有岡城跡
JR伊丹駅に着くと、もう目の前は有岡城跡。徒歩1分で本丸なので、駅も当時は完全に城内。
「史跡 有岡城跡」と書かれた碑の周りを囲む石垣は、昭和になって積まれたもの。枡形虎口風になっているのもイマジネーションの産物です。
惜しむらくはこの城、私が乗ってきた鉄道や都市開発で、何の発掘調査もされぬままぶった切られ、現在の姿に成り下がったのです。
実にがっかりな有岡城ですが、来たかったのには訳があります。それは
右近ゆかりの城だから!(´∀`*)ポッ
私が思うに、右近の人生には大きく三回の苦悩期があったのですが、その一つがこの城に大きく関係しています。
右近は荒木村重という主君に仕えながら、高槻城主として頑張っていたのですが、村重の居城がここ有岡城でした。有岡城は日本最古の総構え(町ごと要塞化する城郭構造)の城とされ、長期の籠城にも持ちこたえた堅固な城でした。1582(天正5)年にこの城を訪れた宣教師ルイス・フロイスは「壮麗な城」と述べています。
荒木村重の謀反と高山右近の苦悩
右近が20代半ばの青年城主だった1578年10月、思わぬバッドニュースが耳に飛び込んできました。村重が信長に謀反を起こすとの話です。それを聞いた右近は、そんな無謀なことは止めよと村重を説得に行き、自分の忠誠を誓うために自身の息子と妹を人質として差し出しました。
しかしそんな真正直なことをしたら大変な事態に陥ってしまうのが戦国の世。右近は半年後、そのことによって窮地に陥りました。反旗を翻した村重を討つため、信長はまず先に、右近のいる高槻城を取り囲んだのです。信長の陣には百戦錬磨の錚々たる武将たち。
信長は右近の弱点を突いてきました。右近が信頼する宣教師オルガティーノを高槻城内に送り、信長に下るよう説得させたのです。その時右近の悩みに拍車をかけたのが、
父ダリオとの意見の相違でした。ダリオは武士ならば村重につくべきだと主張し、城を信長に渡すなら自分は切腹すると言う始末。
実際右近の息子と妹も村重の所にいるのですから、そう出来るならばそうしたかったでしょうが、信長に歯向かって勝ち目がないことは明白でした。悩み、血のにじむような祈りをしていると、短気な信長は更に追い打ちをかけるようなことを申し送ってきました。
「ただちに開城しなければ、すべてのパードレ(宣教師)を城の前で磔に処す。高槻のキリシタンを皆殺しにし、教会を破壊する」と。どうする右近……。