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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 バテレンが愛した海 vol.5 



今日は最終日。一人で佐世保から佐賀へ行き、佐賀空港から帰ります。ほとんど帰り支度のような一日になると思いますが、最後まで無事に過ごして、いい悟りを得られますように (*´ω`*)



窓の外は教会


昨日の晴天が嘘みたいに今日は朝から雨。昨日の雨が今日に移動してくれたんですね。

部屋のカーテンを開けると教会堂が☆
ワンフロアに一室しか教会ビューの部屋はないはずなのに、ほんと神様は私が好きなものを全部ご存知だなと♪


朝食


朝食は3階のレストラン「チャペル」で。いかにもな日本朝食が逆に新しく映ります。窓の外にはやっぱり教会堂。

これは朝イチで行かなきゃいけないですね。行くつもりでしたけど。駅のすぐ近くにこんなに素敵な教会がある街も珍しいと思うんですけどね。



カトリック三浦町教会


宿をチェックアウトして、では早速カトリック三浦町教会へ。

聖堂の中まで入れましたけど、内部は写真撮影不可でした。

佐世保は佐世保鎮守府の時代から、海軍基地としてて栄えた街なので、造船所で働く信徒が多く、米海軍の軍人、家族の姿も見られるのだとか。土地柄ですし、その街の歩んだ歴史柄(?)ですね。私がこの街に来たのも、軍人でクリスチャンだった人のことを思ってのことですし☆


「軍服を着た修道士」山本信次郎


それは山本信次郎という海軍少将。その信仰心ゆえに、かの岩下壮一神父が「軍服を着た修道士」と呼ぶほどだったとか。岩下神父もすごいんですけどね。この2人くらいのクリスチャン、現代にはあまりいないような・・・?私が知らないところにいるのかもしれませんけど (^_^;)

山本信次郎は軍人だったので佐世保にいました。今では長崎市に次ぐ県下ナンバーツーの都市、佐世保市も江戸期までは平戸藩に属する戸数800余りの鄙びた村に過ぎませんでした。この寒村に突然軍艦が現れて村民を驚かせたのは明治16年のこと。

突貫工事で建設が進められ、明治22年に佐世保鎮守府が開庁しました。日清、日露の戦争では連合艦隊の集結地となり、鎮守府司令官には、後に連合艦隊司令長官となった東郷平八郎や首相となった米内光政ら、帝国海軍の重鎮が歴任。日本が帝国主義で舞い上がっている頃の本拠地みたいな所でした。

戦争終結後もアメリカ海兵隊が進駐し、進駐軍6万人のうち約半分の3万人がカトリック教徒だったため、こちらの教会はとても盛り上がっていたといいます。佐世保ならではの歴史ですけど、その頃の日本の一つの縮図のような気も。山本信次郎についてはまた後ほど。



三浦町教会

カトリック三浦町教会

カトリック三浦町教会

庭のルルド

バスを降り間違え・・・


佐世保鎮守府などが置かれていたのは、JR佐世保駅からずっと北西に行った所なので、バスで向かいます。本数も多いから楽勝かと思いきや、降り間違えて大失敗。

あちらに見えるのはセブンスデーアドベンチストの教会。大きいですね。バスに乗り継げず結局30分弱歩くことに。雨も降ってるし朝から大変だ。。


SDAの教会

周辺地図

下士官集会所跡

佐世保鎮守府凱旋記念館


雨足がどんどん強まってきて、ヘルプミーな感じになったところで佐世保鎮守府凱旋記念館へ到着。

現在は佐世保市民文化ホールとなっています。知りませんでしたが、「日本遺産」になったみたいですね。

こういう日本が軍拡と海外進出でイケイケになっていた時代のものが選ばれるのって、どうなんでしょ?昔よりもむしろ今を象徴しているようにも感じられます。


旧海軍凱旋記念館

旧海軍凱旋記念館

解説板

日本遺産

海上自衛隊佐世保史料館


少しだけ歩いて海上自衛隊佐世保史料館へ。佐世保水交社(海軍士官の社交クラブ)跡地にその建物の一部を修復利用して建てられたもので、通称セイルタワー。

さっきの凱旋記念館も水交社も山本信次郎来てたでしょうね。東郷平八郎も。あまり知られていませんが、東郷さんも洗礼を受けたクリスチャンです。

雨もザーザー降ってきてちょうど雨宿りしたいところだったで、中に入って行き受付で史料館を見学したい旨を告げると、「ご苦労様です」とお辞儀されました。え?なんか場違いなトコ来ちゃったかなと思いつつ、見学者用のバッチを受け取りました。

「写真って撮ってもいいんですか?」と訊くと、「展示室はダメなんですが、こちらに記念撮影用のスポットがあります」と↓に案内され、受付のおじさんが記念撮影スポットに立つ私を撮ってくれました。ちょっと海軍マニアとして扱われている気もするけど・・・。来館者は海上自衛隊に勤める人の家族が多いようでした。


東郷提督とバルチック艦隊司令長官


ここまで来て見たかったのは、東郷提督とバルチック艦隊司令長官が握手している絵。東郷はロシアのバルチック艦隊を破ったことで有名ですが、その司令長官ロジェストウェンスキーが捕虜となって佐世保の海軍病院に入院中、東郷は見舞いに行っているのです。

東郷は「生命をとりとめられて何よりです。勝敗は兵家の常であって、必ずしも恥ずべきことではありません。要はたた祖国のために立派に戦って、その本分を尽したかどうかということです」と話し、ロジェストウェンスキーはこの言葉に感動したというエピソードで、その様子を描いた絵が史料館に展示されているということで。

史料館は7階まであり、一旦最上階まで上って下りてくる形で見学するのですが、その絵は6階にありました。イギリスの新聞記者が書いたのと、日本人が書いたのと2枚ありますね。重要なのはここに描かれている人で、東郷ロジェストウェンスキーの他に医者と武官が描き込まれています。

医者は戸塚文卿神父の父である戸塚環海、武官は通訳として同行した山本信次郎です。この見舞いのエピソードは日露戦争の美談として残っているものですが、クリスチャン精神も大きく影響しているのだと思い、それで見たかったので満足です☆彡



佐世保史料館

記念撮影スポット

展望階より

マップ

教法寺


佐世保史料館の玄関ホールに飾られた柿右衛門の陶板画が4000万円もするということ聞いて驚きながら、雨足の弱まらない外へ。

隣にあるお寺が気になったので訪れてみました。海軍戦没者の慰霊碑が建てられています。

皆ここに参詣していただろうなと。今も人口は多いですけど、昔はもっと勢いがあって街に人があふれていたんでしょうね。



教法寺

教法寺

海軍戦没者慰霊碑

教法寺

米軍住宅


折り畳み傘なんて役に立たないほどの雨の中、高架下を通って米軍住宅を遠望。近づくと余計に見えにくくなるので。

東郷がお見舞いに行った海軍病院は、当時ここにありました。今は道の反対側にありますけれど。

現在ある自衛隊佐世保病院まで行ってみましたが、どこかアーミーぽくて入りにくい感じが。独特の雰囲気がありますよね。

佐世保はやはり旧海軍、米軍、海上自衛隊の街だなと、実際に来てみてより一層感じるようになりました。そういえば太平洋戦争開戦の電報「新高山登レ1208」(ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ)が発信されたのも佐世保針尾山の電信塔から。

佐世保鎮守府凱旋記念館が「日本遺産」になったことを反対するわけではないけれど、そういう軍に関係するものを日本の遺産として認定することが、その時代を称賛することにつながらないか気がかりです。あの時代に逆行していってはいけないと思うんだけど・・・。神様はどう思われているんだろう。



道の反対側

自衛隊佐世保病院

自衛隊佐世保病院


 佐賀市へ☆彡


シーサイドライナーで佐賀駅へ


猛烈な雨になってきたのでそろそろ佐世保を撤退することとして、JR駅行きのバスに乗車。

停留所でない所に停車中だったバスのドアを叩いて乗せてもらいました(おばちゃんになると何でもできる)。

佐賀へはシーサイドライナーなるオサレな電車で。私が鉄道オタクなら感極まるのかもしれませんが、ずぶ濡れのお腹を空かせたおばちゃんには感動なし。寒いなーと思いながら非常食をモソモソ。風邪ひきそう (>_<)



カトリック佐賀教会


佐賀駅でコインロッカーに旅行カバンを入れ(ここまで大荷物だったから疲れたんだね)、身軽になって市内へ。

佐賀城方面のバスにのり、教会に近い停留所で降りました。そしてカトリック佐賀教会へ。

手前に建設された信徒会館のせいで、教会の全体が正面から見えないのがちょっと残念賞ですが、仕方ないのかな。

聖堂内は重ねられてきた年月が染みた、趣ある空間。内省的な感じです。ステンドグラスも柔らかな曲線で癒されますが、香部屋の佇まいも懐かしい感じで良いです♪



信徒会館

聖堂内

ステンドグラス

香部屋

「真正キリシタン灯篭」・・・


聖堂手前の通路脇に「真正キリシタン灯篭」と書かれた石造物が置かれているのですが、これが何とも前時代的で見ているのがツライですね。

古田織部型の灯籠が「キリシタン灯籠」だと言われ、日本各地でキリシタン遺物だとして「発見」されたのは昭和前半期までのこと。今ではこれをキリシタン遺物だとする学者はいません。

佐賀にはキリシタンがいたので、「キリシタン灯籠」で偲ぶのではなく、ちゃんとした歴史認識で偲んではどうかと思うんですけどね。いろんな考え方があるとは思いますが (*'ω'*)



「真正キリシタン灯篭」

「真正キリシタン灯篭」

カトリック佐賀教会

長崎街道


それではそのキリシタン時代の教会跡へと行ってみましょうか!私的には今日一番のごちそうです。

江戸期の主要ロード、長崎街道を東へ。この道をキリシタンも宣教師も通ったはずですね。

なんてたって長崎から続いてますから。長崎から佐賀へと宣教の道を探り、こちらが良かろうと拠点を設けたのは合理な判断だったと思います。藩主が居住するお城も近いですし、街道沿いの人々は新しいものに考えが開けていたでしょうから。



長崎街道景観地区

周辺マップ

長崎街道

旧古賀銀行

長崎街道を


佐賀観光の目玉にしようとしているようで、長崎街道は歩きしやすいように整備され、レトロな建物が保全、公開されています。

カフェなどもあって、半日くらいは散策を楽しめそう。

しかし全てをキリシタン目線で見ている私にとっては、明治レトロも大正ロマンも眼中になく、やっぱりキリシタン!(うん、まんまだね)


佐賀のキリシタン


では佐賀におけるキリシタン時代の布教についておさらいを。佐賀県では嬉野の不動山にイエズス会の教会がありましたが、佐賀市内に教会を建てたのはドミニコ会です。

ドミニコ会では1602年から日本に来て薩摩で活動していたのですが、薩摩の藩主に追放されたので、サルバネス神父が京都へ、オルファネル神父が佐賀へ開拓の足を伸ばすようになりました。16078月下旬、アロンソ・デ・メーナ神父は深堀の領主 鍋島七左衛門と佐嘉の大名 鍋島勝茂の好意と援助により、領内での布教と教会建築の許可を得ました。

そして泊町にヌエストゥラ・セニョラ修道院と教会、翌年鹿島にサン・ビンセンテ教会と佐嘉(佐賀)にサン・パブロ教会を建設しました。これらの教会は1614年に将軍の厳命により、キリスト教禁令が全国に徹底されるまで続きました。教会がなくなってからも、宣教師たちが変装して浜町、鹿島、佐賀を巡回して信徒の世話をしていたことが記録に残っています。



八坂神社

古民家

古民家

石造物

専福寺


柳橋

堀川

キリシタン時代の教会跡?


山川出版社の「佐賀県の歴史散歩」には「牛島町を西へ思案橋を渡ると材木1丁目で、その角を北に曲がると柳町である。慶長年間(1596-1615)この町角の北側に南蛮寺(教会)があった」と書かれています。

こんな一般の歴史ガイドにキリシタン時代の教会跡が書いてあることにびっくりですが、専門家が教えてくれているので有り難いことですね。

それによると、どうやらこちらの古民家「南里邸」か、そこから思案橋にかけての辺りに教会があったと思われます。解説板とかは出てないけど、この辺りだったことは確かで、今自分がそこに立っていると思うと・・・静かにガッツポーズって感じです ( ̄Д ̄)オゥ

ドミニコ会の教会は現世の物事に執着しないことを示すために、特に質素に造られていたということで、そういう質素と貧しさが日本人の心を捉えていると、宣教師の書簡には書かれています。「私たちは大勢のキリシタンを作った」とルエダ神父が書いているので、それで良かったんでしょうね。



思案橋

思案橋

橋から北へ

教会があった辺り

側溝の蓋


今ではキリシタン時代に教会があったことなど、誰も覚えていなさそうですが、この通りに賛美歌が流れていたときがあったことは、明治大正のロマンより、もしかしたらロマンティックかなと思うのですが。

道のどこかでも宣べ伝えたりしていたでしょうね。朝晩の祈りはもちろんのこと。宣教師の報告書を読むと、佐賀の布教は1609年から1612年に最も順風に帆を上げていたようですね。

1613年の夏、江戸に将軍を訪問した鍋島勝茂が領内のキリシタンを追い出すように言われ、父 直茂にそれを伝える書状を送るまでは。ロマンティックなだけでなく、その後のことも説明しなきゃいけないから、やっぱりキリシタン時代で観光振興は難しいのかな? それでもやりようはあると思いますけど☆



マンホール

石造物



 あとはちょっと流していく感じで・・・


米穀取引所跡


では後は流していく感じで。一応佐賀城へと向かいます。歩くのに疲れたら帰っちゃおうくらいのモチベーションでトコトコ。

昔の殷賑ぶりはうかがえませんが、碁盤目状の小路ごとに設けられた解説板から、ちょっとは雰囲気が漂ってきます。

このファミレスがある所が昔米穀取引所で、げす小路には日本赤十字社を設立した佐藤常民が養子に入った家があったんですね ( ..)φメモメモ



米穀取引所跡

花房小路

げす小路

武家屋敷の門


沿道に武家屋敷の門も保存されていました。屋敷は失われ、今は門だけですけど。

大隈重信の生家があるのが会所小路。生家跡にある大隈記念館記念館にも一応行ってみましょうか。ここまで来ることは滅多にないでしょうから。

道を折れて会所小路を進んで行くと、「大隈詣」の幟旗が。えっ、大隈さん家って詣でるものなの??


武家屋敷の門

会所小路

会所小路

大隈詣?

大隈記念館


不穏な空気を感じつつ、大隈記念館に到着。老舗の日本旅館よろしく掃き清められた門前。

入口に提灯まで吊るされて、どう見ても温泉旅館です。その辺りをツッコミたい気持ちを抑えて中へ。

受付の人によると現在生家は修復中で見られないけれど、それでもいいかとのこと。別にいいですよ。ついでに寄っただけですから。


生家と銅像


生家に掛けられたブルーシートで熊本地震を思い出し、 厳粛な気持ちに。旅行なんて贅沢なことをしていられるのも、平穏な日常があってのこと。

時間的に環境的に許されたお陰で、ここまで来られているんだから、テキトーな気持ちで見て回ってるだけではいけませんね。

生家と銅像から視線を転じ、記念館の方を見てみると・・・


大隈重信候記念館


なんかステキな建物!

懐かしさを掻き立てられるというか。

有機的な曲線で構成された姿は、建物よりもむしろ生物に似た印象。

地中から生えてきたキノコをくり抜いて建物にしちゃったみたいな感じです♪

思わず駆け寄って解説板を見ると、今井兼次の作品でした。なるほど!!



解説板

大隈重信候記念館

大隈重信候記念館

曲線

玄関ホール


今井兼次はカトリック信徒で建築家。スペインの建築家ガウディの研究の中で、ガウディの神に対する信仰に触れ、自身も信仰の世界に入った人です。

長崎の聖フィリポ・デ・ヘスス教会(日本二十六聖人記念聖堂)や日本二十六聖人記念館の建築も手掛けました。玄関ホールの床の意匠を見ると、そのことがよくうかがえて感激です。

早稲田カラー臙脂色の階段の先に総長のガウンが掛けられていて、それが栄光を捧げる対象みたいになっているのがちょっと疑問ですけど。教会じゃないからしょうがないのかな。


くまワールド


記念館一階では大隈重信の生い立ちから出世の道、早稲田大学建立までのストーリーをパネルと遺品などで紹介。

ちょっとした集会に使うのか、ライブラリーカフェも設けられています。

完全なる''くまワールド''ですね。郷土の偉人とはそういうものかと思いますが、手前味噌が過ぎるように感じるのは私だけでしょうか?


ライブラリーカフェ

硯と筆

肖像画など

写真

年表


大隈重信をキリスト教的視点で読み解くなら、忘れてならないのは浦上キリシタン流配事件に関わったこと。

この事件のとき長崎で外国事務局判事を務めていた大隈は、信仰を表明した浦上の信徒の処遇をめぐり、イギリス公使パークスと激論を戦わせました。

そこで外国人相手に一歩も引かなかった態度が立派だと評され、中央への出世の糸口になったと書かれています。うーん、どうなんでしょうね。人道問題として抗議されているのに内政干渉だと突っぱねるのって、どこかの独裁国家の言い分みたいで頂けません。



パークスとのやり取り

注目を浴びた

破天荒な青年時代

新進官僚

早稲田記念展示室


二階に上がると、くまワールドは早稲田ワールドへと変貌します。オリンピックで活躍した卒業生の紹介とか、こんな素晴らしい活動してますよ、とか。

「早稲田に非ずんば人に非ず」くらいの勢いです。

私は早大卒なんですが、なんだかなぁという、やるせない気持ちになってため息が出ました。自画自賛で逆に恥ずかしいというか (+o+)



早稲田記念展示室

展示室

生家

生家の解説板

建築の紹介映像


展示スペースの一角にこの記念館の建築に関するものがあって、紹介映像はなかなか見応えがありました(←真ん中に映っているのはガウディ)。

今井がどんな風にこの記念館を構想したかが解説されているのですが、どうやら大隈さんと早大に対する愛がこうさせたようですね。

それにしても理解できないのが、クリスチャンである今井が、こんな人間を賛美し栄光を帰すものを作った意図。色ガラスに越しに外光を浴びて、真っ赤に染まっている大隈像(↓サムネイル右下)などは特に、無理〜!と叫びたいほどのインパクト。教祖様か祀られた御神体みたいです。お賽銭置いて行く人いませんかね?

ここは・・・パンテオン(神々や偉人たちを祀る霊廟)だなと感じました。教会や神を賛美するものではなく、パンテオンを作ろうとしたというなら、ギリギリ納得できますかね☆



デザイン

デザイン

デザイン

デザイン

建築に関して

建築に関して

色ガラス

真っ赤な大隈像

片田江小路


大隈詣で気を削がれつ、片田江小路を佐賀城方面へ参ります。たぶん昔は城内だったんだろうなという所には、工事用の車両が目立ちます。

再開発の流れで整備しようとしているんでしょうか。どうか昔の風情が損なわれない開発でありますようにと思いながら。

考えてみればこの道も宣教師が通った道かもしれませんね。南蛮寺(教会)跡からお城への最短ルートですから。


佐賀のドミニコ会士


佐賀でドミニコ会の宣教が開始されるようになったきっかけは思わぬアクシデントからでした。1606年7月、フィリピン総督使節ドン・フランシスコ・モレーノ・ドノーソの船が嵐で難破して、肥前深堀の小港に入ったのです。当地の領主 鍋島七左衛門はこの船を歓迎し、佐賀の大名 鍋島勝茂もまた歓迎の意を申し送ってきました。

ちょうどその頃ドミニコ会のメーナ神父が深堀の近くにいたため、モレーノ船長は乗船していた人たちのためにミサを捧げてほしいとメーナ神父に依頼しました。ミサに与って満足した船長は、メーナ神父を深堀の領主に紹介し、鍋島七左衛門は神父の求めに応じて教会用地提供。それが泊町の教会です。

続いてモレーノ船長は佐賀の藩主 鍋島勝茂訪ね、贈り物を介して良いやり取りをし、その結果、肥前の首都佐賀に教会を建てる許可が与えられました。



片田江小路

NHK

城内だったろう辺り

さがレトロ館

佐賀城跡


佐賀城跡に到着。ここが一番工事中っぽいですね。

オルファネル神父の報告書によると「メーナ神父が城中において鍋島勝茂に会った」、「一回は仏僧の面前で迎えられた」とあるので、最低二回はここに神父さんたち来てますね。恐らくそれ以上。

意外なのはドミニコ会の修道士が「この領内にスペイン人の船を導いてくるとは思わないでいただきたい」と言うと、勝茂は「すでにそのつもりである」と応えたと書かれていることです。

一般的には、佐賀藩は海外貿易の可能性があると思い宣教師に近づいたが、港の深さが足りなくて大型船が寄港できないと分かるや冷たくあしらった、と解され本などにも書かれています。しかし詳らかに見るとそうではないことが分かります。物事はよく確認しなければちゃんと分からないものですね。



佐賀城

県立美術館

彫像

佐賀城

親子丼ひとつ


あまりにも疲れて佐賀城内には入らないままバスに乗り、佐賀駅へ。空港バスまでの時間に栄養をチャージ。気付いたら手が震えるくらい血糖値下がってました ( ;∀;)

5年前に九州来たとき効果的に回れなくて再訪を期すこととなり、次はもっと体力と知識を身につけて来ようと考えていたのですが、全く成長しないまま来てしまったなと痛感。でも・・・九州が奥が深いということもあると思いますね!(主よ、また機会をくださいませ☆)



佐賀県のPR放送


飛行機の到着を待ちながらテレビモニターを見上げていると、わざとらしいローカル番組が。ウケ狙いのためにローカル色を出すなんて、なんと都会的な発想でしょう。

佐賀駅より西ではIC乗車券が使えないなど、実際的なローカルさはあるものの、マスコミとネットの融合で今や情報的なローカルさ、情報格差は日本国内もうどこにもないんだなと感じました。

ならばそんなメディアに載せるべき情報は何であるか、価値あるものを探すときではないのだろうかと、そんなことを思いながら、今回の旅行にピリオドを打ちました♪






使わないと


時間や力は、使わないとそれで終わってしまうということが一つの特徴です。時間は何もしなければ過ぎるし、過ぎたら戻ってきません。力も同じで、力があっても使わないとそれだけのこと。使わなかった力をどこかに貯めておくこともできません。

お金はそれなりに貯めることはできますが、それでも使うべき時に使わなかったら、後ではどんなにお金を積んでもできないことがあります。つまり「持っている」という感覚に、いつも時間の要素を入れてあげないといけないということです。
この数日間を私は九州に来たのだけれど、そうでなくてもこの時間は過ぎたはず。何もしなかったら、何もしなかったなりの過ぎ方をして、きっと思い出にも残らなかったでしょう。

だからやっぱり、多少無理してでも頑張って来て良かったなと思います。人と話もできて、いろんなことを思うことができて。

毎日旅行に出かけようということではないけれど、使わないとなくなるものがあるということを念頭においていかなきゃなと思います。たぶん人生もそうやって、何もしないならしないなりに過ぎていくものだと思うから (*^-^*)





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