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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 西国街道のラウダーテ vol.4


今日も西国街道を西へ、福山、尾道、西条と回り、キリシタンにまみれたいと思います。尾道だけはちょっと微妙で一人で行くのが気が進まない(理由は後述)んですけど…。天気良さそうで感謝です (o^―^o)



福山駅前


JR福山駅前に建つ、五浦釣人像。この像の辺りに浦上キリシタンの収容所があったので目的地にしたんですが、像の作者は平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)だとな!

すごーく長生きして、本人よりも似ているという(?)超絶リアルな人物像を創り続けた人ですね。

100歳を超えて尚、30年かかっても使いきれないほどの材木を持っていたというエピソードをテレビで見たことがあります。

こんな所で作品に会えてうれしいですが、ここが信徒が入れられた城内会所跡で、像が目印にもなっていると思うと複雑。田中には関りないことですけども (;^_^A



五浦釣人像

五浦釣人像解説碑

福山のバラ

福山のバラ

100万本のばらのまち


福山では「100万本のばらのまち」という観光イベントをしていて、この季節に訪れたのは大正解。うっとりするほどキレイです。

しかし浦上キリシタンが福山で囚われの生活をしていたことを知っている人は少なさそう(あるいは皆無?)に見えますね。キレイなもので覆いつくして、負の歴史は封印してしまおうとする感じすら受けます。

観光イベントに逆行するかもしれませんが、ここでちょっと浦上キリシタンのことをお話しておきましょう――。


福山に流されたキリシタン


浦上(うらかみ)キリシタンとは、2百数十年にも及ぶ長い潜伏期間を経て、開国後来日した神父にキリスト教徒であることを告白(これを「信徒復活」という)、教会に復帰した者たちのことで、明治になっても政府がキリスト教禁令を撤廃していなかったため、彼らは捕らえられ流配されることとなりました。

特に長崎の郊外、浦上村の信徒が多かったため、「浦上キリシタン」と呼ばれるのですが、逮捕された約3400人の信徒は名古屋から西の20の藩に預けられ、そこで2~4年の牢屋生活をしました。収容所(牢)の環境は悪く、棄教を勧める「説諭」が、地域によっては拷問にまで至り、613人もの命が奪われました。

彼らを日本のカトリック教会では「最後の殉教者」としているのですが、福山もその流配地の一つということですね。特に福山は「信徒復活」のきっかけとなったイザベリナ杉本ゆりが流された所なので、来てみたかったというのがあります。



ばらのまち

ばらのまち

ばらのまち

ばらのまち

福山城跡


駅前のロータリーには福山城跡の遺構(新しめに見えるけど)が。この辺りに舟入と二重の櫓があったとか書かれています。

昔は瀬戸内海から入江を通ってこの辺りまで船で来ることができ、櫓は舟入に入る船を監視するものだったそう。なんか今の地形からは想像できません。。

昔と今を比較できる地図が置かれていて、それによると、私が今いる駅南側は三の丸跡。駅北側の本丸跡の方には「人質櫓」とか気になる名称も (@_@!

浦上キリシタンに詳しい、浦川和三郎著「切支丹の復活」の「旅の話」によると、信徒たちは鞆から芦田川を遡って福山に着き、抜刀した役人に連行されて、城の門を二つ通って堀端にあった蔵に入れられたというので、舟入から城下に入った可能性がありますね。せっかく来たのに、ぼんやり歩いてちゃいかんと思いました。



解説板

福山城について

比較地図

舟入遺構

今町(東)交差点


それでは市内の浦上キリシタン収容所跡をもう3ヶ所訪れてみることとしましょう。

駅から徒歩15分くらいの所にあるのが、笠岡町井掘割の跡。「今町(東)交差点」と書いてある辺りですね。

うーん、ほんとに何の痕跡も残っていません。。


笠岡町井掘割跡

ばらのまち

ばらのまち

暴力団追放


街を歩いていると見かけるのが「暴力団追放」の看板。これを掲げるのにも勇気が要ったのかもしれませんが、これがあることで「暴力団多いんだな」という印象も受けますね。

そう言えば街の雰囲気も、どこか繁栄と暗さとを持ち合わせているような。歓楽街として発展したんですかね。


畳役所跡


直線道路を真っ直ぐ歩いて、一回だけ曲がって畳役所跡へ。三角形のロータリーみたいになっていて、周りは酒の匂いのする飲食店ですね。

港に近づくにつれ、場末の雰囲気が濃くなるような。昔はもっと人が多くて、同時に乱れた感じもあったのかなと想像したりして。

分かりませんけどね。浦上キリシタンはここでどんな気持ちで過ごしていたんだろう。

後の時代の人からすれば、「流配生活は長くても4年程度で終わった」と知っている訳ですが、当時その場にいた人たちはそうとは知らなくて、いつ牢屋生活が終わるかも分からず、不改心者(棄教しない者)にとってはいつ殺されるかもしれない日々だったのですから。



畳役所跡

畳役所跡

座床跡


現在こんな立派に整備された一角が、浦上キリシタンが最初に入れられた座床の跡。ショッピングモールの駐車場になったりしています。

港には近く、城からは半里ほど(私の足で30分かかるくらい)離れていますね。最初は城下から隔離して収容したことがうかがえます。

福山に流された浦上キリシタンは、最初に男性が20人、後でその家族である婦女子76人の計96人。そのうち、最初の男性20人が入れられたのがここ座床で、1~2年後に婦女子が着くまでに、一人を除いて全員の19人が改心(棄教)していました。

その人たちも後では改心戻し(棄教の取り消し)をして帰郷するんですけど、浦川師は「おめおめと兜を脱ぎ、その信仰をはなち、天主を否み…(中略)とはなんと云ふ意気地なさであろう?」と容赦ない書きっぷりです。こういう不寛容さが「最後の殉教者」を生んだということを考えずにはいられません。


改心しなかった茂市


座床で改心しなかった一人というのは、茂市という人で、故郷にいる時も、流配先から帰ってからも、そんなにパッとしない信仰者だったそうですが、流配地では根性発揮したようです。茂市は後に牢を抜け出し、各地で囚われている信徒を歴訪するまでしました。なんかすごい。

女性で頑張っていた人はミトという、杉本ゆりの娘で、「ちぎり首に処するぞ」と脅され、爪印まで押させられました。それでも祈祷をやめず、その姿が周りに感化を与え、女子では改心者が少なかったようです。誰がどんな働きをするのか、分からないものだというか、何と言うか…。

この人たちは死ぬんだと思って来ているんだから、生きた殉教だったとは言えるでしょうね。



座床跡

座床跡

海辺の道


港から城下へと真っ直ぐ伸びる道は、たぶん昔からのもの。沿道には鮮魚を扱う店が今も見受けられます。

座床に収容された男性たちはこちらの港に着き、後から着いた婦女子たちは小舟で川を遡って城下に直接着いたのかも。するとこの道は、先に着いた者たちが、後で着く家族に会おうと歩いていった道になります。

棄教して、1~2年後に家族と再会する気持ちはどんなだったでしょうね。「おめおめと…」というのが、当時の教会聖職者の考え方でしたから。福山では結局、7人の信徒が命を落としました。

どこで誰が死んだのか、「旅の話」には書かれていないので、どこが殉教地なのか分からないですが、福山の、私が今日歩いたどこかであることは間違いないですね。




神社

カトリック福山教会


駅に向かいながら、商店街を抜けてカトリック福山教会へも寄りました。

今日は暑いので日陰で休みたいのもあり中へ。

受付の人に挨拶して、中でお祈りさせてもらいました。

丸いドームが愛らしい聖堂は、信徒ができるだけ多く祭壇の近くに座ることができるように席が配されています。ステンドグラス越しに優しく入る日の光。福山で亡くなった信徒たちに見せてあげたいなと思いました。いや、見てるか。



カトリック福山教会

信徒席

祭壇

ステンドグラス

早速食べる


2時間余りで福山でのミッションをコンプリートしたので、ちょっと早いですがお昼を。まだ11時より前なのでモーニングの時間帯みたいです。朝は朝でちゃんと食べたのにね(^-^;アハ

駅近くのキムラヤ・カフェのパンは一生ファンになれるくらいの美味しさ。熱中症気味だったのか、冷たい飲み物がいくらでも飲めそうな勢いです。気をつけなきゃな。



 尾道へ!


尾道の港


JRに乗り、尾道に到着。外国人観光客が一気に増えました。ここまでのところ、私にしては順調に旅程どおり進んでおります。

駅を出るとすぐ港。十数年前に来たことがあります。尾道は母と二人でした最後の旅行先ですね。

それで気が重かった訳ですが、駅前のラーメン屋を見て更にドーン。忘れてたけど、ここで一緒に食べました。蘇る記憶の数々。「後悔」の文字がなければ、こんなに落ち込むこともないんでしょうけど。あああ (=_=)



駅前

駅前

駅前

駅前

尾道本通り


自分の思いにばかり耽っていてはなるまいと、尾道のアーケード街へ。ここは通ったことがないので無問題です。

レトロと懐かしさを売りにした町ですね。たぶんいつの時代もレトロだったのではないかと。

今は昭和レトロですが、昭和の頃には大正レトロを漂わせ、大正の頃は明治レトロを彷彿とさせていたのでしょう。


林芙美子ゆかりの地

海への道

奉行所跡


では明治の頃には江戸レトロ…?と思っていたところで、「奉行所跡」の碑を発見。そう刻んだ石碑があるだけで、特に何の説明もないので、「えええ?」という感じですが。

尾道は26聖人も泊まり、浦上キリシタンも流配されて来た地。ということは、奉行所の役人が彼らを扱っていたと考えていいのかと。

しかし「奉行」とは言うものの、何奉行なんでしょう?江戸の町奉行とか、江戸以外の幕府直轄領地や重要とされる土地に設置されていた〇〇奉行というのは聞いたことがあるけれど、「尾道奉行」っていうのは聞いたことがないし、各藩で奉行所を設けていた…んでしょうかね?(あまりに知識がなくて、疑問持つことも疑問文になってしまう;;)

「奉行所」って言うくらいだから、何かを見張ったり取り締まったりしてたんだろうなと、ざっくりした理解でとりあえず。ご存知の方がいたら教えてくださいませ☆彡



奉行所跡

奉行所跡

尾道商業会議所記念館


奉行所跡の隣には尾道商業会議所記念館。現存する最古の尾道商業会議所で、一階は観光案内所兼休憩所、階上は議場が残されています。

解説板に「大正ロマン漂うこの建物は…」と書いてあるのは、「自分で言っちゃってる?」感がありますが、まあ許容範囲ですかね。

館前に設置された大黒天を眺めながら、大正ロマンを謳うなら大黒天はどうなんだろうと思いましたが、作者を見てちょいビックリ。広島の世界平和記念聖堂の欄間を飾る彫刻を制作した円鍔勝三(えんつば・かつぞう)の作品だそうで。

円鍔勝三は大分の遊歩公園にある「育児院と牛乳の記念碑」も創っているんですよね。仁王像や伊勢神宮の神馬も制作しているのでクリスチャンではなかったと思いますけど、今までいろんな所で見かけた名前だったので目を引かれました。中の議場もよい感じです。



解説板

議場

議場

大和湯


アーケード街を行くと、銭湯を改装した土産物屋が。

カフェに変身した古い店舗もありますね。

こういう所をおしゃれに女子旅したら、SNS映えするんだろうなと思いながら、さくっと通過。

私のリア充は巡礼にあるのだよ! 宣言することでもないですが...(^_^;)



小川町本陣跡


さてと、目的地に着きました。小川町本陣跡です☆

ここに秀吉も泊まったことがあると、解説板に書かれていますが、26聖人のことは書かれていないですね。

26聖人の場合は、本陣に泊まれたかどうか不明で、この辺りだったろうとしか言えませんが。しかし26聖人の処刑を命じた秀吉が泊まった所に、26聖人も泊まったというのは不思議な一致です。

26聖人は京都から長崎への道を、最後に宣べ伝える機会と思って、牢屋の番人にまで話しかけ、子供たちは歌っていましたからね。ここにそんなひと時が流れたことがあったということです。

解説板を設置しているのは近所の小学校のよう。秀吉の方が認知度が高いのは致し方ないことですが、天下統一のために戦に明け暮れた人と、神の平和を宣べ伝えた人と、どちらも知っていることが良い勉強になるのかと。うん、巡礼モードになってきたぞ (^^)/



小川町本陣跡

解説板

小川小路

小川小路


 寺めぐり…(^^;)


道しるべ


では山方向に線路を渡り、ここからは浦上キリシタンの収容所跡めぐりをば。全部お寺ですけどね。

さっきまでは福山藩に送られた浦上キリシタンのことを見てきましたが、今度は広島藩に預けられた信徒たちの足取りを追おうと思います。

尾道の寺町は坂のあちこちにあって、すごいことになっていますね。寺の数も多くて、迷いそうです。


慈観寺

慈観寺解説板

慈観寺本堂

福善寺


私が調べた範囲で分かっている、信徒の預け先は4ヵ寺。その一つがここ福善寺です。

長い石段ではなく、石坂が伸び、その先に石段。キリシタンのためじゃなければ、たぶん登らないでしょう。。

よっこらせどっこらせ(これって方言?)。


福善寺


登った先にある本堂は、狭い坂の上にあるとは思えないほど壮麗なもので、山門や境内もよく整っています。

透かし彫りや松の見事なこと。眺望まで良くて悔しいくらいです。

立派な解説板には一言も書かれていないけれど、ここで浦上キリシタンが牢屋生活していたはずですね。休みがてら祈っていこっと。


山門

透かし彫り


解説板

ぬこ!


次なる寺に向かって歩いていると、階段に猫。

猫というより、ぬこ!って感じです(なんとなく)。

すんごく眠りを満喫していますね。これくらい潔く寝られると、起こす方に非があるように思えてきて、ついそーっと通ってしまいます。何か…羨ましくなってしまった (''_'')


ぬこ

石段に次ぐ石段

やっぱり石段

大山寺


登ったり下りたりしながら、大山寺へ。「旅の話」に「下手の寺院」と書かれているのは、この寺のことではないかと思われます。

名前の通り大きなお寺で、解説板によると空海の頃からの古刹でもあり。眼下の眺めもさっきよりいいです。

この境内のどこに囚われていたんだろう?


境内

境内

解説板

鐘楼

鐘楼から


急に気温が高い地域に来たので、慣れない暑さと体温上昇で、偏頭痛がドクンドクンと始まりました。うう、鎮まれ。

広島藩に流されて来た信徒の数は179人。最初全員が尾道に着き、そこで30数名が死亡。そこから広島藩の各地に散らされて、最後まで不改心で帰った人の数は40人だった――。

それが広島藩預けの浦上キリシタンの基本情報なんですが、どの寺で誰が死んだのか、「旅の話」にも書かれていなくて分かりません。福山と同様、最初に戸主である男性たちが送られてきて、その後その家族である婦女子が到着するのですが、最初のグループが入れられたのが「下手の寺院」。


「下手の寺院」の浦上キリシタン


40日もの間、外出はおろか、火の気も与えられず、ただ入れられていた収容所で、ここまでは津和野に送られる信徒たちと一緒だったとか。比較的壮健な者たちが多かったと思うので、ここは殉教地ではないかも知れませんが、同罪ではあるでしょうね。

「旅の話」は、流配地から帰還した信徒たちに、浦川和三郎神父が直接聞き取り調査をして書いたものですが、信徒たち自身がよく把握していなかったこともあるので、その点はどうしょうもありません。

生きて帰れるとも思ってなかった信徒たちにとって、記録は信仰よりも重要度が低かったことと思われますので。どこの寺に自分の家族が入れられているかも分からないのに、全体像など知る由もなかったでしょう。そういう人たちを思ったら、偏頭痛くらいはねぇ。。


土居咲吾墓所


自作の地図を片手に次の寺へと歩いていたら、土居咲吾(しょうご)墓所を発見。幕末にしては珍しいキラキラネームのこの人は、勝海舟と咸臨丸に乗ってアメリカに渡り、西洋医学を学んで帰った人なんだとか。

世の中には私の知らない偉人がたくさんいるんだなーと、小学生並みの感想を持ちました。きっとこの墓だけを目当てに尾道を訪れる人もいるんでしょうね。


解説板

土居咲吾墓所

隣の神社

浄泉寺


ちょっと苦戦して浄泉寺へ到着。寺が多くて、あそこかなーと思って近づいて行くと違ったりして、引掛け問題が多いんです(引掛けているつもりはないんだろうけど)。

「下手の寺院」にいた戸主たちが、「狭いけど、他の寺に行けば妻子と一緒になれる」と聞いて移った寺の一つ。

一畳当たり5人ほどだったと伝えられていますね。そこへ減食と不衛生が加わり、下痢で亡くなる信徒が続出。

30数名が死んだのは、この寺だったか他の寺だったか、はっきりとは分かりませんが、この寺を含む4ヵ寺で皆死んだんです。しかもこの時は皆不改心ですから、信仰のゆえに命を落とした殉教者と言っても過言ではありません。

どこの寺か確定できないからと、「不明」としてしまうと、殉教者がいたことすら曖昧になってしまいます。4ヵ寺を殉教地として挙げて、歴史として記録してはどうかと思うんですけど。

殉教だなんて、観光業に響きますか? 歴史の前にはそういう忖度をやめて、正しく受け入れる必要があると思います。



解説板

鐘楼

山門

境内

線路脇の道を


坂道を下って、線路脇の道を駅方向に引き返します。可憐なヒメサユリだけが、私の心を分かってくれている気が。

アニメ映画の影響で、線路でヒロインになりきって写真撮っている人たちもチラホラ。いわゆる聖地巡礼ですね。

私もしてるよ、聖地巡礼。意外にもトレンドを踏まえた旅をしているんだと気付いた瞬間でした ( ̄▽ ̄)


ヒメサユリ

線路沿いの小道


 千光寺山ロープウェイ♪


千光寺山ロープウェイ


夜に西条で待ち合わせをしていることを思うと、どう考えても時間が余るので、千光寺山ロープウェイに乗ってみることに。

案の定、こんな観光観光した乗り物に一人で乗っているのは私だけしかいません。

千光寺山は徒歩でも登れ、帰りだけ歩きということもできますが、体力温存のために迷わず往復券を購入。眺めはなかなか良いですよ◎


「恋人の聖地」だとぉ!?

偉人の足型

頂上展望台


頂上展望台からは尾道の港が一望できます。

キレイだなーと思うと同時に、母を連れて来てあげれば良かったという考えが浮かんできて、絶壁から突き落とされた気分に。

自責の念がハンパないです。こんな思いを抱かなくて済むよう、日頃から人に良く接していくことだと思いました。未練なく愛して、その通りに行っていけたら、恐らくたぶん絶対に、いいんだろうな。



尾道港

尾道港

寺と尾道港

八畳岩


登ってすぐさま降りるのも何なので、山頂を散歩していたら、八畳岩とかいう奇岩エリアが祈りの園って感じ!(この辺の感受性は個人差があると思われますが...)

調子に乗って賛美歌を歌っていたら、下から登ってきたカップルが驚いて避けて行きました。だよねー、山頂で足ぷらぷらさせながら一人で歌っているおばちゃんがいたら、ぎょっとするよね!(反省しましょう)

蚊の猛攻にあうこと以外は理想的な祈りの場で、鳥の音がピチュチュ、チュチュ。周りを蝶が飛んでくれています。こういう自然や、目に映る地形は、キリシタンの頃とそんなに変わっていないだろうから、これらに癒されたこともあったのではないかと。「旅の話」には、そんな些細なことまでは記されていないけれど。



奇岩



ベンチも

歴史街道のジャンクション


ロープウェイで下る前に、もう一度眼下を眺めて、心の中で主に話しかけながら、考えをめぐらせてみました。

26聖人は西国街道を歩いてここに来て、浦上キリシタンは長崎から航路でここに来て、他所へ行く人はここからまた山陰への道を歩んで行ったことを思うと…、ここは歴史街道ジャンクションだったのだと気付かされます。

それぞれの思いと祈りを背負って行った歴史街道のジャンクションに、今自分もいるんだなと。私が考え、伝えることなどは小さなことに過ぎないけれど、もしかしたら後でこのジャンクションを通って行く人にとっては、私もその1ページになれるのかなと想像してみたり。

小さな自分を吹っ飛ばして、歴史街道を歩んで行かなければという思いを新たにしました☆




 千光寺山を下りて


線路のすぐ下を…


千光寺山で思いを新たにし、まとめみたいなことを言ってしまいましたが、まだ尾道散歩は終わってませんでした (;^ω^)

浦上キリシタンの流配所、あと一か所残ってますから。線路の下をくぐったり、石段上ったり、結構スリリングな立地に寺があることもあるんですね。

ちょっと迷って人に道訊きました。親切な尾道マダムに感謝。


天寧寺


そうやって辿りついた天寧寺は、思った通りの名刹。由緒書きを読んでも、一回では把握できないほどの内容量。浦上キリシタンのことは一行も書かれていませんが。

庭には一部の人が「キリシタン灯籠」と呼ぶ織部灯籠。これがキリシタンが崇拝していたものだとするなら、キリシタンを迫害していた寺にある訳ないですよね。

そう言っても、「そこがロマンだ」と言う人もいるので、病の根深さを感じます。一度そうだと認識したことを覆すのは難しいという教訓です。



由緒書き

本堂

手水屋

織部灯籠

襖絵


天寧寺は名刹だけあって、所蔵しているものも一級品。五百羅漢(実際は500体以上ある)が有名ですが、私が度肝を抜かれたのは襖に描かれた餓鬼(?)。

本堂の左右に伸び伸びと描かれていて、逆に仏様の空間が狭くなっているほど。実物から受ける衝撃も相当なもので、子供なら軽いトラウマになるかも。

五百羅漢のお堂も、一晩閉じ込められたら泣きますけどね。浦上キリシタンはこれらを目にしたのかな? 仏僧が行ったという説諭において、もしかすると信徒にも見せられたかもしれませんね。その際は、こんな恐ろしい地獄に行かないためにも信仰を棄ててはならないという、寺の思惑とは逆の効果を生んでいた可能性もあるかと…。


天寧寺と浦上キリシタン


さて「旅の話」に「波止から二丁ばかり上った一宇の寺院」という記述が出てくるのですが、それは天寧寺だったのではないでしょうか。下調べしながら地図に印を付けていて、そっかなーと思っていたのですが、実際に流配された寺をめぐってみて、どう考えても天寧寺だと思うようになりました。

すると信徒が詰め込まれたその「大広間」とは、恐らくこの本堂。50畳足らずの空間は、「1畳に5、6人」という記述とも一致します。だからこの襖絵をどこかに隠したりしてない限り、信徒たちの眼に触れていたはずですね。

怖い襖絵も五百羅漢像も「旅の話」には出てこないけれど、丹念に追えば分かることもあるんだという確信が得られました。一生懸命歩いたご褒美かな (⌒∇⌒)



仏像

襖絵

五百羅漢像

山門

安政元年創業


尾道駅の北側に出ると、観光客のひしめく南側とは違った趣で、少し歩くと安政元年創業の酒店まで。

安政元年は、西暦で1854年だから、浦上キリシタンが流配されて来たときには既にあったことになりますね。

3代くらい遡れば、先祖が見ていそうです。つまりこの町は目撃していたんですね、信徒たちの姿を。


尾道駅

酒店

蔵のある町

カトリック尾道教会


古い町並みを歩いたのは、こちらのカトリック尾道教会を目指してのこと。でも肝心の教会は開いていないようで残念。

観光客もここまで訪れることはまずないだろうから、大抵は閉めているのかも。白くてキレイで、新しいですね。

この町にクリスチャンがいるのはうれしいことですが、浦上キリシタンが流配されてきて、殉教までしていることにどの程度関心を払っているんでしょう。

寺との軋轢を避ける必要はありそうですが、ある程度の顕彰活動はした方がいいように思いますね。十分活動してらっしゃるのを、私が知らないだけかもしれませんけど☆



カトリック尾道教会

マリア像

ミスドで休憩


尾道での巡礼もスムーズに進み、時刻はまだ15時半。時間はあっても体力が枯渇しているので、めっちゃんこ暇です。もう一日終わってくれてもいいんですけど ((+_+))

とりあえず涼を求めてミスドに入店。朝から3度目の食事なので、回数的には晩御飯ですが、お日様はまだ天の中空に。この後どうしよう。ちゅるちゅる。



 西条へ (^▽^)/


山陽線


去年初めて会ったKちゃんの家に、今日と明日泊めてもらう予定(一瞬迷いましたが、いいと言ってくれたので♪)なんですが、待ち合わせの時間は19時。連絡がついて、時間早めてもらえないかなと、一縷の望みを抱いて山陽線に乗車。

のんびりしていて良いですわ。いや、急いでない時だからそう思うのかもしれないけど。広島県って結構長くて、ほどほどの街もあるんですけど、それ以外がすごい農村だったりしますね。


車窓より

農村

農村

四日市宿


夏は日が長い!
17時を過ぎても夕方の気配もしないとくりゃ、史跡めぐりするしかありませんわな。Kちゃんも既読にならないし (;´Д`)

いやいや、これが御心だったと感動するような発見があるかもしれないと、自らを鼓舞して町へ。

西条に去年来たときは、ただ広島大学に行き人に会うというイメージだけ持っていたので、駅周辺の史跡には目もくれず、というか重要さに目を開くことができずに帰って来てしまいました(詳しくはwatashiを見つけてくれてⅣに)。

そうそう、この町をもう一度訪れるようにしてもらえたことが、私へのプレゼントなんだよと気付かねばなりませんでした。明日以降歩けばいいかと思ってましたが、今日ちょっとだけでも歩いておきましょう。ゴロゴロ…(コインロッカーが見つからず、旅行カバン引きずってます)



駅前のレリーフ

酒蔵通り

酒都・西條

酒蔵通りだけあって…


西条は酒造りの町だそうで、「酒都(しゅと)」とか書かれています。同じ音なら「主」の「主都」になればいいのに。

駅前から延びる道は蔵元が並ぶ酒蔵通り。見ると町の一角に福神井戸という水場があって、そこに水を汲みに来ている人が。なるほど、水がいいからそれを酒造りに利用したんですね。

それなら「名水の町」でもいいかと思うんですけどね。インパクト弱いんでしょうか。酒が好きな人もいるとは思いますが、最近は若者のアルコール離れも進んでいるから、「酒都」の訴求力は弱まっているかと。酔っ払いのイメージに染まちゃうのも、どんなもんでしょうね。



水汲み場

名水

福神井戸

加茂鶴酒造

御茶屋跡


そんなこんなで、ついに来ました御茶屋跡!

ここが西条四日市の本陣跡です。

現在は門と松が残り、解説板が往時の繁栄を語るのみですが。

1597年の1月、26聖人はこの辺りに宿泊しただろうと考えられています。だからすぐ傍にある福神井戸の水もきっと飲んだことでしょう。「26聖人も飲んだ名水」って、いいのになぁ。キャッチコピー考えている場合じゃないか。



御茶屋跡

解説板

御茶屋跡

加茂鶴酒造本店


御茶屋跡の隣は加茂鶴酒造本店。尾道にも劣らぬレトロぶりで、中をカフェに改装したら流行りそう。

加茂鶴酒造がこの辺りを仕切ってる感じですね。勢力図っていうんでしょうか、自動車業界で言ったらトヨタみたいな (';')?


周辺地図

御茶屋跡の横

加茂鶴

見学コースもある

キレイ!?


前方に視線を移すと、「キレイ」と書いた煙突が。私のことを言っているのかと思いましたが(おばちゃんになるとこういうこと言うようになるんだな)、「亀齢(キレイ)」という酒の名前だそう。

造っているのは亀齢酒造という蔵元で、自動車で言ったらホンダみたいな感じでしょうか?(違ってたらごめん)


福寿院 円通寺


円通寺を探して、賀茂鶴酒造の北東側にある小道に入って行くと、「福寿院 円通寺」の看板が。

む? 二つの寺が合併しちゃったのかしらん?

角を曲がると、寺へと続く細長い石坂が。傾斜は緩いのですが、坂の両サイドがない(段差が1メートルくらい)ので、若干デンジャラス。

暗いとき歩いたら、落っこちちゃう人もいそう。慣れている人は大丈夫だろうけど。この小道を、浦上キリシタンも通ったのかな? 円通寺は西条での流配所です。



石坂

六地蔵

円通寺

円通寺だけど福寿院

石庭


円通寺には、京都の龍安寺を模した立派な石庭が。

石庭は、枯山水(水を用いずに、石、砂、植栽などで水流を表現する)の一種で、枯山水から更にストイックに、草木を取り除いて、石だけ(苔はOK)で自然を表現したもの。砂庭式枯山水ともいいます。図式化するなら、日本庭園>枯山水>石庭 という感じ☆彡

解説板には、見る角度によって石の数が変わるのが不思議!みたいに書いてあるけど、それって当然かも…。縁側が設けられ、座視鑑賞法が取れるようになっているのは気が利いていますが、浦上キリシタンがこれを愛でていたとは考えにくいですねぇ。そもそもこの限られた境内のどこに信徒たちの収容所はあったんでしょう?

往時と今と、何かが違っているはずなのに、その違いをどこに探していいのか分からなくて、もどかしさが募ります ((+_+))



円通寺

石庭

境内

境内

町並み


円通寺を後にして、少し大きな通りに。沿道の雰囲気からして、ここが昔の街道筋、私が辿ってきた西国街道みたいです。

こちらの町並みも酒蔵通り同様、酒蔵があるんですけど、お茶屋さんなど、他の業態もあってバリエーションを楽しめます♪

四日市宿が域内の宿場で最も栄えていたと書いてあるのを見て、疑わしく思っていたのですが、この道を通ると少し納得できますね。


西国街道

沿道

町並み

蔵元

西条駅


駅に戻って、もう一か所、真光寺にだけは行ってみることに。今歩いてきた道の延長線上にあるので、西国街道沿いに建っていると思われますので。

歩いて行く道が、正に26聖人と浦上キリシタンが歩んだ道筋ですね。


真光寺


車道の割には細く、所々カーブしている道筋を、「やっぱ街道だわ」と実感しながらテクテク。旅行カバンはゴロゴロ。

15分ほどで真光寺に到着しました。親鸞聖人がバーン。誰かの顕彰碑と家紋がキラリ。広大な寺ではないけど、ディテールが凝っています。

お金がかかってそうだなと、ドライかつダイレクトな感想を持ちました。それは良いとして、浦上キリシタンの収容所跡たる痕跡は、まぁ期待はしてなかったですけど、やはりないですね。お寺の方も檀家さんも知らないんじゃなかと思うくらいです。実際どうなんだろう⁇



真光寺

本堂

境内

境内

夕飯は海鮮丼


無事Kちゃんに連絡がつき、夕飯は去年会った広大の院生の女の子と3人で (*'▽')

暑さと疲労のせいで、偏頭痛、肩こり、思考力低下の三冠王(冠とか付くといいことみたい☆)に輝いていましたが、美味しい食事と会話に癒されました。

疲れを取る方法は、寝ることだけじゃないですね。人と楽しく対話することも、心をほぐして楽にしてくれます。今日はよく眠れそう♪(人ん家だけどなっ)






       聖書は読むものではなく…


「聖書は読むものではなく生きるもの」だと、私が好きな八木重吉がゆうとりました。「聖書の言葉を内側から握りたいものだ。言葉の内側に入り込みたい」とも。

八木重吉は詩人なので、詩という形で表現しているのですけど、とても心に響く言葉です。そうだそうだと共感が湧き上がるような。

私はキリスト教史にハマってここにいるのだけど、歴史もまたそうなのかもしれません。キリスト教史は「学ぶものではなく、生きるもの」――。

歴史上の人物や事柄の中に入り、内側から感じられたらと思います。そして外側から見学するのでなく、直接的なつながりを持って一緒に何かを共有できたら…。

歴史を作ってゆく者になれるのかもしれません。とっても大きな夢ですけれども (*´▽`*)ネー






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