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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 エヴァーグリーンの杜 chap.2


今日は盛岡へ参ります!が、台風が接近しているということで、朝から大雨、洪水、落雷警報が出ています。こんなんで行って大丈夫かと危ぶまれるところですが、誘ってくれたTさんが祈った結果「行きましょう」ということに。

ええ、行きましょう。仙台在住の人はまた機会があることでしょうけど、私には簡単には訪れないチャンスですので。祈りつつ、神様の慈しみにすがりつつ、行って来ます (;^ω^)!



前沢PA


さてキリシタン史において盛岡がどんな場所かというと、殉教地であることもあまり知られていませんが、もっと知られていないのはキリシタンの教会があり、宣教師が巡回していたということではないでしょうか。

1612年、仙台にルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父が遣わした5人の同宿(日本人修道士)が仙台に来ました。これは領内での布教を伊達政宗が許したからで、彼らは仙台で活動する傍ら、南部領(現在の岩手県北上市から青森県下北半島で、藩主は盛岡に居城した)まで足を伸ばし、盛岡に教会を設けるまでに至りました。

そして1613年にはソテロ神父と2人の宣教師も江戸から逃れる形で仙台へとやって来たので、幕府直轄地では最早キリシタンはご法度となっていたにも関わらず、仙台およびその周辺では信徒が増えることとなったのです。

またちょうどその頃東北各地で金山や銀山が発見され、人夫が必要とされるようになったので、各地を追われたキリシタンがそこへと移住してくることとなりました。しかし1624年から南部領でもキリシタン迫害が起こるようになりました。信徒が逃れていく先はもう日本中どこを探しても無くなっている時代です。そのため追い詰められたキリシタンは殉教の道を選ぶほかありませんでした。


岩手大学 学食


そんなことを考えているうちに、岩手大学に到着。お天気も時折パラパラとお天気雨が降るくらいで、極めて良好。

ただし学生には「警報が出てるから早く帰りなさい」とアナウンスされているようでした。広くて緑が一杯なキャンパスですね☆


上田の鐘

上田の鐘解説

彫刻のある中庭


岩手大と言えば宮沢賢治なので、その関係の所に行きたいなと思い、ちょっと迷ってウロウロしていると、彫刻のある中庭の向こうに趣ある建物が。

このパターン、昨日の東北学院大のデフォレスト館と同じだと思いながら近づいていくと、ビンゴ。宮沢賢治が通った盛岡農林学校の建物でした。中入れるのかな?もしもーし (^^)/


彫刻配置図

百年記念館

百年記念館解説

こちらは入れない

旧盛岡農林学校本館


旧盛岡農林学校本館は国の重要文化財。内部は資料館になっています。

レトロな建築のディテールを楽しみながら、鳥類や動物の剥製標本を見学することができます。


旧盛岡農林学校

重要文化財

前庭の碑

温室

内部は資料館


宮沢賢治関連の史料は少ない・・・というか、ほとんど無いかも ( ;∀;)ハゥ

ワシやらミミズクやらを見ればそりゃ楽しいけれど、なんちゅーか、ここまで来なくても他で見られそうな感じですし。

ただ東北の冷害を何とかしようとした研究者たちの苦闘は感じられましたね。今では東北は米どころですけど、品種改良や土壌改良進むまでは、飢餓や一家離散、子供を売るなどのことが身近だった訳ですから。


ワシの剥製

ミミズクの剥製

建物内

講堂

盛岡一高


岩手大を出て、すぐそばにある盛岡一高へ。岩手と言えば、私はこの高校しか知りません(無知は自慢になりませんが^^;)。

宮沢賢治や船越保武、石川啄木、野村胡堂、金田一京助、米内光政らが出ています。このうち船越保武だけがクリスチャンですね。

戦後日本を代表する彫刻家で、長崎26聖人記念碑が代表作と言われています。父親の代からのカトリックのクリスチャンで、最初は信仰熱心ではなかったのですが、子供の死を通して信仰を深めていくようになりました。

脳梗塞を患ったため晩年は若いころのような端正な作品は創れなくなりましたが、それからの作品の方が私は好きです。命がそのまま込められているような気迫があって、作品の前に立つと気迫に「打たれる」感じがします。船越保武は2002年2月5日――、奇しくも26聖人が処刑されたのと同じ日付の日に亡くなりました。


盛岡一高

岩手医大

岩手医大


 岩手県立大学☆


岩手県立大学


教育関係に関心がある同行者の意向で岩手県立大学にもゴー。「なぜここに?」というような辺鄙な場所に突如現れる新しくてピカピカな校舎。すでに盛岡市でもないみたいですし。

1998年に出来たそうなので、そりゃピカピカですよね。学生一人当たりの敷地面積が、都内の十倍はありそうです。宮沢賢治の詩が書かれたオブジェが点々と置かれていました。環境は抜群ですね (^^♪


岩手県立大学

宮沢賢治のオブジェ

旧宣教師館


盛岡市内に戻って来て、新渡戸稲造生誕地へ向かっていると、左手に旧宣教師館が。今日は時間がないので止まって見ることはできませんが、ここでチラ見できてうれしいです☆

下ノ橋教会に赴任した宣教師のために、大正時代に建てられた建築物だそうです。100年近く経っているはずですが、修復がしっかりされ過ぎててレトロな感じがしませんねぇ。。

ぱっと見は新興住宅地の建売住宅みたい。色味といい、形といい。遠目からしか見てませんけども。震災後に耐震補強工事を完璧にしたんでしょうか。保存という意味ではナイスですけどね、雰囲気を残すようにするというのは両立できないことなのかな。



新渡戸稲造生誕の地


そうこう言いつつ、新渡戸稲造生誕地へ。

家一軒分くらいの土地が公園になっています。

ここに生家があったようですね。

軽く頬杖ついた新渡戸稲造像の前で、皆で同じポーズを取ってパシャリ。たまには記念撮影もしませんとね。せっかく皆で来ているんですから (#^^#)



新渡戸稲造生誕の地

新渡戸稲造像

下ノ橋


新渡戸稲造生誕の地から徒歩2分ほどの所には、赤い屋根の教会が。日本基督教団の下ノ橋教会です。近いのでそのまま行っちゃいましょう♪

北上川の支流の上に架かる下ノ橋を渡ります。川面を見ると、かなり増水して川岸がほとんど見えません。川上の方ではかなり降っているようです。洪水警報出てるくらいですもんねぇ。

日本基督教団 下ノ橋教会


さてこちらの教会ですが、先ほどの旧宣教師館に暮らした宣教師が働いていた教会というだけでも訪れる価値がありますが、それにプラスした意味があります。

この教会が建っている場所は、昔正伝寺というお寺があった場所で、正伝寺にあったトラ屋敷(檻)にキリシタンの夫婦が入れられたという話が伝わっているのです。

旧約聖書の中には、バビロン捕囚の時代、神様を信じたことで迫害を受けたダニエルとその友人たちが獅子の穴に入れられたけれど、獅子は彼らを食べなかったという話が書かれていますが、それと同様のことが日本でもキリシタンの上に行われたということですね。

その結果はどうだったかというと、やはりトラは食べなかったそうです。そこまでは聖書と同じ。でもその後キリシタン夫婦は檻から出されて斬首されたと記録されています。だから結末は違います。イスラエルよりも酷い迫害を日本の信徒が受けたことをユダヤの人たちは知ってるんでしょうか。

このことがあったのは1624年の12月18日。彼らの名前はマチヤスとマグダレナ。檻から出されてすぐ処刑されたのなら、この増水した川原が殉教地だったと考えられます。



下ノ橋教会

正伝寺跡の川原

下ノ橋

向かいには賢治井戸

清水小路


1624年から南部領内では小規模なキリシタン狩りが行われるようになり、捕縛された者たちは城下清水小路の牢に入れられました。

で、こちらが清水小路の現在の様子です。昔の街道っぽい道があるだけで、後はあまり特色がないように見えますけども。

牢がどこにあったのか、ピンポイントで分かるところまで調べてくることができなかったので、この辺だったろうということしか分かりません。同行者の皆さま、スミマセン。でも今回も一緒に回っているM子ちゃんの本を貸してもらったので、次回にはもう少し正確なことをお知らせできるかと思います!(次回がいつなのか・・・)

南部領のキリシタン


清水小路の牢に入れられたキリシタンが何人くらいいたかは、これも正確な人数を知ることが難しいのですが、1636年の記録に、南部領で176人の信徒が発覚したとあり、この年にそれだけの人が入牢しただろうと考えられるので、その何倍か何十倍かの人がいたことでしょう。もちろん棄教してすぐ出た人もいたはずですが。

1624年からはキリシタンの処刑も始まり、先ほどのトラ屋敷の夫婦の他にも、信徒が斬首や水死刑に処されています。この頃はまだ見せしめ的に1人2人の処刑をしたようですが、1635年から1636年にかけての1年では約140人が処刑され、1人が牢死したと記録されています。

しかしその前10年間(1625〜1635年)の記録がないので、その間にどのくらいの人が殉教したのか全くもって不明です。南部藩での処刑は、少人数の場合で斬首の時は清水小路の牢か六日町の牢の仕置場で行われ、大人数の場合は北上川の仙北川原で行われました。だからこの辺りは殉教地でもある訳ですね。それを知らせる物は何もないですけど。



大慈寺


では次は大慈寺へ。この寺がある辺りは大慈寺町と言います。由緒ある名刹なんでしょうね。総理大臣を務めた人物も眠っています。

それが平民宰相、原敬。この人クリスチャンだったんですけど、お墓はお寺にあるんですねぇ。

まあ、墓は弔う人が建てることが多いですから、それぞれの家の事情というものがあるんでしょう。


原敬墓所

原敬墓所

大慈寺山門

大慈寺本堂

原敬墓所


参道への道を曲がる前から、「原敬墓所コチラ」みたいな案内が、立派な石碑で建てられていて、迷いようもなく墓所に到着。

原敬の遺言通り、名前だけシンプルに刻まれた墓石は、総理経験者にしては質素かつ簡素。

原家の墓域は広いですが、原敬自身の墓は小さいというのが、この人の矜持を表しているように感じます。お墓で栄誉を表そうとしていませんし、「私はこういうことをした偉大な人物だ。それを覚えておけ」みたいなエゴを微塵も感じません。戒名がないことと、後世の人に自分を知ってもらおうというエゴがないところが、クリスチャンぽいと言えば言えなくもないでしょうか。

墓誌には洗礼名も見えますね。つまりこの墓所は寺の中にあるけれど、クリスチャンも埋葬されているということですね。今やネットで何でも検索できる世ですが、現地に来てみて分かることもあるようです (*'▽')



原敬墓所

解説板

原家墓域

墓誌

祇陀寺


続いて祇陀寺(ぎだじ)へ。大慈寺町にあります。この辺完全に寺町ですね。城に通じる街道沿いの防御を固めるために、寺を配置したようです。

昔は有事の場合、兵士は寺の境内に集合して戦いに出かけたので、寺と言っても来世のための宗教施設というだけではなかったんですね。

ちょっくら走って祇陀寺まで来たのは、ここもキリシタンゆかりの地だから。牢内で死去したキリシタンが葬られた寺として名前が記録に出てきます。確かにさっきの清水小路から近いですね。運びやすく、いろいろと都合が良かったのでしょう。

キリシタンを葬ってくれたんだから、お礼くらい言ってもいいのかどうか・・・。言わなくてもいいか。キリシタンのことなどどこにも書かれていませんし、今も覚えて供養してくれてる訳でもなさそうですし。



祇陀寺

祇陀寺

共同井戸「青龍水」

円光寺


次はキリシタン伝説が伝わる円光寺へ。ナビに入れた住所が間違っていて、結構走り回りましたわ (+o+)

おばあさんに「円光寺に行きたくて・・・」と道を訊いたら、お参りだと思われて「ご苦労様です」と言われました。。

米内光政の墓があるようですね。立派な鐘楼と巨木も聳えています。


円光寺

米内光政の墓

巨木

切支丹伝説の首塚


この寺に伝わるキリシタンの伝説というのは以下のようなもの。

「南部藩の奥女中に蓮子という娘がいた。父がキリシタンで斬首となったが、蓮子は闇に紛れて、父の首を盗み、回向を願って寺々を回った。ただひとつ円光寺の脇門が開いていたので回向を依頼。住職は寺の運命を思ったが、密かに読経し埋葬した。蓮子は翌朝、自首をしたが、藩主はその親孝行に胸を打たれ、蓮子を側室に。その間に生まれたのが31代藩主信恩(のぶおき)と伝えられる。のちに蓮子は父の菩提を弔うために観音堂を寄進し、盛岡の観音11番札所となっている」――。

これが事実ならキリシタンを迫害した南部藩では、藩主にキリシタンの血が流れていたことになりますが・・・、南部信恩が生まれたのが1678年で、その頃にはもうキリシタンはすっかりこの辺りにはいなくなっていたので、処刑もなかったと思います。

江戸に切支丹屋敷が出来た1643年以降は、各地で捕縛された信徒は江戸送りになったので、たとえキリシタンが見つかったとしても、牢内で死亡した場合を除き、こちらで死ぬことはなかったはずです。なので年代からして斬首はあり得ないですね。

ただし、伝説の元になるような事柄があった可能性はありますね。それがキリシタンに関するものなのか、南部家に関わるものなのかは分かりませんが。でも個人的には「切支丹」という文字が書かれた解説板を見ただけでも、走り回った甲斐がありました。民衆からキリシタンがどう思われていたかを知ることができたので。



観音堂と首塚

切支丹伝説

観音堂

首塚


 台風が来る前にラストスパート!


感恩寺


昼間だというのに空も薄暗くなってきて、風も次第に強くなってきたので、そろそろラストスパートです。

やって来たのは盛岡市郊外にある感恩寺。M子ちゃんのご先祖に当たる相馬大作の顕彰碑が建てられているお寺です。

でも今回来たのは大作目当てではなく(ちょっとは目当てですがメインではなく)、ここがキリシタン殉教地だから。

1650年4月20日、感恩寺境内で花巻のキリシタンが斬首されたと記録されています。むむっ!?、1643年以降もキリシタン斬首されていますね。その前の記録が1639年だから、1643年以降はこれ1件きりです。恐らく、これは他の事情もあっての例外的な処刑だったのではないでしょうか。どういう事情だったかは分かりませんけど。



感恩寺

相馬大作顕彰碑

感恩寺境内

感恩寺墓域

小鷹刑罰場供養塔


感恩寺から近い、こちらが南部藩の刑罰場、小鷹刑罰場があった所。

供養塔がある所から道を挟んだ反対側が「お仕置場」だったというので、今ドラッグストアになっている所が刑罰場跡になりますか。

だけど・・・、私が信頼している高木一雄著「東北のキリシタン殉教地をゆく」には、キリシタンが処刑されたのは北上川の仙北町河原で、処刑された者の首を晒したのが奥州街道沿いの小鷹だったと書かれています。そこには感恩寺があり、首塚供養塔が建てられているとも。

ならばキリシタンの処刑地は、ここではなく、今しがた渡って来た橋の下だったということになりますね。まあこちらに首が晒されたみたいですから、こちらに来たのも必要なことだったと思いますけど。

一回来るだけでは、分からないことも多いですね。初めてだと土地勘がなく、具体的なことが考えられないので、あれこれ見つけてはみるものの、どうも正確さに欠けるような気がします。次回(があれば)リベンジしましょうか (*´ω`*)ネー



小鷹刑罰場跡

解説碑

供養塔

供養塔

ジャージャー麺


「こりゃ確かに台風だ!」とはっきり感じられるくらいになってきましたが、盛岡と言えばジャージャー麺だということで、盛岡出身の人に尋ねて美味しいお店を教えてもらって来店。

しかし、何と言っていいのか困るほど・・・「普通」です。大抵は「美味しい」と言うくらいの社交性は持ち合わせているつもりのワタクシですが。誰かが「こういうものなんだな、と思いました」と言い、その通りだなと言うしかありませんでした。

でも地元民に美味しいと言われている店に来て確かめたので、「きっと盛岡のどこかにもっと美味しいジャージャー麺が隠れているに違いない」という幻想は抱かなくて済みます。それでいいのでしょう☆


台風はいずこへ・・・?


台風はいずこへ?という感じで帰路につき、想定していた大変な目にも遭わずに無事帰宅。でも後でニュースを見てみたら、岩手県内では大被害が出ていました。

犠牲になった人もいるので、「ハレルヤ」と言ってはいけないんでしょうけれど、十分な準備や計画もなく行ったのに、無事に帰って来られたことには感謝です。

前々から行きたくて、お祈りまでしていた所に行かせてもらい、一緒に行った人たちとも話せて、いろんなことを分かち合えたと思いますし。中には全く初対面の人もいましたが、そういう人たちと出会えたこともこれからの糧になっていくような気がします。台風だった今日一日だけでなく、守られてある毎日を喜び、心からの賛美を (^◇^)♪




東北のキリシタンを想う


日本のキリシタン史を記録したものとしては、ルイス・フロイスの「日本史」が有名です。これはイエズス会のフロイスが記録係として書いたもので、手元に寄せられた情報を駆使して、自分がその場にいなかったことまで詳述しています。しかし26聖人の殉教を見届けるようにして死去したので、その後の本格的な迫害や殉教を経験していません。

そのため迫害後に本格的に宣教された東北のキリシタンに関しては、もう宣教師がいなくなってしまったので、キリシタン側の記録がなく、あるのは幕府か藩のものだけ。最小限のことを冷淡に記したものだけなので、そこで何があったのか正確に知ることは極めて困難で、不可能と言う人もいます。

だけれど、何かが書かれ、何かが書かれなかったとすれば、書かれなかったことにも意味があるはず。書かれなかったことから何を想像すればいいのか、それを考えるのが今に生きる者への宿題ではないでしょうか。

長崎のキリシタン史には「信徒発見」というハッピーエンドがあります。だけれど東北のキリシタン史にはどんな結末があると言えるのか。ハッピーエンドに無理やり仕立てる必要はないけれど、意味を見出したいから「想い」の羽を広げます。何かを感じるために・・・。

むざむざ死んだ彼らへの「想い」が、どこかで何かを発見することにつながらないか、そんなことを期待しながら、もう一日東北の地で過ごしていきたいと思います☆彡





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