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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 エヴァーグリーンの杜 chap.1


「今度盛岡に行くんですけど、一緒に行きますか?」「行きたいですねぇ。いつ行くんですか?」「明々後日です」「えっ・・・!?」
というメッセージのやり取りを経て、やって来ました仙台。盛岡には明日行きます。即断即決そして行動に移せたのは、「そうしてみよう」という感動があったため。何かを見つけられるといいな (*^^*)



キリシタン殉教碑


仙台に到着して、学生や社会人と合流。今日は女子旅です♪

まず向かったのは青葉城への登城路の脇、西公園にある仙台キリシタン殉教碑。本日は私のガイドでキリシタンゆかりの地をめぐるのですが、ならばここは外せません。

若い人たちに是非見て知っておいてもらいたいですし☆

キリシタン殉教碑


この碑は1624年2月、真冬の広瀬川に設けられた水牢で水責めの拷問を受け殉教した、ディエゴ・カルヴァリヨ神父と8名を顕彰するためのもの。

真ん中で両手を広げているのがカルヴァリヨ神父で、向かって右が農民、左が武士の像になっているのは、殉教した多くの農民や武士を象徴的に表してのことです。

天を仰ぐ神父と祈る信徒の姿が印象的に心に刻まれます。この像を制作したのは仙台教区の深沢守三神父。何度見てもいい像だなと思います。


大橋


西公園から小道を上がると青葉城に続く大橋が。この橋のたもと、広瀬川の畔に水籠と呼ばれる池がありました。

着物を脱がされ、水籠の四方にある杭に水中に座わらなければならないように縛り付けられるのが、水責めです。

2月18日、水責めによってまず、マチアス次兵衛とジュリアーノ次右衛門が息絶え、生き残った7人はさらに4日後の22日、再び水牢に入れられました。凍りはじめた水の中、カルヴァリヨ神父は、信徒たちを励ましながら最後に息を引き取りました。夜の8時頃だったと記録されています。

私たちが訪れたのは夏の終わりだったので、刺すような寒さや痛さ、凍死する状況は想像しくいですが、大量の蚊に刺されながら、「これくらいの苦痛(かゆさ)でも人は耐えにくいのにな」と思いました。教会の友人を誘い合っての集まりになったので、一曲賛美。一曲で終われず二曲、三曲と。

すると曇って雨が降り出しそうだった空が、みるみるうちに明るくなって温かい日がサッと差してきました。台風が接近して今日は一日雨だろうという天気予報だったというのに・・・。私たちが天の慰めになったのだとしたらうれしいですね。



評定河原野球場


そこから歩いて「花壇」という所へ。広瀬川が大きな曲線を描いている辺りで、評定河原野球場東北大学の運動場があります。

仙台藩の刑場は最初は城下の琵琶首(花壇)に置かれ、その片平丁寄りの根本東側に裁許所、後に改めて評定所が設けられました。そしてここが罪人を刑罰する場所ともなったのです。

1666年には米ヶ袋的場付近に移り、更に24、5年後処刑場は七北田に移り、七北田刑場と呼ばれました。仙台藩でキリシタンが捕縛され、処刑されたのはそれ以前のことなので、キリシタンはここにあった牢に入れられた訳ですね。

東北大運動場


そして水牢で拷問を受け死んだ者たち以外が処刑されたのは、恐らく牢の敷地内にあった刑罰場だったろうと考えられます。

水辺なので、火焙りでも斬首でも遺体の処理が楽だったのでしょう。広くて、城のある高台方面からはよく見える場所でもあります。

刑場としての要件を揃えているなと思いました。今は大学生が体を鍛え、老いも若きもスポーツで歓声をあげる場所になっていますが。もちろんそれでいいことではありますがね。知っていてもいいと思います。無辜の人たちが祈りながら死んでいったことくらいは。自分が暮らしている街の歴史なんですから。

評定橋


昨日までに降った雨で増水した広瀬川の上には、評定橋。ここから見える光景の方が、当時の様子に近いかもしれませんね。野球場や運動場からは想像するのが難しいので。

ここで背景を説明するために、日本のキリスト教史をざっと説明。「ざっと」話すのが難しいんですけど、クリスチャンならば知っていることもあるので、知識をつなげてもらえばと思い。スミマセンね、明るい話ができなくて (;^ω^)

広瀬川の川原


水嵩が増した評定河原は、河原が見える所もまばら。護岸工事もされているので当時とは違う点も多いことでしょうけど、それでもどことなく、「こんな感じだったのかな」というのが浮かんできます。

それが実際に訪れてみることの意義なんでしょうか。笑顔にまではできないけれど、こうやって私たちが知るためにめぐることが、神様の心を解いて差し上げることになるんじゃないかと思ったりして。。☆



 東北学院大までてくてく


デフォレスト館


さて次は時計を進めて明治からのキリスト教史へ。

仙台には熱い志を持ってキリスト教伝道をした人たちがいました。

その足跡を追うためにまずは東北学院大学の土樋キャンパスへ。

地下鉄やバスに乗るより早いので歩いて向かっていると、沿道に古めかしい洋館が↑。ちょっと朽ちかけているような感じもしますが。「何だろう?何か惹かれるものがあるよね」と言いながら写真を撮ったりしていましたが、後で調べてみたら、これが最近国登録重要文化財となった東北学院大学のデフォレスト館でした。国の重文なのに・・・意外と管理してませんよね?修復もしてるのか疑問。これからするのかなぁ (;'∀')



デフォレスト館

ホーイ記念館

東北学院大学 土樋キャンパス


少し進むと東北学院大学土樋キャンパスの正門に到着。評定橋から歩いて来なかったら、デフォレスト館は見られなかったかもしれないので感謝です。

土樋キャンパスの本館・礼拝堂・大学院棟は国登録有形文化財。重文ではないですけど、今も使っているから管理はばっちりな感じです☆


本館

校内

校歌

礼拝堂と資料館


正門横の警備員さんに東北学院史資料センターの場所を訊くと、礼拝堂の地下だとか。管理人が今席を外しているけれど、電気をつけて見ていいとのことでした。

歴史ある建物の中に入れて、テンション上がります。残念ながら礼拝堂は閉まっていて中を見られなくて、皆覗こうと背伸びしたりしてました。「また来ればいいんじゃない?」と言いましたけど、一番来られなさそうなのが、慰めてる私の方ですよね (+o+)

地階の東北学院史資料センターは見応えがありました。東北学院大の三校祖(押川方義、W.E.ホーイ、D.B.シュネーダー)に関する資料が中心ですが、「生」の史料に接することができるので、感覚で感じられるものがあります。

「気合の入った書だな」とか、「生真面目そうな筆跡」だなとか。あと高札などキリシタン禁制時代の展示も少し。歴史的に仙台を俯瞰することを忘れていません。



カフェテリア


お昼は大学内のカフェテリアで取ることに。授業はまだ始まってないみたいですが、運動部の学生や研究室に来ている院生などで、それなりに人出があります。

入口の壁に聖書の言葉が掲げられているのが、キリスト教系の学校だなという感じですね。在学中は何気なく見ていて、卒業してからふと思い出したりするのではないでしょうか (^^♪


聖書の言葉

かき揚げうどん


ここで待ち合わせた人を加え、総勢8名の女子で楽しくランチ。気楽でいいですよ。今日初めて会った人が9割ですが(一人だけ顔を知っている女性がいて待ち合わせをしてくれた)、クリスチャン同士、話が通じるので話のタネが尽きません。

もしかしたら昔のキリシタンもそうだったかもしれませんね。宣教師は各地を訪れ、誰かの紹介で連れて行ってもらい初めての人に会うんですが、それでも話がよく通じて、そこからまた人づてに巡回を続けていったのです。

私なんぞを宣教師に例えては失礼ですけど、感覚としては。当時を彷彿とさせることが、ここにも起こっているのではないかという意味で☆




 仙台駅方向に歩きつつ・・・☆


日本基督教団 五橋教会


それではお腹もくちてきたので、再び史跡めぐりへ。仙台駅方面へと歩きます。「皆こんなに歩いて大丈夫?」と何度も訊くのですが、大丈夫だというのでここまでずっと歩き通しです。

すると日本基督教団の五橋教会が。こういう思わぬ発見があるから、歩く方がいいんだなと思いますね。


五橋教会

教会案内

五橋教会

五橋教会

東華学校跡


しばらく行くと、東華学校跡の碑が。JT仙台ビルの敷地内に建てられています。

東華学校は1886(明治19)年に設立されたキリスト教主義の学校で、初代校長は長は新島襄。「SEEK TRUTH AND DO GOOD(真理を求め善をなせ)」をモットーにしていました。

デフォレスト館に名前を残す宣教師デフォレストもここで教師をしていました。たった6年間ほどしか学校はなかったのですが。

それでも碑があると名残を感じられるからいいですよね。碑や解説板がないと、そこに何の歴史も経緯もないみたいに通り過ぎてしまいますから。経緯を覚えていてこそ、その地の貴重さを分かるんでしょうから。

ちなみにこの碑文は「徳富蘇峰撰」となっていますね。英字の下の「修實徳勿求虚榮」という書(誰か読み下し文をプリーズ!)は中村正直によるものですし。徳富蘇峰も中村正直もクリスチャンです。

徳富蘇峰は新島襄の弟子でジャーナリスト、中村正直は学者で教育者ですけど。詳しく見るといろんな人とのつながりも見えて興味深いです。



東華学校跡碑

東華学校跡解説

ビル群


駅に近づいて来たのでビル群が聳え立っています。仙台は都会ですね。東北の首都と呼んでいいんでしょうか?

この辺に東北学院大学発祥地碑があると聞いて来たんですけども・・・。ビル周辺を見ても中の人に訊いてみても見つからず、「ナイナイナイ」とビルの敷地を一周して遂に見つけたのが↓の写真。

東北学院 中学校高等学校跡地


「なーんだ、最初に入って来た所にあったんじゃん!」「意外と小さくて見落としましたー」なんて言いながら、もがいて見つけた分、一層甲斐を感じて、皆揃って記念撮影。

しかし・・・、今改めて写真を見て気付いたのですが、「東北学院 中学校高等学校跡地」と書いてありますね。「東北学院大学発祥地」はまた別の所にあるようです。

あははは、「はい、チーズ」とか言ってる間に誰か気付こうよ(私がなっ)。ガイド役をする私が初めて行くんだから、こういうこと十分起こり得ますわな。というか、偶然とはいえ「東北学院」と名の付いた碑を見つけただけでもラッキーでした。しかし発祥の地もできることなら見てみたいですね。東北学院は元々「仙台神学校」として出発したのですから☆彡



中学校高等学校跡

中学校高等学校跡

北仙台の光明寺


それでは本日のラストのデスティネーションへと向かいましょう。それは支倉常長の墓がある光明寺

さすがに北仙台までは歩いて行けないので、地下鉄に乗ります。

北仙台駅からは徒歩5分ほど。ここは来たことがあるので余裕で向かっていたら、一人が「ここ、うちの牧師さんの家です」と。見ると寺の前にマンションがあって、そこに牧師さんが住んでいるのだとか。

「えっ、わざわざここを選んで暮らしてるのかな?すごい歴史観してるね」「いや、知らないで住んでるかもしれません・・・」という会話を交わし、ではご本人に連絡してみようということに。お時間が合えば参道を登って来てもらえればいいなと思い。


支倉常長の墓


電話してもらっている間によいしょこらしょと石段を登り、苔と地衣に足元を取られながら墓域へ。

墓域の奥、大木の根元に支倉常長の小さな墓があります。貧弱にも見える小ぶりな墓を見るだけで、この人が晩年受けた扱いが分かるようです。

支倉常長は伊達政宗に仕え、その命を受けて、フランシスコ会宣教師ソテロ神父と共に船に乗り、メキシコやスペインを経てローマに至り、パウロ5世に謁見を果たした人物。

しかし支倉常長は伊達政宗が願っていたスペインとの貿易の道を開くことができずに帰国し、日本では江戸幕府のキリスト教禁令が徹底化されてきた時期に重なったことも災いして、蟄居を命じられ、一説には切腹させられたとも。

実は支倉常長の墓は宮城県内に3か所あって(4か所だという人も)、それぞれ刻まれている死去年月日が異なっています。謎なんですけどね。不遇であったことは間違いありません。


ソテロ神父の墓


傍らには一緒にローマまで行ったソテロ神父の墓が。名門の出のとても優秀な人でしたが、独走するきらいがあり、それがフランシスコ会と他の修道会との軋轢を生み、ヨーロッパのカトリック教会では誤解を生み、その後に禍根を残してしまいました。

最後は長崎で殉教するんですけどね。だから殉教者としては顕彰されて然るべきですが、行ったことについては、現在と今後に生かす教訓として反省しなければならない点があります。

ただ仙台の人は優しいですね。支倉常長の墓の隣にソテロ神父の墓(正確には墓の形をした顕彰碑と言うべきかもしれませんが)を作ってあげるなんて。長崎で殉教して焼かれ海に撒かれたので、神父の骨などは何も残っておらずどこにも墓がないのに、お寺の中に作ってくれたなんて。私は有り難いことだなと思います。



支倉常長の墓

ソテロ神父の墓

支倉常長顕彰碑

カトリック北仙台教会


家から出て来てくれた牧師さんと境内で待ち合わせして、一緒に祈れる場所があるといいねということで、近くの教会へ。

カトリック北仙台教会です。

この教会の外観、どこかで見たことあるなーと思い、私が好きな建築家の手によるものだろうと思ったら、やはりカール・フロイラー神父の設計でした。カトリック大和教会などを手掛けたスイス出身の神父さんですね。他にも国内に幾つかフロイラー神父設計の教会堂がありますが、いずれも三角屋根に大きな丸窓が特徴。どうりで見覚えがあるはずです♪

中には舟越保武作の「十字架の道行」があるそうで、これは是非是非見てみたかったんですが、施錠されていて見られませんでした。やっぱり再訪決定でしょうか。また来させて下さったらすごーく感謝します、神さま♪(心の中の声)。舟越保武は長崎の日本26聖人記念碑を制作した人。明日訪れる盛岡出身のクリスチャンで、戦後の日本を代表する彫刻家です。



カトリック北仙台教会

教会内

教会内

早めの夕飯を


最後に牧師さんと合流するという嬉しい展開になり、皆で早めの夕飯を。訊くと、光明寺前に住むようになったのは、やはり狙ってのことではなく、支倉常長の墓があることも知らなかったとのこと。

「え、知らなかったんですか?」というツッコミはこの際引っ込めて、「すごいことですね」と言ってみました。いえ、自然とその言葉が出てきたというか。

400年近く前に無念な思いを抱いて死ぬしかなかったキリシタン、ローマまで行った男の祈りは文献にも載っていないけれど、その思いがつながって今があるようで、「すごいこと」だと胸が震えました。これが今日の発見で、収穫で、一番のご馳走となりました。感謝!





緑の向こうに


仙台はきれいな街だと言われます。それは緑が多いからじゃないかなと。大通りには車も多いけれど、それを覆うような街路樹もあって、気分を落ち着かせてくれるのです。この街を「杜の都」と呼んだ先人のセンスに脱帽♪

歩いてみると、大きな葉を広げた木がほとんどで、これは落葉樹だから秋には赤く染まって散ってしまうはず。でも何だか、これが散らないように感じるから不思議です。

目に見える姿を超えた何か、精神的で普遍的な何かがそこに立って存在しているようで、私に不変なものを伝えようとしているかのようです。常緑樹(エヴァーグリーン)――。そんな単語が浮かんできて、旅行記のタイトルにしました。

もしかして、永遠不変な何かを考えるには、もってこいの街なのかもしれませんね。美しい街の姿の向こうに普遍的なものを見出しながら、短い滞在だけど楽しく過ごしていきたいと思います (*'▽')





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