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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 バテレンが愛した海 vol.3 



今日は憧れの名護屋城へ。名前だけは前々から知ってはいたものの、あまりに遠くて、かつ交通も不便で行く機会がありませんでした。今日は一人で若干不安ですが、行かずにいられないのでレッツゴー(≧▽≦)


一路、博多へ


熊本からなら名護屋は近いだろうなーと思っていたのですが、ワタクシ九州の交通事情を分かってませんでした。

九州はやはり博多がハブみたいで、自家用車でない場合は、博多に出てから各地に向かうのが時間もお金も節約できます。という訳で、一路、博多へ。バスで向かいます☆


西鉄バスステーション


7時40分発のひのくに号で西鉄天神バスターミナルへ、そこで乗り換えて10時発のからつ号で唐津大手口バスセンターへ。

乗換時間がチケット買う時間も含めて15分程度だったので焦りました。でもすごく発達したバスターミナルで、行き先表示を見ているだけでもウキウキするような。どこかに行きたくなります♪


唐津へ


唐津行のバスに無事乗れてほっとしていると、海が見え始めました。ああ、今回初の海。九州の海、広々としてきれいです。

博多はザビエルも来たし、右近もフロイスも滞在したし、もちろん黒田官兵衛は暮らしていたしで、それを思うと感無量です。

同じ海を見てるんですねぇー。


唐津城


唐津では30分ほど乗換時間があるので、ちょっと唐津城を見てみようと向かいました。

ちょっと見てみようと思っただけでしたが、バスセンターから結構離れていて大変でした。

旅行カバンを肩に掛け、根性だけを頼りにえっちらおっちら。一日の体力の半分くらいを使いました ( ;∀;)ダメデショ


唐津城主 寺沢広高


唐津城は名護屋城が破却されたとき、その遺材を使って建てられたといわれています。なのでそれで見たかったのが一点。もう一点は背教者 寺沢広高が築いた城だからです。寺沢広高はキリシタンになったことがあり、迫害したことがあり・・・非常にキリシタンと縁が深い人物です。

寺沢広高は秀吉と同じ尾張の出身で、秀吉の存命中は彼に仕えました。秀吉や各地の大名が名護屋にあったときは、寺沢の陣屋は秀吉にとって憩いの場となっていました。しかし秀吉が没すると、情勢の変化を読み取った寺沢は家康の味方となり、関ケ原でも大坂の陣でも徳川方につきました。

寺沢は唐津の大名であると同時に、1592~1602年まで長崎奉行でした。それで伴天連追放令を受け1592年に長崎の教会を破壊したのですが、それにも関わらず、なんと寺沢は1595年に洗礼を受けてキリシタンになったのです。

フロイスは「(寺沢広高は)信者と神父との付き合いによって、頭の良い人ですので我等の聖なる信仰のことを尋ねたり聞いたりして、だんだん好きになり、信者になろうと決心しました」と書いていますが、動機はよく分かりません。



唐津城への橋


舟入場

唐津城

唐津城を眺めながら


キリシタンになった時寺沢は27歳くらいで、日本副管区長ペドロ・ゴメス神父から受洗し、洗礼名アゴスティーニョを受けました。しかしその後すぐの1597年、長崎の西坂では二十六聖人の殉教がありました。

折しも寺沢は朝鮮に出兵していたので、弟の半三郎に処刑の手筈を整えさせ、自分は直接関わらなかったのですが、責任者ではあったのです。

このとき彼はどんな気持ちだったのか不明ですが、1601年には棄教したことが明白になる資料が残っているので、キリシタンだった期間はわずかです。寺沢は徳川体制の下で1602年に長崎奉行をやめさせられ、翌年天草四万石を与えられました。すると彼は天草の教会を取り壊し、その一方で過酷な税の取り立てを行いました。そして1614年に禁教令が出されると、アダム荒川を富岡で処刑するよう命じました。

寺沢広高は1632年、唐津城で死去し、息子の堅高が跡を継ぎましたが、悪政はひどくなるばかりで、それが1637年の天草・島原の乱の引き金となりました。

乱は家光が派遣した松平信綱の采配で鎮圧されましたが、堅高は天草の領地を没収され、江戸で自害。嗣子がなかったため寺沢家は断絶し、唐津藩は改易となりました。これは大名に対しては異例の厳しい処置で、歴史の語り草になっています。

復元された唐津城の真っ白な姿は、寺沢広高が追い求めていた権力そのもののように見えます。



大名小路


確か唐津でも信徒が迫害されていたなと思いながらバスセンターへ。城下町では朝鮮から連れて来られた陶工が焼き物を作っていたはず。

この道を大名小路と呼ぶようですが、市役所までずっと城内だったみたいですね。お堀の跡が残っています。


大名小路

周辺地図

復元された櫓


 いざ名護屋城へ!


海が


バスセンターでコインロッカーに荷物を入れ、昭和バス「値賀・名護屋線」に乗って名護屋へ。

バスは路線バスで、すぐに山道に入り、眼下に海が見えてきます。この辺りからはフリーストップという方式になり、どこでも降りられて、どこからでも乗れます。

なんと便利な。その代わり滅多にバス来ませんが (。-∀-)


玄海エネルギーパーク


途中、玄海エネルギーパークを経由しました。エネルギーパークといいうけど、要するに原発ですね。

聞こえがいいようにこう名付けているんでしょう。聞こえをよくしたところで中身は変わらないのに・・・。

無知な私はここに原発があることを知りませんでした。ニュースで「玄海原発」の名は聞いたことがあったけど。

いろんな所に行かせてもらうお陰で、いろんなものを見せてもらえます。たぶん安全のためにお祈りしなさいということだろうなと思いながら、車窓から見つめておりました。


玄海エネルギーパーク

玄海エネルギーパーク

車窓から


バスは起伏のある大地を疾走し、複雑な海岸線を持つ湾が見えてきました。

玄界灘が名護屋と呼子の間の入江に入り込んだ辺りでしょうね。

眩しくて、留まって眺めていたいくらいきれいです。

この海を渡っていった人、渡って来た人・・・、あれこれ思えば思うほど切なくなりますが。



入口に到着


そうこうしているうちに「名護屋城博物館入口」停留所に到着。5分ほど道を戻ると名護屋城と博物館の入場口が。

まずは博物館で勉強してからと思っていたら、今日は休館日。そっか月曜だもんね。

そんなことも気付かずにスケジュール立ててたんかいと、自分にツッコミを入れながら名護屋城へ。

うーん、時間が余りそうだな。まあ、お城をゆっくり見ればいいか。。(-ω-;)


周辺案内図

博物館とお城

真田丸にあやかって

名護屋城博物館

肥前 名護屋城


さて名護屋城は豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれた巨大な城。

大坂城に次ぐ規模を誇り、全国から160家の戦国大名が集結し、周囲に130以上の陣屋が設けられていました。

縄張りをしたと伝えられるのは黒田官兵衛ですから、私としてはそれだけでも来る価値十分なのですが、当時この周囲にいたキリシタン大名、武将たちを思うと尚更なのです。


城下町模型

当時の屏風絵

城の遺構

ゴルフ場みたい・・・

大手口


チケット売り場の辺りはゴルフ場みたいな雰囲気なのですが、大手口からは一転。

跡とはいえ、堂々たる城郭の威容ときたら、他を圧倒する迫力を感じます。

博物館がお休みの平日にも関わらず、意外に人は来てますね。親子連れに夫婦、それに男性一人というパターンが多いです。「城ガール」なる女子が増えていると聞きますが、ここまでは及んでいないのか、女子一人で来ているのは、見渡す限り私だけですね。



大手口

解説坂

大手口の石垣

大手口解説板

緩やかな石段


大手口からは緩やかな石段が、海側に向かって続いています。穏やかに晴れわった風景にのんびりした気持ちに誘われます。

芝生も張られているし、どこかで寝転がって風でも感じていたいような。そんなふうに思えるのは、ここが戦場になったことはないと知っているからでしょうね。

痛ましい死や残酷な傷つけ合いがあったなら、また違ったことを考えたでしょうから。でも精神的な苦闘や権謀術数はきっと凄まじかっただろうと思います。ここで小西行長はきっとキリキリと胃の痛む思いをし、諸大名も終わらぬ無謀な戦争を思っては憂鬱な時間を味わったことでしょう。



石垣の遺構

城内

登城坂

道案内

展望


登城坂を登って東出丸の方に行くと、展望が開けて城下が一望できました。

名護屋城の周りにあった大名の陣跡が、有田焼の美しい陶磁器板で示されています。

小西行長や黒田長政、大友義統など、キリシタンの名前を発見して、現在地を知ろうと見比べてみましたが・・・分かるかーい!って感じでした (~_~;)トホホ



美しい有田焼

城下

小西行長!

わかるかーい!

巨大迷路のような


石で作られた巨大迷路のような城内を、本丸に向かって歩いて行くと、これでもかと続く石垣ラッシュ。

この城を8か月で築くって大変なことだったでしょうね。石材を運び、労働力を確保し、彼らを住まわせ食べさせることもして。

崩れた打込み接ぎの石垣を見ながら、太閤の「唐入り」という巨大な妄想に翻弄された人々を思いました。

巨大迷路は、誇大妄想の産物に外ありません。ここでは戦死者は出ていないと書きましたが、朝鮮半島では数多の死者が。また名護屋から渡って行った30万もの兵のうち異国の土になった者がどのくらいいたか。大体30万人の兵士を動員して外征、それも渡海して戦争を仕掛けるなんて、世界史上でも類をみないスケール、いえ、無謀さです。

「唐入り」というアイデア自体は信長が最初に思い描いたものだったようですが、秀吉は晩年憑りつかれたかのようにこの作戦に固執しました。名護屋に来た者のほとんど全員が海を渡り、朝鮮に行かなかったのは秀吉や家康などごく僅かな者しかいなかったことを考えると、より一層エゴが感じられます。


三の丸跡

三の丸跡

三の丸跡

三の丸跡

本丸跡


玄界灘を睨む本丸跡には東郷平八郎が揮毫した碑が建てられています。

あまり知られていませんが、東郷さんはクリスチャンでした。

信仰をどのくらい持っていたかは分かりませんが、少なくとも受洗はしています。

何を思って揮毫したんでしょうね。戦(いくさ)と戦に行く人のことしか考えなかったでしょうか。東郷さんの時代と「唐入り」に沸いた時代とは共通点が多いようにも思えますが。


「水の人間」と「土の人間」


さっきから何度も出てきている「唐入り」とは、秀吉が野望の果てに朝鮮に仕掛けた侵略戦争のことで、1592(文禄元)年に始まり、一旦休戦したのち1597(慶長2)年に再開されたことから文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)と呼ばれます。この戦いは秀吉の死によって撤退となり終結するのですが、戦いの最前線における陰の主役と言っても過言ではないのが小西行長と加藤清正でした。

日本軍の一番隊の先鋒を小西行長が務め、加藤清正は二番隊でした。これに先立つこと4年前に秀吉によって肥後は二分され、北肥後は加藤に南肥後は小西に与えられていました。それだけでも目の上のたんこぶ的な存在なのに、信仰も一方は日蓮宗で他方はキリシタン。出自も小西は商家に生まれ補給部隊を主にやって来たのに対し、加藤はバリバリの武闘派。

作家の遠藤周作は「鉄の首枷」という著書の中で、この二人は「水の人間」と「土の人間」で、互いに相手を生涯理解できなかったのだろうと評しています。環濠都市 堺に生まれ商人の柔軟な感覚を持っていた「水の人間」小西行長は、臨機応変に目的とするところを成そうとし、尾張中村に生まれ秀吉子飼いの武将として育った加藤清正はそのやり方を侮蔑した――。

朝鮮における二人の功名争いや心理的暗闘を別にしても、加藤は小西を異常なほど憎み、小西の死後もその憎悪を募らせて、それをキリシタン信徒に向けています。キリシタン史においても文禄・慶長の役は看過できないものがあると私は考えています。



解説板

本丸御殿

本丸御殿の絵

ただただ広い

名護屋城址碑

本丸御殿遺構

本丸御殿遺構

東郷平八郎が揮毫

玄界灘


本丸御殿があった本丸の広さは東西130m、南北125mで、西北の隅に天守台が築かれていました。

足元にはわずかに御殿の遺構が見え隠れしていますが、それを除けば見晴らしのいいサッカーグラウンドみたいですね(ボール飛んで行ったら大変だけど)。

自然石の丸い碑には青木月斗の「太閤が 睨みし海の 霞かな」という俳句が刻まれています。


眺望

青木月斗句碑

解説

玄界灘

天守台跡


天守台跡には、本丸よりはもう少し多い遺構が。ここに屏風絵に描かれたような5重6階、地下1階(合わせて7階建)の天守があったんですね。

その遺材で建てられたのが唐津城。そういえば屏風絵とさっき見た唐津城はどことなく似てます。

専門的なことは分からないけど、下を睥睨して優越感を感じようという、上から目線的な感じが。


天守台の発掘

?風絵の名護屋城

礎石

島々

天守台跡


天守台跡から見える島々は、右から加唐島(かからしま)、松島、馬渡島(まだらしま)だと思うんですが、解説板には馬渡島が載ってないですね((+_+))

松島は全島民がキリシタンの末裔のカトリック教徒で、波止場には可愛らしい天主堂があるのだとか。馬渡島にもロマネスク風の天主堂があって、こちらはペルー神父が中心になって建て、プチジャン司教が祝別したそうです。どちらも行ってみたいですね。

馬渡島では1867年頃に4人の信者が摘発され、唐津の牢に入れられたという記録があります。今も島民の約半数がカトリック教徒だそうで、小さな島々にも隠れた歴史が刻まれているのを感じます。

天気が良ければ三つの島の奥に壱岐が見えるというので、これらの島は壱岐水道のターミナルの役割をしていたのかもしれませんね。ならばこの航路を使ってきっと宣教師や潜伏キリシタンも行き来したのでしょう。

玄界灘の青い海に「唐入り」だけでなく、キリシタンの姿も重なって見えてきました☆彡



解説板

蒲生氏郷も!

玄界灘

遺構

遊撃丸


天守台跡から左下に見える遊撃丸は、講和使節として来日した沈惟敬(しん・いけい。明の使者)が宿所とした場所。

広さは十分ですが、本丸や天守から見下ろす所にあったことが分かります。お前の動きはよく見えてるぞと威圧するためでしょうか。

しかし実際にはこの交渉上手な沈惟敬に足元を見られ、和平交渉が難航したために日本は甚大な被害を被りました。また沈惟敬が交渉の相手を小西行長に絞ったことが、小西と加藤清正との溝をより深めたことは間違いありません。


秀吉の動機は?


ではそもそも秀吉はなぜ大陸に侵攻しようとしたのか?征服欲なのか貿易の利を求めてのことなのか、諸将に土地を分け与えるためなのか、それとも逆に侵略戦争で大名たちを消耗させようとしたのか――?
様々な説が出されており、どれも説得力があるようですが、イマイチ得心がいきません。

それはなぜかというと、秀吉の海外認識があまりに甘く、計画が幼稚だったからです。実現可能性の低いことを、国の最高権力者が強大な力を使ってやろうとしたから、どんな動機も得心がいかないのです。つまり最初から計画が破綻し、膨大な損失を生むことは見えていました。

賢い人ならそれを見抜けなかったはずがありません。しかし秀吉の命令は絶対で、覆すことは誰も出来ませんでした。そこで「唐入り」の命令を受けた諸将は動揺、狼狽し、画策することを考えます。その中で古くから朝鮮と交易を結んでいた対馬藩の宗義智と、「水の人間」小西行長は利害と考え方が一致しました。

それは朝鮮には致し方なく進撃するにしても、一定の地域を占領したらそれを秀吉に対する口実にして和平交渉することでした。のちに彼らが戦争の早期終結のために、ほとんど一方的な明からの要求を受け入れていることからもそれはうかがえます。しかしうまくいきませんでした。勝利したと思った秀吉は狂喜して、更に強気になったからです。



破却された櫓の跡


指導者が現場を見ないということがどんな弊害を生むか、歴史を見れば学べることが多いのに、それを自分に応用できないのが人の常。

戦線が伸び、兵站線が途切れた日本軍には食糧が届かず、日本とは比べものにならない寒さと、襲い来るゲリラ兵との戦いが将兵を疲弊させました。

戦闘でだけでなく病に倒れた者も多く、私が好きな牧村政治も朝鮮で病死して墓すらありません。栄養不足で皆案山子のように痩せ、鳥目になる者も。敵に攻められ敗走した時には、負傷者、病者は捨ておかれました。

三奉行たちが説得し続け、ようやく秀吉は日本軍の釜山への撤退を許しましたが、秀吉は一時的な処置として思い、春が来たらまた大攻勢をかけようと単純に考えていました。如何にしてこの泥沼のような戦争を終わらせればいいか・・・、考えに考えた小西行長は秀吉が死ぬまでの時間稼ぎとして、沈惟敬と計って偽書を作るまでしました。これを「欺瞞外交」と、のちの人は呼んでいます。



二の丸の礎石

解説板

櫓の解説板

櫓台跡

櫓台解説板


本丸大手解説板

本丸大手

馬場


二の丸を抜け馬場に来ました。ここはなかなか良い景色で気に入りました。何も無くなったお陰で清々としたような木々の梢を、爽やかな風が吹いています。

小西行長は「太閤のバカなんて早く(ピー)すれば良いのに!」(超訳)と願っていたけれど、秀吉が死ぬのは小西と沈惟敬の欺瞞外交がバレ、慶長の役(朝鮮出兵第2ラウンド)が行き詰ってから。

秀吉の死後も石田三成への友情を守って豊臣についた小西行長は京都六条川原の露と消え、沈惟敬も捕らえられて明に送還後、北京で公開処刑されました。どんなに賢く立ち回り、手練手管に長けるんだとしても、鼻から息の出入りする者に「絶対」はなく、「永遠」もないんだなと感じます。



石垣

馬場

解説板

馬場の櫓台

搦手口


海とは反対側の光景も見たくて、搦手口(からめてぐち)にも来てみました。やはり有田焼の陣屋図が置かれていて、見ればキリシタン大名の名が。

しかしアバウト過ぎて、こんなんで分かるかーい!です。

これは要するにイメージ図ですね。インテリアの一種だと考えればいいのかと思います。イメージだけでもロマンは感じられますし♬

ちなみに搦手口のある弾正丸は、秀吉の姻戚で五奉行の筆頭 浅野弾正長政が居住していた所です。のちに赤穂浪士で有名になる、あの浅野家ですね。キリシタン的観点で言うならば、浅野長政の息子 幸長の時から仕えるようになったフランシスコ遠山甚太郎というキリシタン武士を、孫の長晟の時に広島城下で処刑しています。ここでそんなことまで考えるのは考え過ぎですけども。



弾正丸

有田焼の陣屋図

その方向

搦手口の遺構

旗竿石


大手口に戻り旗竿石を見て、名護屋城の見学は終了。

旗竿石が近所の民家から寄付されていることからみると、城が破却され周りの陣屋からも人が去ると、皆資材を持って行ったのかも。あるいは賜ったかもしれませんが。

「あの人口20万を超えたバブルは一体何だったんろうねー」とか言いながら運んだんでしょうか。たった数年間の太閤バブル。城だってワンオーナーですよ。誰が得をしたんでしょう。あんなにたくさんの犠牲を払って。学ぶべきことが多すぎる。。



旗竿石

解説板

大手口石垣

名護屋城址


 名護屋城を見終えて


バスは夕方までナシ!


さてここで悲しいお知らせが。薄々感ずいてはおりましたが、帰りのバスがほとんどありません。

12時半に着いたのに、16時20分まで次のが来ないなんて・・・、地方では当然か?いやでも国の史跡で、佐賀県も力入れてるのにー。

ジタバタしてもしょうがないので、まず食べる所を探しましょ。あれこれチョイスがあるとは思えませんが (;^_^A


桃山天下市

海舟

とりあえずご飯


道の駅「桃山天下市」内にある「海舟」というお店でランチ。もう14時ですが。時間帯のせいか、人はまばら。過ごしやすいです。

値段の割に味は満足がいくもので、量産型のチェーン店とは違うなとちょっと感動。食事に良心を感じました。

一日の体力使い果たして、頭痛がしていたので休めて良かったです☆


小西行長陣跡


頭痛薬を飲んで少し痛みが治まってきたので、絶対に見たい所だけ行ってみようと外に出ました。

すると「小西行長陣跡」の文字が!

うそーほんとー!? え、でも周りにそれらしきものないけど?

ちょうどおばあさん2人が通りかかったので、「あのー、この道を行った所にあるってことでしょうか?」と訊いてみると、「そう書いてあるならそうじゃろうねー」と、やや投げやりな返事が。きっと急いでいるんだろうなと思いつつ、道を進んでみましたが・・・。


鎮守の森のような・・・


坂道はどんどん急になり、いつしか完全な山道に。人さらいにでも遭いそうな薄暗い道を駆け抜けて、日差しの下に出ると、うーん、違う村に来た?

しかーし!前方に目を凝らすと、先ほど見たような白い標柱が建っているではありませんかっ。こんな所に小西行長はいたのかと、汗をぬぐって近づいて行くと・・・。


長宗我部元親陣跡


長宗我部元親陣跡。がびん。長宗我部なんていらんし(ファンには悪いが)。

どうやら上の赤い矢印は大体の位置と方向を指し示しているみたいですね。それによると元親は、あの鎮守の森みたいな所に陣を張っていた模様。

えーっと、史跡として保護してます?遺構があったとしても、緑に埋もれてそうですけど。。


何か建ってる!


史跡をどう保存しているのか若干不安に思いながら、行く所まで行ってみようと道を進んで行くと、またもや前方に標柱が!

もうダマされませんよー。コニタン(小西行長)が名護屋城からこんなに離れた所にいたとは思えないもんねーと、自分をけん制しながら近づいて行くと・・・。


大谷吉継陣跡


あ、大谷吉継!
キリシタンじゃん!!

予想外のみっけものです。これは導かれてるな!(肝心のコニタンは見つかってないけど)

しかし緑に覆われてる率は相当高いですね。雑草濃度が高すぎて踏み込んでいく勇気も出ません;;


海に出た


そうこうするうちに、坂道は下りになり、気付いたら・・・海ぃ!

朝から海は見ているけれど、海面近くは初なのでうれしいです。

しばし疲れも暑さも忘れて佇ずみました。




漁船

曼珠沙華

黒田長政陣跡


が、いつまでものんびりしていられません。もう一つくらいは陣跡を見つけないと。

海岸線に沿って行くと、名護屋大橋。そのあっち側のたもと辺りに黒田長政の陣跡があったと、唯一の手がかりとしている地図(超アバウト)には書いてあります。

なるほど、あそこかーって、実感湧きませんから!(ここは一人でノリツッコミ)


名護屋大橋


疲れた。偏頭痛ドクドクしてるし。熱中症になって一人で死んだらどうしよう。

しかし休む所もないし、休む時間もないわで、急な坂を登って下りて、薄暗い林道をフラフラ歩いて、ようやく大通りに原状復帰。

どれくらい登ったかというと、さっきかなり上に見えた名護屋大橋が、今は渡れる程度まで。

心臓破れそうなくらい登りました。調子に乗って下りた自分が悪いんだけどね (;´Д`)ヘトー


名護屋大橋

名護屋大橋

古絵図

超アバウトな地図

寺沢広高陣跡


バス停のある桃山天下市に向かっていると、道の反対側に標柱が。

もも、もしかして…!?

ようく見ると「寺沢広高陣跡」でした。

なんだ寺沢か。秀吉が死んだ後、ソッコーで家康に擦り寄ったアイツねー。名護屋城までの距離の近いこと。可愛がられてたことが分かって腹立ちます。しかも今も何か料亭みたいなの建ってて、大谷吉継みたいに雑草に埋もれてないし(大谷さんの方は何とかしてあげた方がいいと思う。数年後には自然に戻るよ)。

周囲には「これも遺構かな?」みたいな石が結構あるのですが、明らかに私有地になっていて、ここでは史跡と民家とが渾然一体になっているようです。130も陣があったんですもんね。保護しようにもどうにも、ねぇ。

戻りながら見ると小西行長陣跡の標柱の目印も、道ではなくあっちの方角、つまり民家の敷地を指しているようにも見受けられます。つまり・・・、この辺りってことね♪で良しとしましょう。実際陣屋はそれなりの広さがあったので、ピンポイントなものではなく、この辺り一帯だったでしょうから。



寺沢広高陣跡

遺構?

遺構?

小西行長陣跡

前田利家陣跡の森


では陣跡めぐりのラストは前田利家に飾ってもらいましょう!行くときは気付きませんでしたが、桃山天下市の駐車場隣にあったようで。

うむ?散策路入口みたいなゲートがあって、そこに「前田利家陣跡の森」と書いてあります。

史跡として指定されているんだから保護されてもいるんでしょうけど、緑に埋もれてる感がかなり濃厚に漂ってきます。。

やぶ蚊の群れに襲われて


中に入って行くと、正に「森」。虫除けスプレーをしてからゲートをくぐったのですが、すぐにやぶ蚊の群れ襲われて、肌はおろか目にもぶつかってくる始末。

自分が完全にエサ認定されているのを感じました。しばらく進んで行ったのですが、山道が木や雑草で所々遮られて、迷子になりそうだったので戻って来ました。無念。

ここには高山右近もいたはずなんだけど――。

高山右近と蒲生氏郷٩(๑❛ᴗ❛๑)۶


高山右近は利休七哲に数えられる茶人の顔も持っており、同じく利休七哲のスタッフ・メンバーである蒲生氏郷、牧村政治、瀬田掃部をキリスト教に伝道しました。それだけを聞くと、出会う人をどんどんキリシタンにしたかのように見えますが、実際は一人一人時間をかけて対話しながら苦労して導きました。

特に蒲生氏郷は、のちには生涯にわたる友情を分かち合う信仰の盟友になったのですが、当初はキリスト教に関心がなく、右近がその話をしようとすると避けるほどでした。それで西洋料理を食べさせてそこから興味を引くようにし、教理の話をしていったのだとか。なかなか知恵がありますね☆

そんな努力とお祈りが実を結び、1585年ついに蒲生氏郷は洗礼を受けてキリシタンになりました。洗礼名はレオ。右近は代父(だいふ。洗礼式に立会う証人)を務めました。また一人キリシタン大名が誕生して、教会は安泰に・・・なれば良かったのですが、2年後に伴天連追放令が出され、右近は大名を辞めました。

当時大名を辞めるなんていうことは大変なことで、あり得ない選択でしたが、右近は信仰を取ったのです。しかし宣教師が国外追放され、右近の支えもなくなった氏郷は、信仰を持ってから日が浅かったこともあり、徐々に教会から離れていきました。そんな折「唐入り」の話が持ち上がったのです。


名護屋での転機


名護屋城が築かれ、その周りに諸大名が集結して来たとき、そこに右近の姿がありました。一時は隠れ住みましたが、前田利家に仕えることとなり、利家と共に名護屋に赴いたのです。もちろん東北の押しも押されぬ大大名となっていた氏郷も名護屋に来ました。

秀吉は右近の才能を惜しいと思っていたので、城内にしつらえた茶席に呼び、一緒に茶を喫することで和解を演出しました。そこで右近も自由のきく身となり、親友 氏郷との交流が再開しました。右近は大胆にも氏郷を長崎に行こうと誘い、氏郷もそれを快諾。一緒に行ってヴァリニャーノ神父に2回も会って信仰を取り戻しました。

以前よりも熱心なキリシタンに生まれ変わった氏郷は、家臣一同を集めて信仰を語り、領内で教えを広める意志があることを表明するくらいでしたが、そこに不幸が襲ってきました。名護屋に滞在中病気になって、吐血。朝鮮への渡航も諦めて会津に帰ることとなったのです。

氏郷は一度回復したものの再発し、1695年に40歳で他界しました。右近は今わの際まで立ち会って、キリシタンとして安らかに逝けるように計らいました。茶仲間として始まった縁が永遠に通じる友愛となったんですね。



前田利家陣跡の森

前田利家陣跡の森

前田利家陣跡の森

前田利家陣跡の森

蝶が


何だかんだで時が経ち、バスの時刻にちょうど間に合うくらいにバス停へ。ドタバタでしたがタイムスケジュールはこれで良かったのかも♪

ふと見ると、目の前に蝶が。ひらりひらりと私の周りを舞う様子は、まるで見送りに来てくれたかのよう。

右近かな?氏郷かな?それとも…秀吉!?(それはないな)

現地に行って故人を偲んでいると、不思議とどこからともなく蝶が現れて周りを飛んでくれるのです。それで誰かが私に「よく来てくれたね。ありがと」と言ってくれているように思っています。こんなこと真顔で話したら病院連れて行かれるでしょうけども ( ̄▽ ̄)ホホホ




 唐津へ (*^^*)ノ


路線バス


それでは唐津に戻りましょう。地元民と一緒に乗るバスは観光客用のと違い、生活感があって良いです。

今日から2日、佐世保に泊まるので、そこまで辿り着くのが本日の最終ミッション。乗り換えさえできれば楽勝(のはず)です。

ああ、この揺れがいい感じです。体は限界なので休みながら行こっと。


肥後堀


40分ほどで唐津のバスセンターに着き、コインロッカーから荷物をピックアップ。JR駅までは少々離れていてバスで移動もできるんですが、石垣が気になったので歩くことに。

唐津市役所は唐津城三の丸跡にあり、堀で囲まれています。この堀の外側が商人の住む外曲輪だったよう。いわゆる総構え(そうがまえ)ってやつですね。ふむふむ。


肥後堀

解説板

肥後堀

石垣

唐津市役所


唐津市役所前からJR駅に向う一本道があり、歩道に古地図と連動した解説坂が設置されています。

呉服町、中町、紺屋町・・・。なるほどね、主に町人が暮らして商いをしていたんだなと、往時を思って歩いていましたら、京町の解説で気になる記述を発見。

なになに、「京町東端には札の辻橋が架かり、橋の西側には木戸、高札場、町奉行所がありました」とな!

高札場ってキリシタン禁制を張り出した所だし、町奉行所ってキリシタンを捕まえたり牢に入れた所じゃない!? 名護屋城で馬渡島の信徒が入れられた唐津の牢ってどこにあったんだろうと、ぼんやり考えていたけど、ここかもしれません。行ってみなきゃ。



呉服町解説

呉服町

中町解説

中町

京町


道を曲がってみると、どことなく昔の城下町の風情。

この道が折れている辺りなんて、すごくそれっぽいし(?)。

アーケード街になっていますね。

割と活気もあるようです☆



京町解説板

紺屋町

紺屋町解説板

京町入口

京町商店街


キリシタン史ではあまりメジャーどころに名前を連ねていない佐賀県ですが、地図を見れば分かる通り、長崎県の隣にあって海に面しています。

だから16世紀末、キリシタンの多い大村領に隣接したこの地域でも布教が行われたことは自然なことでした。

嬉野の不動山にはイエズス会の集会所、須古には教会がありました。また鹿島や佐賀にはドミニコ会が教会を建て、肥前の布教本部としていました。

また唐津藩主で長崎奉行でもあった寺沢広高がキリシタン禁制下で入信し、すぐに棄教したことは前に述べましたが、唐津や伊万里付近にも信徒がいたことが分かっています。禁教の世になって彼らは転ぶか移住するかしたものとみられますが、その際キリシタンの取締りにあたったのは唐津奉行所の役人たちだったと考えられます。



この辺り?


さっきの解説板によると、京町商店街の切れる辺り、この交差点に高札場があったみたいですね。当時は橋が架けられていたそうですが。

川は暗渠になったのか、川も橋も現存していませんが、珠取獅子なる石造物があるところが、昔から人が行き交っていた様子をほんの少し伝えてくれています。

奉行所は橋の西側にあったということなので、アーケード側になりますかね。そんな雰囲気は無論ありませんが、城からの距離と位置から考えると、この立地はあり得るなと思います。望外の発見に感謝!



京町商店街

高札場

珠取獅子

高札場

中町カーサ


京町の隣、中町にちょっと素敵な建物が見えたので寄って行ってみました。「中町Casa」というそうな。

築80年の「旧村上歯科」を改修したもので、今はカフェや貸しスペースが入っています。

国登録有形文化財のプレートが付いていますね。レトロで品がいいです♪



中町カーサ

国登録有形文化財

旧村上歯科

京町


 佐世保に向おう?


ローカル色が半端ない


唐津から佐世保への交通手段は電車。2時間半で1500円ほどしか料金はかかりませんが、電車を4つも乗り継がなければなりません。

普段なら何ということもないのですが、めちゃめちゃ疲れているので気が遠くなります (+o+)

伊万里行きの電車に乗ろうとして、階段で転びました。思ったより足が上がってなかったようで。気をつけなきゃ、去年転んで前歯折ったんですから。。


駅の付帯施設

車窓

JR筑肥線「大川野」

松浦鉄道

料金表のある電車


JRだというのに唐津から西ではスイカなどの交通系ICカードが使えないことを知り、衝撃を受けましたが、この際愉しむことに。

駅の付帯施設が自転車置き場と井戸という、ローカル色半端ない路線をガタゴト揺られていきます。

伊万里駅と有田駅では20~30分ずつ待ち時間が。松浦鉄道は路線バスのような料金表付き車両。綿のように疲れていますが、一人旅だと気が抜けません。考える時間だけがやたらたくさんあるこの状況・・・。


有田焼400周年


有田駅で電車を待っていると、今年は有田焼400周年だと書かれていました。そっか、あの「唐入り」で朝鮮半島から連れて来られた「被擄人」(ひりょにん)が日本に磁器をもたらしたんだから、ちょうど400年になる計算ですね。

佐賀県では特に朝鮮陶工の影響が大きく、李参平(り・さんぺい)が創始したとされる有田焼(伊万里焼)や茶陶としても好まれる唐津焼などの陶磁器産業が発展しました。現代でも佐賀といえば「有田焼&柿右衛門」ですもんね。

名護屋から「唐入り」が始まったことが、こんなローカル駅の村にまで影響を及ぼして、日本を代表する陶磁器の名として知られているんですから、歴史ほど波及力があるものはないですね。有田焼は美しいけれど、どんな思いで始められたんでしょう――。



有田駅

400周年

有田

乗換案内

佐世保着


はー、やっと着きました、佐世保。まだ8時過ぎだけど、朝から飛ばしてたんで一歩進むのも億劫です。

宿はライトアップされたカトリック三浦町教会の手前。教会狙いで決めました。

駅前のスーパーで念願のカツカレーをゲットして、「主は私の好きなものを何でもご存知ー♪」と思いながらチェックイン。

明日は平戸だ。はよ寝よ (-ω-)/





いつかは終わる


最近では平均寿命も伸びて、あまり死を差し迫ったこととして感じることが少なくなりました。まるで何百年も人生が続くかのような感覚で生きるから、むやみに時間を使い、持っているお金や権力を振りかざすわけで。

だけれどいつか終わりがきます。それを切実に感じさせてくれるのが、歴史上の人物を振り返ってみるとき。皆終わりがきて、ある人は惜しまれ、ある人は悪口を言われ、ある人は死後も長く感謝されたりするのです。

自分が死ぬとき、あるいは死なないんだとしても何かの仕事や権力を離れるとき、どんな反応をされるのでしょうか。残念がられるのならいいけれど、いなくなって良かったなと喜ばれるのはちょっと・・・。

常に終わりに向かって進んでいるということを忘れないで生きていきたいものです。その視点で自分を省みて、できることなら人に何か有益になることをしながら。

死後まで考える長期ビジョン。そんな視点を持てたなら、きっと一日を生きることだって変わるのだろうなと思いながら、名護屋への旅を終えました (o^―^o)






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