支倉常長像
二の丸は東北大の川内キャンパスとなっているのですが、通り沿いには支倉常長像。
堂々たる全身像で、関連資料が国宝になりユネスコ世界記憶遺産にもなったからでしょうか、像の周辺が整備され、以前にはなかった小公園が出現しております。
立派な像の前に立ち、この人がキリシタンだと思うと誇らしくもあるのですが、信仰よりも政治的な流れに翻弄されることが多かった生涯を思うと、複雑な気持ちにもなります。
支倉常長と慶長遣欧使節
支倉常長と慶長遣欧使節について説明するには、「慶長」の前に「天正」遣欧使節がヨーロッパに行ったことから話さなければなりません。天正遣欧使節とは、日本史の教科書にも出てくる伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンという、有馬のセミナリヨで学んだ4人の少年が、九州のキリシタン大名の名代としてローマまで行き教皇に謁見して帰って来たものです。彼らはヨーロッパ各地の宮廷に招かれて楽器を演奏したり、ダンスも頑張って踊ったりして、向こうでちょっとしたブームまで巻き起こしました。
発案者はイエズス会のヴァリニャーノ神父。出発は信長時代の1582年で、帰って来たのは秀吉時代の1590年。すでに伴天連追放令は出ていましたが、秀吉は聚楽第で宣教師と4人の少年に会い、演奏を聴いてアンコールをし、上機嫌で誰かワシに仕えぬかとまで言っています。
そんな「天正」遣欧使節と「慶長」遣欧使節は全く様相が違います。まず支倉常長は少年ではなく、出発時にはキリシタンでもありませんでした。徳川の世になった1613年に日本を発ち、帰還はキリスト教禁令が徹底されつつあった1620年。送り出したのは、これまたキリシタンでもない伊達政宗で、この計画の発案者はフランシスコ会のソテロ神父でした。
常長とソテロの最期
伊達政宗の南蛮交易に対する野心を見透かしたソテロが、日本からの使節を連れて教皇に謁見し、いろいろとお願いしようとしたというのが真相です。しかし日本での禁教の様子がヨーロッパに伝わってから行ったので、ブームどころか各地で厄介者扱いされ散々な目に遭っています。航路も東回りと西回りで全然違っていました。実は2つの遣欧使節はローマという目的地は同じでも、世界を逆に回ったのです。
支倉常長はヨーロッパで洗礼を受け、教皇に謁見することまでは何とか果たしましたが、交易は結べずに帰国。キリシタン禁令のあおりで、仙台藩でも邪魔者となり、蟄居を申し付かって2年後に死去したと言われています。後に家臣の中でキリシタンが発覚し、その責任を問われて、支倉家を継いだ嫡男は処刑されています。
一方ソテロはヨーロッパからメキシコ経由でフィリピンに到着した後、フランシスコ会の長上から日本行きを止められ、マニラで足止めを食らいました。そしてやっとのことで出帆して鹿児島に上陸するや否や、中国人船長の裏切りで捕縛され、1624年長崎の放虎原で火刑に処されました。殉教者として1867年に列福され、
205福者の一人に数えられています。
この結末をどう見るか、私には判断が尽きません。どこか物悲しく、もどかしい気持ちだけが渦巻いてくるような感じがして・・・。