというのではなく、「庚申塚」の地域にあるという意味なんだと気付きました。例えば都電に「庚申塚」という駅があるけれど、そこが庚申塚そのものではないようにに。
考えてみたら当然かもしれないんですが、そんな考えが浮ばないのが私なので・・・。今日二回目の空振りです。宗門改役、一代目二代目の墓が見つけられず、残念無念。お前一体何やってるんだよと、自分に言ってやりたい気分です。うーん、この近くに北条安房守正房の墓、あるんだろうになぁ。
日本基督教団 巣鴨教会
やっちゃった感を引きずりながら大塚へ。ここまでも歩きました。都電に乗ろうと思ってましたが、方向を間違えて何となく歩き続けることになり。
大塚駅から次の目的地である日本基督教団 の巣鴨教会までも10分以上かかりました。もう歩くのは勘弁という感じです (>_<)
だけれど教会見たらちょっと元気になりました。ここに山田耕筰もいたはずですね。山田耕筰はクリスチャンにならなかったようだけれど、実父がキリスト教の伝道師で、親戚にも教会関係者が多いです。なので山田耕筰が作曲したメロディーにも西洋音楽、特に讃美歌の影響が見られます。
巣鴨教会と山田耕筰が暮した自営館
自営館は、苦学生に仕事を与え、自活させながら学校へ通わせるための施設で、巣鴨教会の初代牧師・田村直臣が、元々は芝白金に開館したのですが、1894年(山田耕作が入館する2年前)に南大塚の当地に移転されました。この自営館には山田耕筰や岸田劉生が寄宿したのですが、経営難のため1919年に閉館。その跡地にあるのが現在の巣鴨教会です。
山田耕筰は10歳で父を亡くし、この自営館に預けられました。童謡の「からたちの花」は、山田耕筰が少年時代を過ごした自営館での淋しい想い出を白秋に話し、これに共感した北原白秋が作ったとされています。教会の周囲にからたちの花が咲いていたみたいですね。この頃山田耕筰は印刷工の見習いをしながら、教会に足繁く通っていました。
巣鴨教会の敷地内に「からたちの花」の記念碑があるらしいのですが、外からは見られないのか、パッと見た感じでは見当たりませんね。教会の創立は1876年だそうです。禁教令解かれてすぐだなんて、すごいですね☆
巣鴨教会 |
創立は1876年 |
大塚駅前
八百屋の横にひょっこり姿を現した巣鴨教会の残影を瞼に浮かべながら、大塚駅に。駅前は昔神社だったようですね。ここから都電に乗って終点の早稲田に向います。
たまには母校でお祈りの足跡だけでも残しておこうかなということで。いえ、実はちょっと見たいものが出来たので、祈りがてら、それを見に行こうと思いまして。
「祈りがてら」というフレーズはあまり一般的な言い方ではないでしょうけどね。私にとってはどこでも「祈りがてら」行く所だったりします (*゜v゜*)
杉原千畝記念碑
思ったより都電が混み混みで体力消耗しましたが、早稲田のキャンパスに入ってほっとひと息。
緑があるからいいですね。
見たかったのはこちらの杉浦千畝記念碑。
11号感と14号館の間に今年設置されました。杉浦千畝はリトアニア共和国首都カウナスの日本領事館領事代理時代に、ナチスドイツの迫害をのがれようとするユダヤ人にビザを発給し、約6000人の尊い人命を救った人物。戦後70年の節目を迎え、杉浦千畝の映画も公開されているので注目が集まっているんでしょうね。
杉浦千畝とキリスト教
杉浦千畝は早稲田大学高等師範部英語科予科に入学はしたんですが、卒業はしていません。経済的な事情もあって外務省留学生に応募し合格。早稲田の方は中退してハルピンでロシア語を学びました。だけれどこの短い早稲田時代に杉浦千畝は最初にキリスト教に触れています。早稲田奉仕園で。
洗礼を受けてクリスチャンになるのは満州に赴任してからのことですけど。映画ではクリスチャンであることは特に示されてなかったようですね。見てませんけど。人道的観点、あるいは博愛精神で、とする方が万人ウケするからかもしれませんが・・・、本人の気持ちはどうだったんでしょうね。
杉浦千畝記念碑 |
杉浦千畝記念碑裏面 |
横には岩石標本 |
大隈重信像 |
日本大学開校の地
飯田橋に移動して、待ち合わせにちょうどいい店を探していたら、目白通りの両側に建てられた碑が目に入りました。
「飯田橋散歩路(サンポーロ)」と言うらしく、○○学校創立地みたいなのが多いですね。
あまり間隔を空けずにちょこちょこ建っているので、「ほんとにここだったんかいな?」という疑念が湧きますが。。
「あらま、府立中学の碑まで。これはちょっと建て過ぎじゃん?」と、眉をひそめて近づいて、見覚えのある単語に目が留まりました。府立第四中学校は・・・そう、確かローダスカ・ワイリックが教師をしていた学校。現在の戸山高校のことだとも書いてあります。私はここ出身の知り合いが何人もいます。
何か今日は最初と最後が線でつながっていたような気が。行く場所を自分で選んだように思っているけれど、もしかしたら導いてもらっているのかもしれませんね。そんなことを感じながら、一人散策を終えました♪
日本大学開校の地 |
府立第四中学校発祥地 |
国学院大学開校の地 |
東京って、史跡だらけじゃん
何もしなかった時間が、ただ流れて無くなってしまうように
使わなかった力もただ流れて、何も残らずに終わってしまいます。
私の時間と力を使った軌跡が、私の人生なんですね。
細かくみていったらキリがないほど、東京は史跡だらけで、ちょっと呆然としそうなくらい。それでも果敢に時間と力を使いながら歩き回っています。使いたいところがあるから、幸いなことだと思いながら。大体これがなかったら、私は一体何をしていたというんでしょうと考えながら。
そうです情熱を注ぐところがなかったら、その時間と力はただ流れてしまって、人生が空っぽになってしまったかもしれません。私に関心という宝を与えて下さって感謝しますと、繰り返し思いながら、これからも綴っていこうと思います
(≧∇≦)ノ
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