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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 バテレンが愛した海 vol.4 



今日は平戸!テンション上がります♪(毎日という噂もありますがw
テンションが上がるもう一つ理由が、長崎市から来る8人と待ち合わせして、一緒にめぐろうとしていること。かなり!うれしいです(o^^o)



平戸


佐世保から平戸へは高速バスで一本。この利便性がいいことも佐世保に宿泊した理由の一つです。

今日は確か雨の予報だったのに、少し雲はあるものの晴れてますね。感謝です。

キリシタン史に興味を持った人はまず長崎市に行くんですが、そこから平戸までは、同じ県内といえど足を伸ばしにくいので、行ったことがないという人が多いようで。

私のはやる思いを知ってか知らずか、バスは少し飛ばし気味に快調に進んで行きます☆


平戸大橋


この赤い平戸大橋を渡ると平戸島。平戸は鹿児島に次いで日本で最も早くキリスト教の布教が行われた所です。

1549年8月15日に、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来てキリスト教とヨーロッパ文化を日本に伝えましたが、その翌年ザビエルは平戸に来て、1か月にわたり宣教。

100人ほどのキリシタンを誕生させました。そうそう、この「キリシタン」という用語も、元々ポルトガル語でキリスト教徒を表す「クリスタォン」という言葉がなまったものですが、日本で最初に使われ始めたのは平戸だったといわれています(諸説あり)。

だとすると、さしずめ平戸は「キリシタン」の故郷。最初の日本人司祭と最初の日本人殉教者も出しているのも頷けますね。あー、海青い。この海をバテレン(外国人司祭)たちは渡って来たんだな ( ̄▽ ̄)ホー



平戸湾

平戸城

漁村


平戸港の観光案内所で落ち合って、初めて会う人とは挨拶をし、元からの知人とは旧交を温めつつ、平戸の町へ。

皆は車で来たのですが、一旦駐車場に置いて、まずは徒歩で回れる方へと向かいます。

平戸は漁村に史跡が散りばめられているような町で、干物屋さん(?)の壁が和蘭商館の遺構だったりします。犬も歩けば棒にあたる状態で、あっちでもこっちでも史跡と解説板に出会う不思議ワールド。

細かな遺構や発掘物まで逐一解説を添えて展示しているところが、このプロジェクトにあたっている人の入念さを物語っているようで、しつこい私の性格にマッチします。意外と話が合うかも。私もキリシタンのものならこれくらいやりたいですね♪



干物屋さん(?)の壁

和蘭商館の遺構

1612年築の住居跡

住居跡に鳥居

オランダ井戸

オランダ井戸解説

1637年築倉庫跡

1637年築倉庫解説

御船手屋敷石塀

御船手屋敷石塀解説

砂岩板石

砂岩板石解説

復元されたオランダ商館倉庫


それでは最近復元されたばかりのオランダ商館倉庫へ。

白くて光ってて歴史的な感じはしませんが、逆に平戸に来た人たちが見たのとはほぼ同じなんでしょうね。

平戸オランダ商館は1609年、東インド会社が、幕府と平戸藩主 松浦隆信の許可を得て設置した貿易拠点。最初は土蔵付属の住宅でしたが、1612から1639年にかけて順次拡充されていきました。

この建物は正面の目立つところに「1639」と書かれているので、1639年に築造された倉庫を復元したのだと分かります。その翌年につぶされてしまうんですけどね。その話はまた後ほど。



オランダ商館倉庫

1639

国史跡の碑

オランダ街道

中の博物館


驚いたのは、建物は外観だけ復元したのではなく、内部の構造まですべて当時の倉庫を復元して、そこに展示が施されていたこと。

巨大な柱が1階にも2階にも立ち並んでいて、木材も相当いい物を選んできているような。本気度に度肝を抜かれました。

その一方、展示品は複製が多くて、少々物足りないですね。本物を平戸市が所有しているのに、精巧な複製品しか並べていないというのは、防犯上の問題などを考慮しての方針なんでしょうけど、本物を展示したらどうでしょう? 特に勅許状などはメインになると思うので。

建物の本格的な復元、遺構の保存修復がハイレベルでされていても、博物館という性質上、「ここに行けばこれが見られる!」という目玉がないと、なかなか難しいですよね。



「聖書釈義」

「聖書釈義」解説

倉庫を支える柱

柱の解説

VOC勅許状(複製)

家康朱印状(複製)

家康朱印状(複製)

じゃがたら文

リーフデ号


さてこちらがリーフデ号の模型。江戸幕府によるキリスト教禁令の大きな伏線ですね。

解説パネルではリーフデ号の航行ルートと、日本に漂着したその船に乗っていた三浦按針が平戸のイギリス商館にも影響を与えたと書かれていますが、そこまでです。

イギリス人航海士だった三浦按針が家康の外交顧問となり、カトリック教国をディスりまくり、キリスト教禁令が発布されて、その余波で平戸のオランダ商館は閉鎖されたんですけど。ここは正にその商館を復元したところなのだから、その辺の説明は必須だと思うんですが、何かに憚ってうやむやにしているかのような解説文です。もう江戸幕府を恐れる必要はないのに、なんででしょうねぇ (;^ω^)


キリスト教禁令と平戸オランダ商館


江戸幕府のキリスト教禁令は、1612年まず幕府直轄地に宣布され、1614年に全国に拡大されました。この際各地の教会は破壊の憂き目に遭うのですが、平戸の商館は無傷でした。なぜならオランダやイギリスなどいわゆる新教国(プロテスタント)は貿易と宗教をセットにせず、宣教しようとしなかったからです。

またプロテスタントとカトリックは激しく対立していて、互いに敵認定していました。もちろん教理も違います。だから三浦按針がカトリック教国(ポルトガル、スペイン)を悪く言っても無理のない話なのですが、それが政策に、宗教政策になって殉教者まで出していったのだから問題です。

平戸の和蘭商館はキリシタン弾圧をよそ眼に、天草・島原の乱後の1639年まで拡大していきました。しかし、建物正面に「1639」と掲げたことがアダになりました。1640年11月、将軍徳川家光の命を受けた大目付 井上政重が視察に来て、倉庫にキリスト生誕にちなむ西暦の年号が示されているとして、全ての建物の破壊を命じたのです。翌年、商館は長崎の出島へ移転。

これによって、平戸オランダ商館の33年間におよぶ歴史に幕が下ろされました。ジ・エンドです。平戸はその時から、どこか時が止まってしまったかのような感じを受けるのは私だけでしょうか。それは言い過ぎかもしれませんが、南蛮人(ポルトガル、スペイン人)、続いて紅毛人(オランダ、イギリス人)が闊歩していた時代を今でも懐かしんでいるように思えます。



リーフデ号

航行ルート

解説パネル

1639


 崎方公園へ☆彡


オランダ塀


オランダ商館を覗かれぬため、また火災の類焼を防ぐために設けられたというオランダ塀を見ながら崎方公園へ。

この公園にザビエル記念碑と三浦按針の墓があるということで、我々には外せないのです。

今回は全員クリスチャンでキリシタン史に興味を持つ輩の集まりですので。急な登り道をよいしょこらしょ。あっという間に汗だくですが、気にせず行きましょう (^▽^;)


オランダ塀

東屋

平戸和蘭商館跡

じゃがたらの道

ザビエル記念碑


ふうーと、ひと息つくような所にあるのがザビエル記念碑

ここまで登ってきて良かったなと思える素敵な碑です。

この記念碑は1949年、ザビエル来日400周年を記念して作られたもの。建てられてから随分経っていますが、管理がいいからか古びた感じがしません。


平戸とザビエル♪


平戸にはザビエルが3度来ています。最初は15808月の1か月、次が同じ年の9月から2か月、3度目がミヤコから戻った15513月から4月までです。ザビエルは日本に2年と3か月しかいなかったのに、結構な頻度で訪れていますよね。それは平戸に王直という密貿易で財を成した人物がいて、南蛮貿易の橋渡しもしていたからです。この人は藩主の松浦隆信から屋敷も与えられていました。

その貿易の関係でポルトガル船が平戸に来航していたので、ザビエルも訪れるようになったんですね。松浦隆信は利益をもたらすポルトガル船の来航を喜んでいましたから、ポルトガル人が敬愛するザビエルを歓迎し、布教の許可を与えたのです。

ザビエルが平戸に滞在中に宿所としていたのは平戸藩の武士 木村氏の家。日本人で初めて司祭(神父)となったセバスチャン木村はこの木村家の出です。平戸藩主松浦氏の重臣だった木村氏と籠手田(こてだ)氏が受洗し、積極的に宣教師を助けました。

そこで平戸島だけでなく生月島(いきつきしま)、度島(たくしま)など、領内各地にキリスト教が広められました。ザビエルは鹿児島では得られなかった働き人を、ここでやっと得るようになったんですね。

ザビエルが直接洗礼を授けたロレンソ了斎は平戸の白石出身といわれ、キリシタン時代を代表する説教師になりました。高山右近の父、ダリオ高山図書は、ロレンソの説教を聞いて感動し、家族みんなでキリシタンになりました。キリシタン大名の代表と言うべき人物が平戸出身の人から影響を受けて受洗したなんて、歴史は見えない絆でできているんだなと思います。



ザビエル記念碑

解説碑

ザビエル記念碑

三浦按針の墓


ザビエル記念碑からしばらく登ると、今度は三浦按針の墓が。墓と言っても、これは後の世の人が建てたものみたいですね。

ざっと生涯をおさらいするなら、三浦按針(ウィリアム・アダムス)は、初めて日本に来たイギリス人。1600(慶長5)年オランダ船リーフデ号に乗っていて豊後(大分県)に漂着し、平戸には1613年(慶長18)にやって来ました。

ではその間何をしていたかというと、それがさっきも述べた家康の外交顧問。250石を与えられ、今の神奈川県横須賀市に住んでいました。オランダ、イギリスが通商を許され、平戸に商館を設置するようになったのは、按針の力によるところ大であったといわれ、それが功を奏して、後に平戸イギリス商館長コックスのもとで働く場を得ました。でも晩年は不遇だったと伝えられていますね。1620(元和6)年平戸で死去。

墓は定かでなかったため、1954(昭和29)年地元の協力を得て三浦按針の墓が建立され、夫婦塚(向かって右手)まで建てられました。だからやはり墓ではなくて追悼碑と呼ぶ方が適切かと。解説板には按針が洗礼を受けた教会の写真が載っています。クリスチャンはクリスチャンだったんですね。教理は違うにしても、同じ神様を信じ、同じ主を愛する人を死に追いやって、胸は痛まなかったんでしょうか。



三浦按針の墓入口

三浦按針の墓

解説板

夫婦墓も

頂上に野球場


見晴らしを求めて崎方公園の頂上まで登ってみると、こんな所に?という感じで野球場が出現。背景には山並みが続いく平和な風景です。

平戸には1564年11月「御やどりのサンタ・マリア」に捧げられる美しい教会が建てられました。それが後で訪れる天門寺跡なのですが、それ以前にも小さい教会や宣教師の滞在所はあったろうと考えられます。

あったとしたら、外国人が暮らす一帯ではなかったかというのが、私の考えで、それならばオランダ商館の裏手に当たるこの山も候補地に挙げてもいいのではないかと思い、それで様子をうかがいに来てみたんですけども。


歌う(^^♪


うーん、様子では全く分からないですね。ザビエルがミヤコに行くと、平戸にトルレス神父が残って信徒の面倒を見、ザビエル離日後にはガゴ神父フロイス神父フェルナンデス修道士らが引き継いで布教しました。

特にザビエルと一緒に日本に来て、一番日本語に優れていたため、ザビエルの言葉を訳して働いていたフェルナンデス修道士は、1567年に平戸で亡くなったので、忘れてほしくない人物です。

当時平戸島だけで14の教会があったということなので、あの山の方にある村々でもキリシタンが信仰を持って暮らしていたんでしょうね。ここは想像力をたくましくして・・・歌ってみましょうか! 展望台に上り、昔の信徒たちを思いながら賛美歌を力いっぱい歌ってみました。空はますます晴れわたり、涼しい風が光と一緒に降り注いでくるような (#^^#)ハレルヤ

《追記》
家に帰って調べてみたら、平戸で最初の教会はやはり崎方公園のザビエル記念碑から登ってくる途中にあったということでした。実は現地にいるときも、私「この辺りに昔の教会あったと思うんですよー」引率者のMさん「さっきそうだって碑が建ってましたよ」と教えてもらっていたんですが、下りていくときに見ようと思っていて失念してしまったのです(>_<)

ザビエルが滞在した木村氏宅跡の碑も、ザビエル記念碑から松浦史料博物館に行く小道沿いにあるとのことです。ちょうど歩いていたルートなんですが見落としました。どちらも探し求めていたのに、そこを通っていながらも気付けなかったという間抜けっぷりを発揮してしまいました。

私のアタマより直感、霊感の方が優れているということを悟りつつ・・・ちゃんと案内できなかっことを同行者の皆様に伏してお詫び申し上げます<(_ _)>



山々

野球場

歌う


展望デッキ


歌い終わって下りて行くと、今度は展望デッキが。運側の景色がよく見えそうだったので、こちらにも上ってみました。

児童公園になっているようで、遊具なども設置されていて、近所にこんな所あったらいいなと思ってしまうスポットです。島ってアップダウンがあってしんどいですが、健康には良さそうですし☆

平戸港


海側の眺めもファンタスティック!

特に、地上からはよく把握できなかった港の様子が一目瞭然で、なるほど、こういう地形になっていたのかと。

港を中心に左ウィングが平戸城、右ウィングがオランダ商館で、真ん中からやや左寄りにイギリスか。勢力分布がなんとなく浮かび上がってくるような。1561年に宮ノ前事件(ポルトガル船長以下14名の死者を出した大事件)があったのは、桟橋があるあの辺りかな・・・。

港からまっすぐ上って行った所には、小さくザビエル記念聖堂も見えますね。後で行くのが楽しみだー☆




 松浦史料博物館へ!


松浦史料博物館


道を下って行くと、右手に小道が現れて、その先にあるのが松浦史料博物館。平戸を治めた松浦氏関連のお宝を収蔵しています。

建物は松浦氏の私邸として建てられたもので、1893(明治26)年の建築だとか。渋いっすね。

・・・と、いまいち松浦氏に肯定的になれないのは、アンチ・キリシタンだったからですね。貿易の利を求めて歓迎したことはあっても、概ね迫害側でした。しかし日本初のキリシタン大名 大村純忠の娘が松浦氏に嫁いで来たりして、キリスト教文化はそれなりに伝えられたと思うので、その辺を見学したいと思います。



お輿

館内

雛人形

鎧兜

松浦隆信


外観はわびさびめいた感じですが、内部は広く贅沢な空間。華美ではありませんが、日本人には「これお金かかってるよね」と分かるジャパニーズ・ゴージャスです。

こちらの肖像画の人物が松浦隆信(まつら・たかのぶ)。ザビエルに布教を許した人物です。法名は道可で、熱心な曹洞宗宗徒。

1550(天文19)年ザビエルが鹿児島から平戸にやって来ると、隆信は宣教師の同地での布教活動を許したので、1553年から1561年までの間、ポルトガル船は毎年来航するようになり、平戸は中心交易地として栄えました。

この時点ではウィンウィンの関係だったのですが、宮ノ前事件で事態は一変。ポルトガル船は大村純忠の支配する横瀬浦に、続いて長崎へと移って行きました。隆信は元々キリスト教には馴染まず、息子の鎮信(しずのぶ。初代平戸藩主)もその点は同じでした。


隆信→鎮信→久信


鎮信が自分の息子、久信(ひさのぶ。2代藩主)の妻に大村純忠の娘(メンシア松東院)を迎えたのも、いわゆる政略結婚。大村氏との和議の一環でした。キリスト教を受け入れる気などさらさらないので、奥方となったメンシアは大変でした。

久信が鎮信より早く死去したので、鎮信は孫が成長するまで松浦氏を背負って奮闘し、平戸貿易の復興を目論んで、家康に取り入って朱印状を手に入れ、平戸にオランダとイギリスを誘致することに成功。しかしそれも30年も経たずして海の泡と消えたことは前に書いた通りです。

鎮信は熱心な真言宗徒で、キリシタン排除を本格化させました。藩主となった時期がちょうど家康の世になっていく頃だったので、キリスト教禁令の流れに迎合することで新教国との貿易を許してもらったのです。そしてこれが後に平戸に隠れキリシタンを生むきっかけとなりました。

この一連の流れ、複雑そうに見えて単純です。結局平戸藩主はずっとアンチ・キリシタンで、貿易の利があると見たときだけ、例外的に受け入れて布教を許可したに過ぎませんでした。平戸で宣教師が活躍し、ここで信仰を持ったキリシタンが出て行って、日本各地で目覚ましい働きをすることはありましたが、平戸ではそれとは逆に迫害によって衰亡し、「隠れ」としてしか続きませんでした。残念の極みです。



松浦久信

平戸城絵図

展示品

王直の像

切支丹禁制高札


館内には切支丹禁制の高札もありました。むむ、ガラスケースには平山常陳事件の奉書と類続改定格まで。

ここ、キリシタン迫害史料博物館でしたっけ?

高札にはキリシタンを密告したら報奨金をやると書いてあり、バテレンがいくら、イルマンがいくらと金額まで明記してあります。

平山常陳事件は、元和の大殉教の引き金となったといわれる事件ですが、イギリスとオランダが絡んでいるので、幕府からのお達しを商館側に伝えたようです。墨痕鮮やかで、内容を読まなくても権威を振りかざしていることが分かる筆致です。

類続改(るいぞくあらため)帳というのは、転びキリシタンの類続(以前キリシタンだった人の家族や子孫)を調査して、今はどこどこの寺の檀家になっていて問題ありませんよ、とか記載した文書。その規格を示したのが類続改定格らしいです。藩によって多少形式が違うので名称のパターンはいくつかあるんですけど、「宗門改」(しゅうもんあらため)ということが多いです。

その類続改を、他藩では1627年から行われましたが、平戸藩では1597年からやってましたと書かれています。驚くべき早さです。1597年は26聖人が処刑された年ですね。それを受けて、各藩に先駆け早々にキリシタン禁制に舵をきったことがうかがえます。まだ平戸にバンバンいたでしょうに、キリシタン。



切支丹禁制高札

平山常陳事件の奉書

類続改定格

聖書釈義

浦上切支丹関連資料も


陰険な目つきでガラスケースを凝視しながら移動していくと(良い子はマネしないでね)、浦上キリシタンの関連資料もありました。

浦上(うらかみ)キリシタンとは、長崎市郊外の浦上村を中心とした村々に住んでいた潜伏キリシタン(隠れキリシタン)のことで、開国後日本にやって来た神父の元に来て信仰を告白し、教会に復活しました。これを「信徒復活」といいます。

それでお寺に埋葬するのをやめて、自分たちでキリスト教式に埋葬したんですが、それが問題になってしまいました。江戸幕府は寺請制度というのを全国に布いていて、全国民が仏教の寺の信徒登録されていたので、そこから外れることは反逆行為だったのです。

浦上キリシタンは後では全国20の藩に流配になります。3300人以上が流され、600人以上が死にました。明治の世になって「島流し」ですよ。信じられます?明治政府はキリスト教徒を弾圧して、処刑こそしなかったものの、劣悪な環境で虐待して死に至らしめました。

まったくもう!とエキサイトしておりましたが、ん、ちょっと待てよ。
平戸の隠れキリシタンは「信徒復活」してないですね。それどころか、先祖崇拝的になって教会に復帰することもせず、独自の道を歩んだ――それが「カクレキリシタン」なんですが。ということは、浦上キリシタンの自葬事件も、こちらでは別の捉え方がされたと考えるべきですね。

なるほど、平戸は長崎県だけど、県内の他の地域とは違った道を歩んだということか。ならばそんな違いが生まれた原因がどこかにあるはずですね。もっと調べて考えてみなくっちゃ (´・ω・`)フム



浦上切支丹関連資料

浦上切支丹関連資料

展示室

長篠の合戦図

犬箱


チベットスナギツネを想起させる犬箱(←)に見送られながら、博物館を退出する我ら。

短時間にいろんなこと考えて、血圧が上がったり下がったりで、頭の中が恐慌状態です。

こんな時は・・・、ご飯食べよ。
これが答えですね。新鮮な空気とブドウ糖が必要です。さあ、町へ☆


カニ

建物

山鹿祖行

松浦隆信

さりげなくザビエル像


資料館の石段を下りて行くと、ザビエル像が!

なんとさりげなく、町角にマッチして建てられていることでしょう♪

考えてみれば、こんな感じで正にこの道を歩いていたかもですよ。

合計4か月以上平戸にいたわけですから、あちこち足を運んだでしょうし。同じく布教を許された山口では、井戸端で路上伝道をしていたので、平戸でも少しは試みた可能性はありますよね。福音を聞いて皆がどう反応するか見ようとして。

ザビエルが去ってから来たルイス・フロイス(私が好きな人物)は大変な好奇心の持ち主で、「おしゃべりフロイス」とあだ名までつけられていたくらいですから、かなり平戸に精通していたと思うんですよね。ああ、フロイスが来て教えてくれるといいんだけど...щ(´∀`щ)カモーン



ランチ


男性2人が走り回って探して来てくれたお陰で、本日のランチはリーズナブルに海鮮。漁師町っていいなと思いました。

宣教師たちは何を食べていたんだろうなと思いめぐらせながら、あっという間に完食。皆お腹空いてたのね。午後も歩きますよー。




 怒涛の史跡めぐり (;^ω^)


按針の館


食堂の表の道に出ると、所々に解説板が。この辺りに三浦按針が住んでいたようで、按針の館(住居跡にある建物)があり、按針が出入りしたであろうイギリス商館跡の碑があり、按針の終焉の地碑も建てられています。

晩年はこの界隈で暮らしまくっていましたね、あの人。ここに満足していたのか、どこかには行けなかったのか分からないけれど。

私の中では、どうも幸せだったようには思えないんですが、勝手な憶測ですかね。「キリスト教禁令の片棒を担いだんだから不幸になったハズだ」とか、短絡的な発想で言うのではなく、ただ虚心坦懐にそう思うのです。幸せというのが、肉体のことではないとしての話ですけど。



按針の館

イギリス商館跡

イギリス商館跡解説

三浦按針終焉の地

幸橋


国指定重要文化財の幸橋(さいわいばし)を渡って、平戸市役所へ。市役所の前に「英国商館遺址之碑」があります。イギリス商館は移転したんですね。短い間しかなかったのに。

向かいにはオランダ船の巨大な錨が置かれているのですが、盗難防止のためか、覆屋が檻のようになっていて、捕獲されたモンスターが寝そべっているみたいです。


幸橋解説板

「英国商館遺址之碑」

モンスター?

オランダ船の錨

キリシタン時代の教会跡


では海辺を離れて陸側へ。坂道を上ると見えてくる、こちらが天門寺の跡です。キリシタン時代に教会だった所ですね。

キリスト教の教会だけど、日本風に天門「寺」としたのは、当時は日本語の「教会」という訳語と概念がなかったから。正式名称は「御やどりのサンタ・マリア教会」ですが、通称「天門寺」だったということですね。

キリスト教が入って来て間もない時期で、まだ訳語が充分ではなかったことが、名称のつけ方からもうかがえます。すべてが「初めて」づくしだったろうなと。

解説板によると、王直に与えられた屋敷だったのが取り壊されて、その後に天門寺となったと書かれています。天門寺もまたほどなくして破却されたのだから、50年くらいの間に用途が転々としたんですね。王直は海商で、松浦隆信(道可)が贔屓にした人物。隆信がもっぱら貿易の利に目をつけて、明やポルトガル、イギリスやオランダをとっかえひっかえ付き合ったという、ブレブレ政策が見て取れます。

でもここに教会があったと思うと、非常に感慨深いものがあります。日々祈り、賛美して、布教に励んでいたと思うので。現在まで名前が伝えられている宣教師や代表的なキリシタンだけでなく、無名の多くの信徒たちがいたんでしょうね。私がその時代に生きていたらその一人だったろうから、そういう名前の知られていない人に親近感が湧くんですよね (*^^*)



天門寺跡

解説板

隣も天門寺跡?

瑞雲寺


続いて民家の間の小道を通ってザビエル記念聖堂へと向かおう・・・としていたのですが、ちょっとタンマ(死語?)。急にバテてしまい、もう一歩も歩けない...(;´Д`)

年のせいとは思いたくないですが、ご飯は食べたしなぁ。。しばらくお寺の門前に座って休みました。話すことはほぼ問題ないんだから、熱中症ではなさそうです。いつまでも座ってられないから行くかー。


寺院と教会の見える風景


平戸きっての有名観光ポイント、寺院と教会の見える風景を堪能していると、韓国からの巡礼団が。

テジョンから来た一行はかなりの人数で、アジュマ(おばさま)とアジョシ(おじさん)が延々上ってきます。

日本人のクリスチャンでもなかなか平戸まで来る人はいないのに、韓国の地方都市から大挙して巡礼に来るなんて、韓国人の信仰心はやっぱりすごいなと。日韓関係は常に微妙なので、「なんだかなー」と思うときもあるのですが、韓国人の信仰心は見上げたものだと思います。おっ、ザビエル聖堂見えてきた☆



寺院と教会の見える風景

解説板

光明寺

光明寺解説板


 平戸ザビエル記念聖堂♪


記念聖堂の後ろ姿


坂道を登りきると記念聖堂の後ろに出ました。内陣の様子が分かる後ろ姿も優美で良いです。

大型の観光バスでも聖堂にくることはできるけれど、その場合は正門の方しか見なくなってしまうので、こちらのコース取りもお勧めですね。

門には「神に栄光」と刻まれています♪


裏門

「神に栄光」

後ろ姿

平戸ザビエル記念聖堂


そしてどーん!こちらが平戸ザビエル記念聖堂です。

観光客は信徒席の後ろの所までしか入れないようになっているのですが、「お祈りして行ってもいいですか?」と訊いたら、ロープを開けて入れてくれました。

堂内で静かに祈れる恵みは大きいですね。献金のつもりでカードなどを買ってお土産に。敷地内には平戸殉教者顕彰慰霊碑やルルドがありました。日本で最初の殉教者マリアおせんもそうですが、平戸では400人余りの人が殉教したといわれています。


最初の殉教者マリアおせん


ザビエルが去った後の平戸では、松浦隆信がキリスト教を迫害するようになって、町の雰囲気も変わっていきました。そして1559年、日本で最初のキリシタン殉教者が出ました。平戸に住んでいたマリアおせんという女性です。

この時はまだ禁教令が出されていないので、藩主や政府によって処刑されたのではなく、奉公していた家の主人に、キリスト教の信仰を理由に、お手打ちになった形でしたが。この時の殉教地はどこであったか、分かっていません。

また解説板の「(マリアが)主君に禁じられた十字架の丘への参拝をやめないという理由で斬首された」という部分の十字架の丘がどこであったかも不明です。私が思うに、どこか港から見える小高い所に十字架が建てられていたんだと思うんですよ。

天門寺が建てられる前だから先ほどの所ではなく、ここかもしれないですが、こちらは寺町なので、それがあったのはもしや崎方公園だったりしないかなと、想像したりしているんですけどね。フロイスなら誰かに尋ねて知ってたと思うんだけどな。ほんとカモン!



平戸ザビエル記念聖堂

解説板

周辺地図

ザビエル像

ザビエル解説板

平戸殉教者顕彰慰霊碑

平戸の殉教者解説板

ルルド

海辺の道を


上るのに苦労した坂道を、帰りはひょこひょこと数分で下り、宮ノ前事件が起こった平戸港を遠目からチェック。ここからは車で平戸城へと向かいます。

ワタクシ、地図の尺度を見誤っておりまして、頑張れば平戸城まで歩けるようなイメージを持っていましたが、かなり頑張らないと無理ですね。少なくとも体力不足の私には無理でした。

元々は平戸も一人で来ようと考えていて、行きたい所を自分で回るつもりでいたのですが、今悟りました。そんな私を心配して、神様がはるばる長崎市から助けてくれる人を送ってくれたのだと!

実は先日部屋を整理していたら昔の写真が出てきたので、超久しぶりに後輩に連絡してみたたことが、一緒に回るきっかけになったのでした。聞けばその彼は今長崎に住んでるというではありませんか。へえ、今度平戸に行くんだよと、ついでみたく話してみたところ、僕と友人も一緒に行っていいですか?と。それでとんとん拍子に事が運び、本日合流となったのです。

皆が車で来てくれることがなかったら、疲れ切って今頃この辺の道端で野垂れ死んでただろうなと思うと、感謝しつつ若干苦笑です。見えないけれど、いつも共にして最善の道に導いて下さる主に栄光を捧げたいですね♪



ペトロ・バプチスタ平戸上陸記念碑


平戸城の駐車場に車を停めて、まず探したのはペトロ・バプチスタ平戸上陸記念碑。最初違う所を探していて、なかなか見つからなかったのですが、同行者の女の子が発見してくれました。

予め私が行きたい所を簡単に書いて送ったら、それを見て皆で分担して調べてくれていました(学生も社会人もエライ!)。

それで、この碑の場所もちょうど担当した子が見つけたのです。関心を持って調べものをすることもお祈りに通じるのかなと思いました。「自分が担当」という主人意識が、良い効果を生むんだなと感じましたし。


聖ペトロ・バプチスタ神父平戸上陸記念碑


さてペトロ・バプチスタが如何なる人物かと申しますと、日本26聖人の一人として記憶されている宣教師です。スペインに生まれ、サラマンカ大学で神学を学び、1568年フランシスコ会に入会。1581年にメキシコに渡り2年間の宣教の後、フィリピンに渡航して、1589年に管区長となりました。すごいエリートコースを歩んでいますが、優秀なだけでなく、信念の人でもありました。

なぜなら秀吉の伴天連追放が出された後の1593年に、日本宣教を果たすべく、マニラ総督の特使として来日したからです。宣教師としては入国できないので、総督の特使として来たわけですね。当時イエズス会は日本で布教活動していましたが、フランシスコ会はまだでした。そこで自分たちも行って、イエズス会とは違うやり方で宣教しようと企図したのです。

そしてペトロ・バプチスタが第一歩を記したのが平戸でした。ここに碑が建てられているのはそのためですね。ペトロ・バプチスタは名護屋城で豊臣秀吉に謁見し、京都に移り、秀吉から与えられた土地で教会、修道院、病院を建て、布教を行いました。しかし土佐沖に座礁したサン・フェリペ号の事件の余波で、秀吉は有名無実となっていた伴天連追放令を復活させ、キリシタン処刑を命じました。


ペトロ・バプチスタの涙


京都から長崎まで寒空の下、見せしめのために連行され、西坂の丘で十字架に掛けられ、槍で突かれて殉教しました。長崎の外れに着いたとき、ペトロ・バプチスタが泣いているので、死ぬのが怖くて泣いているのだろうと役人たちは嘲笑っていましたが、本当は日本で宣教を十分にできなかったことを天の前に申し訳なく思い、日本人の救霊のために祈りながら泣いていたということです。

26聖人の殉教は1597年2月5日なので、平戸で日本の地を踏んでから約4年後のことになりますね。果たせぬ思いを持っていたことでしょう。駐車場には時代や種別などを完全無視していろんな碑が置かれていて、少し(かなり?)興ざめですが、ペトロ・バプチスタを偲ぶものがあるのは幸いです。同じ並びに南蛮船来航400年記念之碑もありました。



ペトロ・バプチスタ平戸上陸記念碑

南蛮船来航400年記念之碑

ライオンズクラブの碑

平戸高等女学校校歌

平戸城へ


では城攻めに。登城路を上っていくと、石塀に狭間が。石垣は雑に積み上げたように見えて堅牢な造り。見た目より機能性を重視した城だったように思います。

そもそも島の高台にあるので、攻めるに難しく守るには楽な方ですが、それは大型火器がなければのこと。

大筒(おおづつ。大砲のこと)を備えた外国船で攻められる危険を想定していたのかもしれません。様々な外国と丁々発止の交渉をしていていたので、それなりに備えもしたのかと。意外なのはあまり裕福な城に見えないことですが、それは今だからそう見えるだけなのかな?



解説板

狭間

北虎口門

石垣

平戸城


復元された天守、沖見櫓に到着。大した距離ではないけれど、弱ってる私には心臓破りの坂道でした (+o+)バテー

中は資料館になっている模様。またもや松浦家の栄華とキリシタン迫害史料が待っているんだろうなと思ったら、途端にアドレナリン放出されて疲労感が吹っ飛びました。

私は時々戦闘モードになる方がいいのかも。大体迫害者がイジメぬいた相手のことを展示として作って、お金取って見せるって、倫理的に許されることなんでしょうかね? 島原城もそうでしたけど、大いに疑問に思いますわ。



明治天皇と松浦家


さて出鼻をくじかれるようですが、最初に目に入って来たのは、明治天皇と松浦家の展示。

明治天皇の生母、中山慶子の母は平戸藩主の松浦清の第11女だということで、明治天皇は幼少の頃、当地で育てられたのだとか。

この年になっても知らないこと多いなと思った瞬間でした。吉田松陰も平戸に来て学んだことがあったそう。本を見てるだけでは知識が素通りして頭に定着しないので、こうやって現地学習しさせてもらってるんだなと感じました。



明治天皇と松浦家

明治天皇の産

吉田松陰

北虎口門

平戸のカクレキリシタン


そしてこちらが「平戸のカクレキリシタン~キリシタン遺物展」のコーナー。

「キリシタン遺物展」と銘打っていますけど、「おまいらが弾圧したからカクレキリシタンになったんじゃね?」と叫びたい。


「隠れキリシタン」「カクレキリシタン」「潜伏キリシタン」?


解説パネルに「カクレキリシタン」と書いてあるので、ここで少し用語説明と私見を述べたいと思います。江戸時代に、隠れて信仰を持っていったキリシタンのことを、一般的に「隠れキリシタン」と呼びますよね。しかしカトリックでは多くの人が、彼らのことを「潜伏キリシタン」と呼んでいます。

なぜかというと、開国後やって来た神父さんに、浦上キリシタンは会いに行き、信仰を告白して「信徒復活」しますよね。しかしその一方で、先祖代々信仰を受け継いでいるうちに、教理が変質してしまって、ちょっと土俗の民間宗教みたいになってしまった人たちがいて、その人たちはカトリック教会に復帰してこなかったんです。

その人たちをカトリックでは「隠れたままのキリシタンだから、隠れキリシタンだ」と言うんです。なので、教会に復帰してくるまでの隠れてた信徒のことも「隠れキリシタン」と呼ぶと混乱するので、彼らのことは「潜伏キリシタン」と呼んで区別するのです。すると今度は一般的な使い方と食い違ってしまって、これはこれでまた混乱します。


「隠れキリシタン」と「カクレキリシタン」の使用を推します!


それで、ある時から宮崎賢太郎という学者さんが、今も教会に復帰してこないキリシタンのことを、全部カタカナで「カクレキリシタン」と書いて区別するようにし始めました。「隠れた」「キリシタン」という二単語ではなくて、カタカナで「カクレキリシタン」と書いて一つの名詞にしたのです。

私もこれが一番妥当はないかと思います。だからサイトでもそう書くようにしているんですけど、研究者の中にも考え方に差があって、「学問的には潜伏キリシタンというのが正しい」とテレビで明言している学者を先日見ました。

だけどそうすると、東北とかで隠れて信仰持っていてそのまま集団ごと潰えてしまった人たちはどう呼ぶんですかね?「潜伏」というのが合わない気がします。「潜伏」というのはやはり「潜伏期」があって「復活」を迎えた人たちに相応しい言葉だと思うので。

という訳で、私は「隠れキリシタン」と「カクレキリシタン」の二つを使用することをこれからも推奨していきたいと思います☆



解説パネル

解説パネル

メンチョロ様

メンチョロ様解説

お札様

カセカケ

十字架に見立てた


明治期のロザリオ

参考品

参考品

参考品

平戸の湾


で、平戸はというと、典型的な「カクレキリシタン」の地です。

特に平戸島からもう少し西に行った生月島は、「カクレキリシタンの里」として知られています。

組講を作って納戸神を拝み、もはや意味さえ分からなくなったオラショ(お祈りの言葉)を唱えて・・・。その組講も今や崩壊しているとも聞きますが、先祖が守って来た伝統形態を離れると罰を受けるという考え方が染みついているようです。何と悲しいことか。

復元天守の最上階は、御多分に漏れず展望階となっていて、平戸湾を一望できます。空に近くなった分、海の広さがもっと感じられ、ただただ碧い海原を見ていたら、うっと込み上げてくるものが・・・。

過ぎた歴史を思えば悲しくて泣け
何もなかったかのように美しいから泣けて
ついには、海が碧いから泣けてくるという――


一緒に来た人たちはこの海を見てどう思うのか。若い瞳にこの碧さを映せただけでも、今日という日があって良かったなと思いました。乗せて連れて来てもらったのは私の方なんですけども、きっかけになれたという意味で。







たばこ種子渡来之地


地蔵坂櫓の登り口で一休みしていると、「日本最初たばこ種子渡来之地」の碑が。

1601年、日本で迫害を受けるキリスト教徒を救出するため、フィリピンからフランシスコ会のヒエロニムス・デ・カストロが平戸にやって来て、松浦鎮信(法印)にタバコの種を贈呈したんだとか。それを記念した碑のようです。

1597年のペドロ・バプチスタの処刑後、フランシスコ会では更なる殉教が起こらぬよう、平戸に人を送っていたということですね。1599年に松浦隆信が死去して鎮信が藩主となった平戸では、キリシタンに対する迫害は急速により一層酷くなっていました。

そこで状況を少しでも和らげようと贈り物を携えて来たものとみられます。ならば本来このたばこ渡来記念碑は、「キリシタン迫害を少しでも止めさせようとした努力の記念碑」ではないかと。たばこはその方便なのにフィーチャーされ過ぎですよね。何でも「初」を有り難がる民族性ではありますけど、今のご時世たばこの渡来を喜ぶ人、少なかろうに。



井戸

案内板

地蔵坂櫓


 ラストスパート (*'▽')


正宗寺


「まだ時間あるんですけど、最後に見たい所ありますか?」と訊かれて、即答したのは「正宗寺!」

松浦家に嫁いだキリシタン女性、メンシア松東院の墓がある寺なのですが、さっき門前を通ったのに、ザビエル聖堂に気を取られてスルーしてしまったのです。愚かなり(いつもな;;)。

見たいと皆が賛同してくれ、車でゴー。お世話かけますね (;^ω^)オホホ


メンシア松東院墓所


正宗寺に着いて入って行くと、鬱蒼と茂った竹林をバックに松浦家代々の墓が。その中にメンシア松東院の墓石もドカンとありました。

メンシアだけでなく松浦家の墓石のほとんが、ドカンドカンと数メートル級の墓石がそびえ立ち、見る者を圧倒。

これはキリシタンが多かった大村藩の歴代藩主墓域でも見た光景で、「私たち熱心な仏教徒ですから!」というアピールを示している可能性があります。キリシタンじゃないかと疑われないよう、わざと巨大な墓石を建てて戒名刻んであるんですね。

少なくともメンシアの場合はそうでしょう。日本で最初のキリシタン大名の娘で、堅固な信仰の持ち主でしたから。死んでから仏教徒アピールさせられるなんて、メンシアは「マジ勘弁」と思っているかもしれませんが、墓石は残った人が建てるものですからしょうがないと言えばしょうがないですね。



メンシア松東院墓

松浦家墓所

松浦家墓所

松浦家墓所

蝶が!


帰ろうとしていると、目の前をひらひらとよぎっていく影が。よく見たら黒い蝶でした。

大きくて気品がある蝶です。種類とかは分からないけど、これは・・・メンシア!(たぶん)

メンシアが歓迎してくれているのだと勝手に解釈して、小さな声で賛美歌を歌ってあげました。ちょっとでも慰めになり喜んでくれたらいいなと思い。その想いを受け継いで、私たちが頑張っていきますからねと。黒い蝶は私たちが立ち去るまでずっと飛んでいてくれました (*'▽')



焼罪カミロ神父殉教地


「もう少し時間あるんですけど・・・」と言ってくれたので、欲望のままに焼罪(やいざ)殉教地をリクエスト。

ここは車でないと来られないので、後で自分だけで来ることができないんですよね。

だから時間ぎりぎりだけどリクエストしてしまいました。殉教地に行くのが欲望だなんていう人滅多にいないでしょうけど、まあ、いい欲なので許してつかーさい<(_ _)>


福者カミロ・コンスタンツォ神父


後に205福者(聖人の一つ手前の位)に列せられたカミロ・コンスタンツォ神父はイエズス会の宣教師で、1605年に来日しました。江戸幕府の禁教令でマカオへ追放されましたが、日本宣教の志を捨てず1621年に日本に潜入。佐賀の不動山や唐津で活動し、翌年には平戸や生月で布教を行い、その後五島に渡ったところ宇久島(うくじま)で五島藩の役人に捕らえられました。

そして1622年9月15日、平戸瀬戸に面した田平側の岬、今は焼罪と呼ばれるこの地で火焙りの刑に処されました。カミロ神父は柱の上に縛られながらも日本語、ポルトガル語、フランドル語で説教し、火がつけられても説教を止めず、最後は聖歌を歌いながら息絶えたといいます。

カミロ神父に宿を貸したヨハネ坂本左衛門と、船を用意したダミヤン出口は、中江ノ島で処刑されました。この島は生月のカクレキリシタンの聖地とされています。またこの島そのものが信仰の対象となり、聖水を取る「お水取り」の行事が行われています。カクレキリシタンが生まれた背景には、忘れたくない天との記憶があったのではないでしょうか――。

カミロ神父に限らずこの時代の宣教師たちは、自分に与えられた最後の時間と競いながら救いのために働いたように思えます。その情熱と愛が天から来ていることを感じた信徒たちは、それをどうしても次の世代にも伝えたいと考えたのでしょう。それがカクレキリシタンの様々な儀式が生まれた理由だと思います。

変質したり土俗化したりしたんだとしても、元の想いを取り戻すなら、命の息をもう一度吹き入れることができるかもしれませんね。それは私たちの時代に新しい形ですべきことかもしれませんが。



焼罪殉教地

カミロ神父

解説碑

公園になっている

田平天主堂


「宿が佐世保なら帰りにちょうど通りますよ。乗って行ってはどうです?」と言ってもらい、結局お言葉に甘えることに。

一日共にして別れが惜しくなっていたので、図々しいけど一緒に帰りたいなと思ってしまいまして。

では・・・と、図々しいついでにもう一か所、私の抑えられない欲望を告白しました。「田平の天主堂にも寄れたらいいなぁ(*´ω`*)」と。「明るいうちに着けるなら行きましょう」とMさんが言ってくれたのでカーナビにセット。20分ほどで到着しました。

拝観時間を過ぎていたので内部は見ることができませんでした(ほんとは事前連絡もしないといけないらしい)が、夕方の鐘の音を聞くことができました。鐘の鳴り響く中、思い思いに祈りました。これも恵みのひと時。


田平天主堂と隠れキリシタン


田平(たびら)天主堂は、1886年以降に黒島と出津から移住して来た信徒が作り上げた教会です。黒島や出津は元々隠れキリシタンが多く住んでいた村で、明治になってカトリックに復帰し、フランス人神父が常駐して教会が建てられました。

その後、人口が増え、神父が田平に土地を購入して数家族が移り、次第に移住者が増えていきました。そこで皆が集う教会堂を建てようということになり、日本各地や海外からの献金、信者の献身的な労働奉仕により、1918年に無事献堂式を迎えました。

設計施工にあたったのは鉄川与助で、多彩なレンガ積み手法、ススを塗った黒レンガによる装飾など、与助のレンガ造教会の最高峰ともいわれているそうです。熊本のカトリック手取教会では与助がクリスチャンにならなかったことを嘆きましたが、ここに来てみて、教会は根本的には神様がお建てになるものなんだから・・・と思うようになりました。そうしたら何かストンと腑に落ちて、すっきりしました。



田平天主堂について

田平天主堂

横から

ルルド

カトリック三浦町教会


車中でたくさん話していたら、あっという間に(私の体感では)佐世保着。もう暗くなっていたけど、カトリック三浦町教会の庭でお祈りをして一日を締めくくりました。

最後は今日初めて会った人たちと同じ車だったのですが、不思議だったのは、十分に気持ちが通じ合えたと感じたこと。暗い車内でほとんど顔もよく見えなくて、年もバラバラだったんだけど。

神様の世界はいいなと思いました。互いに通じるから共有できることが深く、アツいですよね。



カトリック三浦町教会

ルルド

もらったミカン

まじか・・・


夕食は手軽に済まそうとホテルのレストランに入ってみたのですが、これが結構な番狂わせ。注文取りに来るのにまず時間がかかり、実際に食べ物が出てくるのにはゆうに30分以上かかりました。

ちょっと混んでるようだったので、すぐに出てきそうなメニューを頼んだんですけどね。偏頭痛にも襲われ疲労はピークに。それでも・・・、今日楽しかったからいいやと思えるから感謝ですね。そんな風に毎日暮らしていかなきゃな ( ̄▽ ̄)b





天と近いときに


佐世保までの車内で話していたことを反芻しながら、一つの仮説を立ててみました。人は天と近いときに人とも近いのではないか、と。一人一人が神様と通じ近くなると、神様が互いの心の架け橋のようになってくださって、通じるようになるのではないかと思って。

その通じ方の利点は、特定の誰かとだけ仲良くなり話が通じるのではなく、その思いを共有する者たち皆が同じく同時に通じることができることです。年齢や性別などが違っても、たとえ初対面だとしても。今日私はそれを体験したのです。

人は孤独だというけれど、それを完全に突破することができる能力も、生まれながらに備えられているのかもしれません。気付きさえすれば使うことができる疎通力。

神様を経由するから遠回りに思えるけれど、実際には誤解のない、限定されない一番の近道。この疎通の道を絶やさないでいこうと思います。

人が天と近いときに人とも近くなれるなら、ますます天を求めていかなければなりませんね。人だけを追って天を見失ったら結局空手(からて)で帰ることになるのだと。そんなことを考えながら、今日も感謝でおやすみなさい☆彡






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