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旅行記 > 南蛮遍路 其の四
私は幸せだ!と思いながら、今日もめぐります♪
よくよく考えてみると、自由に旅行ができるって、ほんとに贅沢なことだと思います。時間や経済的なことはもちろん、一緒に行ってくれる人など、いろんなことが揃わないとなかなかできないことなので。
今日も笑顔で行って参ります (*゜v゜*)
今日もいい天気
まずは高知市内で行き残した所へ。板垣退助ゆかりの地は市の南の方にあるようですね。今日もいい天気で感謝です。探している所がじゃんじゃん見つかるといいんだけどなぁ。。
板垣退助帰朝記念碑
最初の目的地、
板垣退助帰朝記念碑には何とか到着。川沿いの道に建てられていて、住所とかないのでちょっと見つけにくかったですけど (^^;)
明治16年に板垣退助が外遊先から帰ってきたときに、自由党の党員3千人余りが船に乗って出迎えて、祝砲を数十発も打ち上げたのだとか。盛り上がってたんですねぇ。
板垣退助帰朝記念碑 |
板垣退助邸跡
続いて
板垣退助邸があった場所へ。跡地は工場みたいになっていて、塀の外に碑が建てられています。
すごく大きな碑です。こんなに偉人が多い土佐で、あまり業績がない人の碑をでっかく建てたら叱られそうだから、碑の大きさで慕われ度を感じますね。
日本に自由民権思想を定着させたという点で偉大なのはわかりますが、クリスチャンで宣教師と郷里伝道もするくらいの人だったことも覚えておいてほしいところです。ただし板垣家の宗旨が曹洞宗だったので、葬儀は遺志により仏式で行われましたし、お墓もバリバリ仏式ですけどね。
板垣退助邸跡 |
高知聖パウロ教会
では行き損ねていた教会にも。お城の少し北にある、日本聖公会の
高知聖パウロ教会です。
やったー、中に入れるようなのでお祈りして行くことにしましょう♪
高知聖パウロ教会は、高知県ではカトリック中島町教会、日本基督教団高知教会及び土佐教会についで4番目に古い歴史をもつ教会だそうです。高知で伝道を開始したのが1904年で、翌年には信仰のグループが形成されて教会が発足したのだとか。ゆうに100年を超える教会だということですね。
現在の礼拝堂は、1932年に中島町から現在地に新築移転されたもので、市内のキリスト教会では唯一、戦災をまぬがれた建物なのだそう。木のぬくもりと信者さんたちの重ねてきた祈りが渾然一体となって、礼拝堂内はこの世から一段階違う世界に入ったかのようです☆
桑名古庵の墓を目指して!
「桑名古庵の墓」!?
さて教会で英気を養ったところで、次なる目的地へ。高知のラストになるのですが、これが最大の難関なんですよね。「桑名古庵」という元キリシタンのお墓なんですけど。
ものの本には「久万山南麓の道を山に沿って北西に進み、道なりに久万山北側の南陽ハイツに入る道に入る。道標から久万山の小道を登るとある」と書いてあったのですが、そんなアバウトな説明で辿り着けるのか!?と・・・。
ここを行けと?
情報も古く、名前の出てるアパートも無さそうでしたが、細い道をあちこち行ってるうちに、何と「
桑名古庵の墓」と書かれた案内標識を発見!!
見つかったことにびっくりしながら、車を降りてみると、雑木林へと続く道があるのみ。
ここを行けと言うんですかね? 獣道みたいなのしかありませんが・・・Σ(='□'=)
案内が!
獣道に入って行くと、待ち構えていたかの如き蚊の大群に襲われましたが、蚊なんて気にしてられないほどの悪路で、道幅も30センチくらいで片方崖っぷち。
本当にここでいいのかと不安になる度に、案内板が見えてくるので、とりあえず進んでいきますが、なんだか罠にはめられていってるような感じもしなくないです。。
道とかないんですけど・・・
とうとう行き止まりみたいな所に出て、案内板もナッシング。ウソでしょ、何もないし・・・と、訝りながら周りをよく見ると、石みたいな物が点在しています。
ん?ここ、昔墓地だったのかも。薮蚊に加えて蜘蛛の巣までひっかかって(こんな日に限ってスカート)、もう散々ですが、一つ一つ石を見て、墓碑銘を読むしかなさそうです。ええい、ままよ。探してやる。桑名古庵桑名古庵・・・。
桑名古庵の墓発見!
気が狂いそうなくらい蚊に刺されて、思わず「主よー」と言った瞬間、ふと林の向こうが気になって行ってみると、
遂に発見!桑名古庵の墓!!
ご丁寧に解説板まで建てられているんですが、そこへ至る道が草木で覆われて、道がなくなってました。あり得ん;; しかし見つかったのだから感謝です。解説板もちゃんとあります(これ建てる力あったら道も作ろうよ)。
桑名古庵というのは今から400年ほど前のキリシタンで、兄に勧められて信徒になったのですが、禁教令が出て棄教。教えを捨てて土佐の帯屋町で医者をしていたのですが、「あいつはキリシタンだ」と訴人されて、牢に入れられ、木馬責めなどの拷問を受けました。だけれど既に棄教しているのですから、「キリシタンはやめた」という他なく、「キリシタンだと白状しろ!」と言い続ける役人とは平行線。
それで死ぬまで牢から出られませんでした。その期間なんと46年(解説板には47年と)。あり得ません。この人のこと思ったら、蚊に刺されくらい文句言えません。禁教下でキリシタンだとの疑いをかけられるとは、それくらい悲惨な目に遭うということだったんですね。
同じ嫌疑で母親と兄、弟も牢死していて、弟の娘の久の墓が古庵の墓の近くにあります。キリシタン類族として生きるのは楽ではなかったでしょうね。古庵の墓に「土葬」と刻まれているのは、無罪の意味だそうです。土佐では火葬は罪人のみに行う風習があったので、土葬されたということは、罪がなかったということになるそうで。
ただ証拠不十分で未決のまま死亡したから土葬しただけであって、本当に無実だと考えられていた訳ではないと、私は思うのですけど。それにしても悲惨です。井上政重(初代宗門改役)〜!という感じです。
桑名古庵の墓解説 |
桑名古庵の墓 |
桑名古庵「土葬」 |
姪の久の墓 |
下山も一苦労。。
桑名古庵の墓から車に戻るのは、下山も一苦労。。まあ、古庵に比べればこれくらいと思ってしまいますけど。
だけれどキリシタン禁制の度を超した厳しさ、異常さを感じるのに、ここほどうってつけの場所があるでしょうか。既に棄教していて、キリシタンじゃないと言っているのにそれを信じずに半世紀近く入牢させただなんて。
もし信仰深いキリシタンだったりしたら、どんな目に遭ったことでしょう。こういう人の立ち入らない雑木林の中に、歴史の大切な部分が埋もれているだなと感じます。
それでは愛媛へと山越えしましょう★
拾った栗
墓のある久万山で拾った栗を自分用のお土産に、高知県を後にします☆
連休で混むだろうからと思い、松山までは高速と下道とどっちがいいですかと、朝ホテルで訊いたところ、「どっちも同じくらいですねー」と言われたので、のんびりと下道で行くことに。
何か発見があるかもしれないし、ということで。
最初は快適ドライブ
最初は快適ドライブで、景色なんぞもいいものですから喜んでいたんですが、次第に道は山深くへと。四国って意外と山なんだなと気づいたのが遅すぎました
( ̄(エ) ̄|||
山越えの一車線分しかない道を、かっ飛ばす車に煽られつつ、対向車が来る度ハラハラ避けつつ・・・気の休まる間もありませんでした。夫はもっとだろうけど。
道の駅「633美の里」
道の駅「633美(ムササビ)の里」ではちょっとゆっくり。ソフトクリーム食べてみたりして。特産品のお茶とゆずドレッシングを買いました♪
ここからはまた延々ドライブだろうから、ちゃんと休んで行くとしましょう☆
国指定名勝地「古岩屋」
途中見つけたのが「古岩屋」という所。
カルストが見られる自然公園で、「古岩屋」という呼称も私は聞いたことがなかったのですが、 国指定の名勝地だそうです。
このルート通らなかったら一生来なかったかもしれないんだから、名勝を堪能できてラッキーでございます ( ̄(エ) ̄)v
へとへとで松山に到着・゜゜・(×_×)・゜゜・。
新田開発した藩士の墓
気の休まらない4時間半を過ごし、へとへとで松山に到着。夫が高知のホテルマンのことを、「絶対自分で下道通ったことないやろー」とツッコんでました。同感です
(;´д`)
松山で一番見たいものを探して、まずは衣山(きぬやま)へ。ここの墓地に浦上キリシタンの記念碑があるはずなのです・・・が、見つかりません。説明板があったので見てみたら、この地域で新田開発した人のお墓でした。そりゃあその人も偉いでしょうけども。。
奥平貞幹の墓 |
カトリック松山墓地
ネットで再度調べてみたら、一般の墓地からもう少し上って行った所に
カトリック松山墓地があり、そこに記念碑があることが判明。ネットって便利ですの☆
入口の脇に最近新しくステンレス製の案内板が取り付けられたそうで、見やすくてバッチリです。
浦上キリシタン流謫碑
浦上キリシタンとは、長崎から流配されて来たキリスト教徒のことをいうのだと、この旅行記でも前に書きましたが、松山には、86人(解説板には約100人と)が流されて来て牢屋生活をしました。
三尺牢という、約90センチの立方体の牢に入れて苦しめるなど、棄教を迫る拷問が行われ、それが3年半の間続いたので、故郷に帰ることを許された時には8人が命を落としていました。その人たちの遺骸は藩の処刑場だった所(衣山5丁目の墓地付近)に埋められました。
松山でも高知の場合と同じように、その流配者の中から後年、神父になる人が出てきて、彼らを偲び、当時のことを忘れないために碑を建てることを提案。実現されたのがこの「浦上キリシタン流謫碑」です。台座の正面には命を落とした8人の名が記されています。
カトリック松山墓地 |
浦上キリシタン解説 |
浦上キリシタン流謫碑 |
8人の名 |
愛光学園
続いて浦上キリシタンの死者が実際に埋葬されたという、衣山5丁目の墓地へと参ります。精密な場所は分からないとしても、できるだけ近づいてみたいので。
墓地を探していると、
愛光学園を発見。中高一貫のカトリック系の名門校のようですね。キリシタンと関係ある地にキリスト教主義校があるだけでもうれしいような☆
衣山の墓地
さてこちらが辿り着いた墓地。一応
衣山ではありますが、藩の処刑場だった所かどうか分かりません。
前に見える山には大きな運動公園があるようで、歓声がここまで聞こえてきます。住宅地になっている所も多くて、「刑場跡はどこですか?」と訊けそうな雰囲気ではありませんね。知らないでいる住民には嫌がられそうなので。
残念ですが、浦上キリシタン埋葬地のリサーチはここまでに。いつか分かるようになるといいな。
三津口牢跡
松山で信徒が入れられていた
三津口牢の方は、どこにあったか分かっています。松山市萱町6丁目附近で、伊予鉄が通っている辺り、つまりここ(←)です。
食事は、朝は一杯の粥、昼と夜はご飯が一杯ずつ。その他醤油の実を湯飲み茶碗に入れた物が三人分のおかずでした。
三尺牢で拷問したのもここだった訳ですね。それによっては転びませんでしたが、飢餓状態のところに赤痢が発生して、7人が病死しました。明日をも知れぬ生活では、3年半は本当に長かったことでしょう。
日本基督教団 松山教会
では市内の教会めぐりにも行きましょう。こちらは
日本基督教団の松山教会です。今年が創立130周年だそうで、すごいですね。
建物は超をつけてもいいほど新しくて、デザインや色味もどことなくモダンです。礼拝堂ではコンサートや講演会も催されているようです♪
カトリック松山教会
次は
カトリック松山教会。松山に来てから教会でお祈りしてないので、できれば中で祈りたいんですけど。。
お、開いてた! お邪魔します (o^-^o)
聖堂内にはトマス西と15殉教者の版画が掛けられていました。1987年に列聖されたので全員「聖」をつけて呼ばれる人たちですね。殉教地をいろいろ回っているけれど、つくづく殉教とはすごいことだと思います。自分の最も大切なものを天に捧げるということをした人たちなのですから。殉教の事実もさることながら、そのような生き方をしていったことがすごいというか。時を忘れて見上げていました。
カトリック松山教会 |
16聖殉教者 |
松山城にでも行こうかということに♪
松山市内を
松山で絶対に行きたいと思っていた所には行けましたが、少し時間があるので、お城にでも寄って行こうかということに♪
松山市内を移動しながら、街の様子を眺めました。たぶん松山は四国では一番栄えている街だと思いますが、割と落ち着いた感じですね。これが四国の雰囲気なんでしょうか。
リフトとロープウェイが!
松山城の辺りはさすがに観光客でごった返していて、連休だということを思い出しました (゜0゜)
それから松山城に登るにも、リフトとロープウェイの2つの方法があることも初めて知りました。高度から言って、リフトはかなり怖そうなんですが、それでも半分くらいの人がそっちに並ぶのでびっくり。
松山城
眺めの良さにテンション上がっていると、数分で城に到着。
本丸跡から望む大天守小天守がいい感じです。
この城を築いたのは加藤嘉明。その後会津の蒲生家と領地交換となり、蒲生忠知が入城しました。だけれど蒲生忠知は参勤交代の途中、京都で病没。嗣子がなかったために御家断絶となりました。そこで伊勢国桑名から松平定行が入り、明治になるまで藩を運営しました。
ロープウェイ |
松山城説明板 |
待合番所跡 |
待合番所跡 |
隠門続櫓 |
隠門続櫓 |
本丸の井戸 |
天守 |
松山市内を一望
大天守小天守もいいけれど、本丸跡から見下ろせる街の姿こそが最高です。
雲間から差す光が、街に祝福を与えているようです☆
しばしこの街のためにお祈りしました。
石垣すご! |
空ひろ! |
俳句ポスト!? |
俳句ポストご案内!? |
よしあきくん
しかしまあ、どこに行ってもあるのがご当地キャラというやつですが、この「よしあきくん」だけはいただけません。
築城した加藤嘉明のことをキャラクターにしたんでしょうけど、加藤嘉明はキリシタンの大迫害者です。
1624年、加藤嘉明は伊予国(愛媛県)で柳屋九兵衛ジョアンというキリシタンを「意気試し」で処刑しました。「意気試し」とは全裸で地上に体を横たえさせて、両断するものです。処刑地はどこだったかはっきりとは分かっていませんが、恐らく城の近くで人がたくさん集まる所だったでしょう。もしかしたら衣山だったかも。
伊予国ではこれが最初のキリシタン処刑です。その後に来た蒲生忠知は、キリシタン大名蒲生氏郷の孫だったので、キリシタンに対して少しは憐憫の情があったかもしれません。在城7年目にして病死してしまったので、どんな政治をしたのかあまり伝わっていませんけれど。城の歴史は人間の思いの歴史ですね。
話は変わりますが、ロープウェイで降りていく時、右手に
松山東雲学園を見つけました。キリスト教主義の学校で、四国で最初の女学校でもあります。少し前にここで頑張っていた宣教師さんのことを読んだので、ちょっと感動。そういえば夏目漱石の「坊ちゃん」に登場するマドンナのモデルもここの女学生だったような。なるほど松山でつながるのか
(● ̄(エ) ̄●)
松山聖アンデレ教会
それでは最後にもう一つ教会に寄って愛媛を後にします。
日本聖公会の松山聖アンデレ教会です。
新しい教会堂の横に残された煉瓦造りの礼拝堂は、1956年に建造されたもので、松山市に現存する唯一の煉瓦造りの建物だそうです。歴史を感じますね。素朴な印象もステキです♪
松山聖アンデレ教会 |
自家製麺のうどんが食べたい。
今夜は四国中央市に泊まります。明日高松を回って徳島に戻るために、ギリギリまで高松に近づいておこうと思って。でも今日はかなり強行軍だったので、スケジューリングのまずさを痛感しました。ごめんなさい<(_
_)>
せめて胃にやさしくて栄養も摂れそうなものということで、「神様、うどんが食べたいです。自家製麺の美味しいのがいいです」と声に出して言ってみました(子供かっ)。
しかし数分後、言ったとおりのうどん屋が沿道に現れて、疲れきったところで最高の栄養補給ができました。ううっ、ありがとうございます。旅ってほんと疲れる瞬間がありますよね。いつも守ってくださって感謝・・・、やっぱり幸せです♪♪♪♪Happy
(ノ^^)乂(^^ )ノHappy♪♪♪♪
トンネルを抜けると・・・
人を許せないでいる時、私の中には自分中心の理屈が渦巻いていました。自分の持つ怒りや恨みが正当であるという考えが頭の中にびっしりと詰まっているので、他の考えが入り込んでくる余地がありませんでした。
それで考えがどんどん先鋭化して行って、気づいたときには自分でも空恐ろしくなるほどの、悪い想像をしてしまうくらいでした。考えを持って行かれてたんですね、恐らく。
自分の正しさよりも、「許しなさい」といった聖書の言葉の方を優先することを決めた時から、考えが悪い方向へ持って行かれることがなくなりました。平安が訪れてきたし。まるで、トンネルを抜けたようです。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という書き出しで始まる小説があるけれど、私もまたトンネルを抜けて新しい景色に出会えました。成長して次元を高めていくためには、真面目に自分を直していけなければなりませんね
(*^^*ゞ
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