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旅行記 > 南蛮遍路 其の参
人によって憧れの人というのは違うのだろうけれど
私が小中高と憧れていたのは空海。卒業文集にもそう書いていました☆
だから今日はちょっと特別な日。空海が修行した洞窟に行くのです。
感動するのか、がっかりするのかわかりませんが、レッツゴー(*゜v゜*)
室戸岬へ!
空海(弘法大師)が修行のためにこもった御厨人窟(みくろど)は室戸岬にあります。昔修行のエピソードを本で読んで、地図で室戸岬を調べてみたら、四国で最も端っこにあることがわかって落胆した覚えがあります。
これじゃ簡単に行けないよね。電車も通ってなさそうだし・・・、と。でも今日は快晴の空の下、室戸岬へとドライブしているんです♪ テンション上がります。
御厨人窟
徳島から少々時間はかかりましたが、見つけるのは問題ナシ。国道沿いに、空海が難行を重ねたと伝わる神明窟と、修行中の住居としていた御厨人窟の2つの洞窟が並んでいます。
では早速、御厨人窟へ!
御厨人窟の奥
御厨人窟は、約1200年前の平安時代、青年時代の空海が悟りを開いたといわれる洞窟で、内には五所神社と呼ばれる社があります。
「空海」と名前をつけたのも、ここから見える空と海に感銘を受けたからと言われています。
だけど人が出たり入ったりしている内部には、神霊さがなくて、暗く荒んだ印象を受けました。長年想像してきたので、想像だけが先に行っちゃったんでしょうか。まあ、空海が修行していたのは1200年も前のことですからねぇ。。(;´д`)
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御厨人窟入口 |
室戸ジオパークの遊歩道
しかし、これは知らなかったのですが、室戸岬の周辺は世界ジオパークに認定されていて、キャッチコピーによると「大地誕生の最前線」を見られるのだとか。
海岸沿いの遊歩道を歩くと、いろんな岩がごろごろ。こちら(←)は烏帽子岩。岬周辺にこのような大きな岩があるのは、岬の岩が硬くて波に削られずに残ったからですね☆
天狗岩
国道に戻って見上げると、ハンサムな横顔が!
たぶん形象岩と言うんでしょうが、こういう岩ってすごく価値があると聞いたことがあります。
名前は「天狗岩」ですが、私的には「神様の横顔」と名付けたいところですね。もちろん神様の顔とか見たことないですけど、ほらイメージとして (^ー^* )
それでは高知県へと向かいますヾ(´▽`*)ゝ
日本基督教団 香美教会
それでは西へと向いましょう。今日は高知市に泊まるのですが、行きたい所がいっぱいなので☆
高知市の手前で香南市に寄り、まずは教会へ。
日本基督教団の香美教会です。
そこからカトリック赤岡教会へと向ってみたら、初代村長邸跡や伊能忠敬測量地碑がありました(↓)。
カトリック赤岡教会
カトリック赤岡教会は、中にも入れました。いつでも誰でも受け入れるために扉を開いておくって、今のご時世大変なこともあるだろうに、有り難いです♪
聖堂でお祈りできて感謝です。浦上キリシタン殉教を記念して、昭和7年に完成した教会を、改築したのが、今の教会堂だそう。
赤岡は浦上キリシタンが牢屋生活をした所ですもんね。ここは教会自体が記念碑なのかもしれません。
カトリック赤岡教会 |
赤岡教会聖堂内 |
赤岡教会聖堂内 |
教会堂について |
香南警察署
続いて来たのが、香南警察署。警察署の写真って撮りにくいんですけど、撮っちゃいます。歴史の証しとして。
長崎から流配されて来た浦上キリシタンが入れられた
赤岡牢の跡は、旧赤岡警察署となり、香南警察署となって現在に至っています。
ここに信徒たちがいたんですね。警察署の隣にある創業120周年のドラッグストアは、牢があったことは知ってるかもしれませんね。経営する人も店の様子も違っているでしょうけど。
香南警察署 |
創業120周年 |
空港に寄って高知市へ★
吉田茂像
それでは次は、用事を済ませに
高知坂本龍馬空港へ。高知家プレミアム旅行券という、おトクなチケットがありまして、今回の旅行を後押ししてくれたのですが、その引き換えに来たのです。
用を済ませてふと見ると、あら、吉田茂さん! 吉田茂の父は高知県出身で、吉田茂が立候補し、当選し続けたのも高知県でした。
それで県内に建つ銅像や碑の揮毫が吉田茂であることが、往々にしてあるんですね。個人的にも最近、吉田茂のことを知りたくなっていたので、「あら♪」みたいな感じです。
国清寺(見龍院跡)
続いて
国清寺へ。浦上キリシタンが収容されたお寺です。
高知に流された浦上キリシタンは、まず赤岡牢(現・香南警察署)に入れられましたが、そこから廃寺となっていた見龍院(現・国清寺)に送られ、家族たちは江の口牢に送られました。
解説板には「長崎県浦上の信徒と家族九十人前後の人たちが、赤岡と江ノ口の牢舎から移されて生活していた」と、ちゃんと書かれていてすごいです。負の記憶を隠すのではなく明かすことで、未来につなげていこうという姿勢がうかがえます
( ´ ▽ ` )
国清寺 |
国清寺解説板 |
隣には掛川神社 |
掛川神社解説 |
カトリック江ノ口教会
それでは高知市内へ☆
まずはお祈りするためにカトリック教会を訪れてみました。
カトリック江ノ口教会です。
この教会には福者パウロ田中と妻マリアの絵が飾られています。長崎の西坂で殉教したのですが、2人は土佐の出身だったので掲げられているんですね。2人とも日本205福者に上げられています。
高知駅前
そして高知駅へ。駅前に3人の銅像が建てられていて、真ん中が坂本龍馬ですね。ここに龍馬以外の3人の像とか建てたら顰蹙でしょう。
龍馬の周辺では、甥の坂本直寛と、同じく甥で養嗣子の坂本直、従兄の沢辺琢磨がクリスチャンです。全員土佐ゆかりの人物なので、どこかで会えるといいんですが☆
江ノ口牢跡
さて高知に来たら是非行かねばならないのが、
江ノ口牢跡でしょう!(と思うのは私だけ?)
先ほどから出てきている江ノ口牢は、山田橋南詰東側にありました。解説板には「山田橋番所」と書かれています。
ここで浦上キリシタンたちが囚人として暮していたんですね。時の流れが全てを消し去ってしまっています。
福岡県のカトリック今村教会を建てたパウロ本田保神父は、13歳の時母と妹共に高知に流され、江ノ口の狭い牢に収容されました。病気と飢餓に苦しみながらも、福音を説く伝道師になることが己の使命だと思い、一人で脱走し、神戸のヴィリオン神父の元に駆け込んで保護されました。その後横浜や東京の神学校で学んで神父となったのです。信徒たちの苦しみまで消し去られ、忘れ去られてはいけないでしょうね。
中央公園
それでは今度は車をパーキングに入れて、徒歩で回ることにしましょう。そこかしこに史跡があるので、歩きの方が都合がいいのです。
停めてランチでもと思っていたひろめ市場がとても混んでいて、駐車場も2時間待ちとかだったので、案内された中央公園地下の駐車場へ。でもこれがちょうど行きたかった所なので、超ラッキーです。私たちを熟知している方に導かれているような。(ёё。)(。ёё)。ウフウフ
立志社跡の碑
中央公園に来てみたかったのは、この碑ですね。
立志社跡の碑です。
立志社は、明治の前半に自由民権運動の中心となった結社の一つ。それで「自由は土佐の山間より出づ」と書かれているんですね。
立志社は、板垣退助や片岡健吉らによって設立されたのですが、この2人はクリスチャンです。クリスチャンだということは、あまり知られてないですけれども☆
立志社碑 |
立志社について |
まちなか歴史散歩へヽ(‘ ∇‘ )ノ
片岡健吉生誕地
中央公園を皮切りに、まちなか歴史散歩へと出発。7〜8分歩いて
片岡健吉生誕地に着きました。片岡健吉は生家の近くで政治結社を立てたんですね。
片岡健吉は1844年生まれの土佐藩上士で、戊辰戦争のときに板垣退助に従って戦って功績を立てました。
維新後は新政府に出仕し、1871年から2年間はロンドンに留学。帰国後の1874年に、板垣退助らと共に立志社を創設して初代社長となりました。しかし1877年、立志社の獄で逮捕され、禁錮100日の刑を受けました。1881年には自由党の結成に協力しましたが、急進派を押さえきれずに解党の憂き目をみました。
クリスチャンとしての片岡健吉
片岡健吉が洗礼を受けたのは1885年のこと。クリスチャンになるにあたって、大きく影響を与えたのは板垣退助だったと考えられます。片岡健吉は、1893年から植村正久や井深梶之助、坂本直寛ら(いずれも明治期を代表する錚々たるキリスト教者)と協力して高知県下の伝道を進めていきました。
1890年から死去までは衆議院議員として働く一方、日本基督教団高知教会の長老や、東京YMCA(キリスト教青年会)第4代理事長務めました。1903年に没し、正四位に叙せられました。享年61。幕末から明治を駆け抜けた熱い人生だったと言えそうですね。
片岡健吉生誕地 |
片岡健吉生誕地碑 |
板垣退助生誕地
ほんの5分も歩かないうちに、
板垣退助生誕地碑を発見!
えっ、すごいご近所さんじゃないですか。片岡健吉と板垣退助って。
同じく土佐藩上士の家に生まれた嫡男で、年は板垣が7歳年上ですが、まあ同世代と言えそうですし。なるほど自由民権運動以前から近しかったんだろうなと想像がつきました。それが長じて、同志となり信仰の友ともなったのでしょう。歩いてみると、そんな発見もあるんですな
(□。□-)フムフム
板垣退助生誕地 |
板垣退助生誕地解説 |
カトリック中島町教会
またしばらく歩くと
カトリック中島町教会が。創立
100周年を超える 教会です。
暑いので中に入って休ませてもらいましょう。お祈りもできますし♪
板垣退助も片岡健吉もプロテスタントだったから、こちらには来てないでしょうね、たぶん。
カトリック中島町教会 |
カトリック中島町教会 |
馬場辰猪誕生地
少し行くと、道の反対側に馬場辰猪(ばば たつい)誕生地碑がありました。馬場辰猪は、自由民権運動家の中でも急進で国粋的な人物で、従ってクリスチャンではありません。
ただ長崎英語伝習所で、宣教師フルベッキに英語を習ったことがあります。私は弟の馬場孤蝶(ばば・こちょう)の方は名前くらいですが知ってたんですけど、こんな経歴のお兄さんがいたことを知りませんでした。碑が建てられるくらいだから、ファンの人がいるんでしょうね。
称名寺
少し歩くとあるのが
称名寺。浦上キリシタンが預けられた寺です。ただし江戸期まで称名寺は潮江村にあったので、信徒がいたのはここではありません。
廃仏毀釈で廃寺になって、後に現在地に再建されたのです。だから浦上キリシタンが来たのが廃寺になってからならば、信徒を棄教させようと様々な手段を講じた(称名寺では、志操堅固な男性を妙齢の女性と同室に入れ、転ばせようとした)のも、僧侶ではなく役人だったかもしれませんね。
高知県には浦上キリシタンが116人流されてきて囚人生活をして、そのうちの39人(42人とも)が亡くなりました。処刑した訳ではないけれど、牢内の劣悪な環境のせいで、疫病で死ぬ人が多く出ました。たった数年間でそんなに死者を出すなんて異常です。死亡率は33%を超えているので、戦争に行くようなものでした。この流配を「旅」だと言って忍んだ信徒たちに頭が下がります。
坂本龍馬生誕地
角を曲がって大通りに出て、しばらく行くと
坂本龍馬生誕地碑が☆
ここだけ観光客が多くて、碑だけを撮るのが至難の業。
中でも中国人一家が目立ってましたが、中国人にとって坂本龍馬ってどんな認識なんでしょ (ーΩー )?
この碑の揮毫は吉田茂。地元の名士だから頼まれたんでしょうね。坂本龍馬周辺にクリスチャンがいると言いましたが、甥の坂本直寛はプロテスタントで、従兄弟のお兄ちゃん、沢辺琢磨は正教徒(ロシア正教のニコライ司教に伝道され、日本人初の正教徒となり、後に初の日本人司祭となった)。時代は変わるも、揮毫をした吉田茂はカトリックなので、キリスト教でも三つの教派に亘って囲まれてますね。
坂本龍馬生誕地 |
坂本龍馬生誕地解説 |
江ノ口川
大通りの信号を渡ってお城側に行き、小路に入ると、どことなく昔の風景が残ってる感じがしました。
江の口川は最上流まで8キロ程しかない川で、高知城の北をめぐって、山田橋の下を通ります。それであの牢屋を江ノ口牢と言ったんですね。
この川で龍馬も遊んだかも。春には桜がきれいなんだろうな♪
高知師範学校跡 |
高知師範学校跡 |
婦人参政権発祥の地
婦人参政権発祥の地碑を見に来てみたら、隣に
嶽洋社(がくようしゃ)跡の碑を見つけました!
嶽洋社は、1878年に設立された自由民権運動結社で、坂本直寛が主要メンバー(嶽洋「社」なので「社員」という)として活躍していました。
直寛の足跡、ついに(偶然ですが^^;)発見です。
「男女同権ハ海南ノ一隅ヨリ始ル」
坂本直寛に興奮してスルーするところでしたが、婦人参政権発祥の地についても触れておきたいと思います。日本で婦人参政権が認められたのは、1945年10月の閣議決定なのですが、それより60年以上も前の1880年6月に高知の上町町会は女性の選挙権・被選挙権を認める町会規則を県令(今の県知事)に提出しました。
それに対して県令は、認めないとする返答をしてきたのですが、上町町会の3ヶ月にわたる抗議行動に折れて、1880年9月、日本で始めての女性参政権を認める法令が成立しました。1880年って明治13年ですから、明治維新からわずか13年後のことです。これってすごい快挙だと思いませんか?
当時、世界でも女性参政権を認めていたのはアメリカのワイオミング州議会だけだったので、とても先進的な「事件」だったと言うことができるでしょう。立志社の碑にあった「自由は土佐の山間より出づ」という言葉を遺した植木枝盛は、「男女同権ハ海南ノ一隅ヨリ始ル」と、高知新聞に論文を発表し、婦人参政権の実現を称えました☆
婦人参政権発祥の地 |
婦人参政権発祥の地 |
嶽洋社跡 |
嶽洋社跡 |
高知城まで行っちゃいましょうか♪
日本基督教団 高知教会
それではてくてく歩いてお城へと向いましょう♪
そうしながらも寄るべき所にはちゃんと寄ります。この教会は欠かせないので。
日本基督教団の高知教会です。
坂本直寛や片岡健吉が長老を務めた教会です。一般に「長老」というと、知恵のあるおじいさん的なイメージですが、教会における「長老」は、信徒代表みたいな感じでしょうか。
近くに福岡孝弟(ふくおか・たかちか)誕生地の碑もありました。五箇条の御誓文を起草した政治家ですね。 高知の町は、あちこちに碑があって、京都みたいですね。いちいち立ち止まっていたらキリがないほどです (^。^;)アハ
日本基督教団高知教会 |
福岡孝弟誕生地 |
福岡孝弟誕生地 |
高知城へ
ではいざ、
高知城へ。観光客用の出入口とは反対側から入って行ったので、最初はちょっと閑散としてました。猫が歩いてたりなんかして。
でも石垣が立派ですね。天守もあるし。石についてる苔がいい味出してます☆
高知城天守
高知城は山内一豊が築いた城。天守までの上り坂がキツイです。そりゃ城なんだから、難攻不落じゃなきゃねぇ。。
来てみて知りましたが、国宝なんだとか。えっ、一般常識ですか Σ(=д=ノ)ノアウ
高知城
下りてくる道の脇にある「山内一豊の妻」像の碑の揮毫は吉田茂 。
吉田さん、揮毫しまくってますね。
名士って大変だなと思ったりして。
板垣退助像
大きな門の横手に建てられているのが板垣退助像。
1882年、岐阜で演説中襲われ負傷したのですが、この時叫んだのが「板垣死すとも自由は死せず」という言葉。この言葉があまりにも印象的だったので、私はこの時板垣退助は死んだと思っていたのですが、違いました。
その後自由党を解散して、新しい党を立てたり内務大臣を務めたりして、政界から引退したのは1900年。1919年に亡くなりました。「板垣死すとも自由は死せず!」と書かれたラッピングバスを、さっき見かけたんですがね。勘違いしてるの、私だけじゃない気がするなぁ。
山内一豊像
高知城を出ると、山内一豊像。来る人をお出迎えしてる感じですかね。
こちらの像のところにある、碑の揮毫も吉田茂。吉田ちゃん、サービスし過ぎの感もありますけども...(~ヘ~;)
近くには碑がたくさんあります。銅像や碑が好きな県民性なのかもしれませんね。
山内容堂誕生ノ地 |
土佐女子高等学校 |
少し南の方にも行ってみましょう (* ̄0 ̄)/
アーケード街の長宗我部元親
車を駐車場に取りに戻ろうと歩いていると、アーケード街の上から見下ろしてくるのは、長宗我部元親!
「土佐の出来人(できびと)」と呼ばれた人ですね。四国を平定したからですが、たぶん土佐の人以外からは嫌われてることでしょう。愛されてる統治者もいれば、そうでない人もいますよね。
北光社移民団の碑
再び車に乗って向ったのは、市内の南部。
まずは農人町にある
北光社移民団の碑へ。
川沿いの遊歩道に、オブジェみたいな碑が建てられています。
坂本家の人々と蝦夷開拓
坂本家で最初に蝦夷地の開拓を目指したのは坂本龍馬でした。しかしそれを果たせぬまま京都の近江屋で暗殺されてしまいました。その遺志を継いだのが、坂本直。直は龍馬の長姉
千鶴の長男で、龍馬とは6歳しか違わなかったので、龍馬にとっては弟のような存在でした。直は龍馬の指令で、蝦夷地開拓に向けての調査を行うなどしていたので、龍馬亡き後、蝦夷地経営に関する建白書を新政府に提出。
五稜郭に置かれた箱館(現・函館)裁判所の権判事(ごんのはんじ)となりました。しかし箱館戦争後、直は免職となり、朝廷の命により坂本龍馬の跡目を相続することとなりました。以後、東京府典事、宮内省雑掌などを歴任しましたが、キリスト教の信仰を理由に宮内省を罷免されました。その後は高知に戻り、弟の坂本直寛の家に同居して、不遇な晩年を送りましたが、信仰を失わず高知教会の熱心な信徒であり続けました。
坂本直寛は郷士(ごうし)坂本家(本家)5代目にあたる人物で、坂本龍馬の甥であり、坂本直の実弟です。直寛の時に坂本家は一家共々高知県から北海道に移住しました。龍馬の願いであった北海道開拓は、龍馬の跡目を継いだ兄・坂本直から直寛に引き継がれていった訳です。
自由民権運動で活躍した直寛は、政治活動の過程でクリスチャンになりましたが、やがて政治の世界から離れ、キリスト教主義に基づく聖村建設の実現を目指し、1895年、片岡健吉ら同志と共に合資会社北光社を設立。直寛は初代社長に就任して、北海道北見の開拓に着手しました。この碑はそのことを記念する碑なんですね。うーん、北見にも俄然行ってみたくなってきました
ヽ(^^)(^^)ノ
北光社移民団の碑 |
北光社移民団の碑 |
土佐高校
続いて土佐高校へ。こちらは個人的な興味で。知人の母校なんですが、行きたいお寺をマップで探していたら、すぐ近くにあることがわかったので寄ってみたのです。
文武両道を掲げる私立の名門校のようですね☆
眞如寺
さてこちらが
眞如寺。土佐藩主山内家の菩提寺で、隣の山に歴代藩主の墓所があるようです。
「お殿様」ですから郷土では愛されているんでしょうけど、私から見たら、流配されてきたキリシタンの生死を左右した責任者。命の責任を取ることなんてできるかわかりませんけど・・・。
それから福島県の三春城主だった松下長綱の墓もどこかにあるはずです。見つけられませんでしたけど。三万石を有する大名だったのに、キリシタンだったために改易され、妻の実家である山内家に預けられ、当地で亡くなったのです。山内家は浦上キリシタンが来るよりずっと前の、1600年代からキリシタンと関係があったということになりますね。
いざ桂浜へ!(○`ε´○)ノ
桂浜までは長い渋滞が・・・
ではラストは浦戸浜へ。サン・フェリペ号事件という、秀吉が伴天連追放令を出すきっかけとなった事件の現場ですので、外すわけにはいきません!
だけど浦戸浜の岬の反対側にある桂浜への渋滞がハンパなく・・・。そういえば空港で旅行チケット交換するとき、窓口の人が「桂浜は混んでいて駐車場に入るのに2時間くらいかかります」と言ってましたが、夕方なら大丈夫だろうとなめてました
(ノ◇≦。)
浦戸城跡
しかしまあ、混んでたせいで(おかげで?)発見できたこともありました。一つは抜け道で「長宗我部元親の墓コチラ」みたいな案内板を見つけたこと(後で寄ろうっと♪)。
もう一つは「
浦戸城跡」の説明板を見つけ、車内からだけど写真が撮れたこと。サン・フェリペ号事件の際には、ここから役人が行って取り調べ等にあたったと考えられます。
浦戸城跡 |
リョーマの休日;;
なんやかんやで桂浜の広い駐車場に着き、ここから浦戸浜まで歩いて行くつもりなんですが、夕暮れ時にも関わらず人が多いのにびっくり。
しかも私たちの後からも続々と入って来ます。桂浜は坂本龍馬ファンにはたまらない所ですからね。観光キャッチフレーズは「リョーマの休日」です。。( ̄∇ ̄;)ハハハ
浦戸砲台場跡 |
坂本龍馬像
さてこちらが有名な坂本龍馬像。像の高さ5m、台座10mで、人物像としては、日本で一番大きな銅像だそうです。
驚くことに、像の横に同じくらいの高さの物見台が建てられていて、何をするものかと思えば、龍馬像の横顔を間近に見るためのものだそう。ウケます☆
桂浜
土産店をやり過ごして進んで行くと、ようやく海が見えてきました。桂浜です。ずっと人の後ろを列になって歩いてきましたが、ここに来たら広々。
夕暮れ時の空も海も優しい色相に彩られて、月並みですが天国みたいな美しさです。人々が浜辺で波と戯れている様子もいとをかし。
海津見神社
潮が満ちてきているので、浜辺を回って浦戸浜方面へ行くことは無理だろうということで、岬の先にある高い崖に登って行きました。
天辺にあるのは海津見(わたつみ)神社。海の安全と豊漁を祈願する神社であろうことは、説明板を読まなくても想像できますね。
浦戸の浜
神社のところから、ようやく見えました
浦戸浜。
現在、浦戸港はもっと市中心部に近い方にあるのえすが、「浜」の感じがするのはこっちでしょうね。
実際にサン・フェリペ号が漂着したのはどこだったのかは分かりませんが、たぶんこんな様子だったんだろうと思います。目を凝らすとちょうど沖合いを船が航行中で、当時を彷彿とさせてくれました。これは神様からのプレゼントかな?
何にもいいことしてないから、それはないか・・・(*゜ー゜)>
夕陽を浴びながら
夕陽を浴びながら(夏の日は長いので感謝!)、帰りの渋滞に巻き込まれましたが、いいものを見られた興奮で何とも感じないのだからゲンキンなものです。
ナビが示す抜け道を進むと、行きに目星をつけておいた辺りに、長宗我部元親の墓への案内板を発見。すごく小さな案内板なので、「四国平定したあの長宗我部元親だよね?」と疑いたくなるくらい。こんな名前で同姓同名はないでしょうけども。
長宗我部元親の墓入口
周囲の薄暗さを感じながら車を降りると、身にしみるような物寂しさ。しばらくいると、物寂しさを通り越してぞっとするような感じが襲ってきます。
長宗我部元親の墓入口には数基の供養塔。墓までは急な石段を随分と登るようなので、私はここで待つことにしました。
長宗我部元親の墓
長宗我部元親の墓に行って戻って来た夫は
「怖かったー」と一言。
そそくさと車に乗り込み発進しました。
よっぽど恐ろしかったものとみえます。森も深くなって暗くなって・・・。墓だからといって私たち夫婦は恐れないのですが、ここでは鬼気迫るものを感じました。
感知してはいけない気がして、感覚をシャットダウンしようとしましたが、じわりと肌に入り込んでくるような冷たさが、心を震えさせました。私は死後の世界を信じているのですが、こういう霊界に行ってはいかんなと思います。
長宗我部元親の墓入口 |
長宗我部元親の墓 |
ちょっとがっつり
今日のディナーはホテルのレストランでちょっとがっつり。一日お疲れさまでしたということで♪(私は何もしてないが)
めずらしくデザートにケーキまで食べてしまいました。明日からはカロリー消費を心がけることにしましょう。。
南蛮遍路
今回の旅行記のタイトルは、高名な歴史学者の著書名前から。
松田毅一著「南蛮遍路」――。
松田毅一はフロイスの大作「日本史」の「完訳」を成し遂げた人です。
中世ポルトガル語で書かれた「日本史」を「翻訳」するだけでも大変ですが(そこまではやった人がいた)、ちゃんとした訳注まで付けて「完訳」、出版されるようになったのだから、快挙!でした。
キリシタン史を学ぶにあたり「日本史」は基本書とも言えるものですが、「完訳」が1980年に出版されるまでは、一部の研究者以外、正しく意味をわかって読むことがでいなかったんですね。
惜しむらくは、共著者の川崎桃太(かわさき・ももた。今年100歳を迎えられて今尚健在!)はクリスチャンなのですが、松田毅一はそうでなかったこと。たぶんあんなに愛したフロイスに、天国では会えてないと思われます。
ともあれ四国出身の松田毅一へのオマージュとして、「南蛮遍路」を綴っていきたいと思います ∬´ー`∬
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