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旅行記 > バテレンが愛した海 vol.2
今日午前中は人に会って大事な用を終え、午後になって散策をスタート。昨日行けなかった市内北部へと参ります。バスなど公共交通機関をうまく乗りこなせるといいんだけどな。今日も主に委ねて、いざ
(^◇^)ノ
国道3号線
バスに乗って下り立ったのは国道3号線沿いの停留所。ここから南下しながらキリスト教関係の所に向かおうと思うのですが、ふと「ここ宣教師たちが通ったかも」という気が。
頭の中で道路マップを広げて、現代の道と昔の街道を比べ、そこに宣教師が歩んだ路程を重ね合わせます。
するとどうでしょう、豊後府内(今の大分市)から熊本への豊後街道(肥後街道とも)はここを通っていませんが、熊本から高瀬(今の玉名市)へと向かう時、宣教師たちは薩摩街道(または豊前街道。現在の国道3号線)を使ったはず。つまりここを通っていた訳です。
昨日見た里程元標の所にもそういえば街道のことが書かれていたなと思い出しました。あれがヒントだったんですね。うむ、何気なく通っている道でも侮れませんな。目を開けていかなければ。
川村教授とキリシタンベルト
上智大学の川村信三教授が唱えた「キリシタンベルト」という考え方は、16世紀の九州が複雑な群雄割拠の状態だったことを考えると、大いに頷けるものです。この頃肥後(熊本)は島津、龍造寺、大友の三つ巴の様相を呈し、九州の草刈り場と称されていました。
そんな中16世紀初頭に高瀬武基が没し、大友家が勢力を拡大。1570年に天草の国衆たちが大友になびくと、大友家の支配地域は豊後から九州中心部を抜け、肥後まで帯状に広がるようになりました。この地帯を通って行き来したのが、豊後の大名大友宗麟の庇護を受けたキリスト教宣教師たちでした。
そこで川村教授は、宣教師が歩んだこの帯状の地域を「キリシタンベルト」と命名したのです。具体的には豊後から肥後に至る豊後街道、肥後から南に延びる薩摩街道、北に延びる豊前街道です。
特に豊前街道の途中で分岐して高瀬(現在の玉名市)に行く道(三池往還とも呼ぶ)は、高瀬が航路で長崎と結ばれていたので頻繁に用いられました。一方、豊後からは瀬戸内海を渡って京都まで行くことができたので、非常に利用価値が高かったのです。
「昔の人がそんなにアクティブだったかしら?」と思ったそこのあなた!この時代のヨーロッパ人なめちゃいけません。彼らは難破率30~40%の航海をして地球の反対側から来ているのです。
フロイスの「日本史」をざっと見ただけでも、フロイス、トルレス、アルメイダ、シルヴァ、ゴンサルヴェスがこれらの道を何度も行き来していて、「島原から豊後まで4日の行程」と書かれています。
1573年にイエズス会最高責任者カブラルが堺と都に向かったのも、1580年に巡察使ヴァリニャーノが都と畿内に行くために通ったのもこのルート。正に「キリシタンベルト」です☆
九州ルーテル学院
はっ、キリシタンベルトで興奮し過ぎて旅行記に入っていませんでした。3号線を南下して、まず訪れたのは九州ルーテル学院。中までは入って行きませんが
(^^;
昨日九州学院のところで出てきた九州女学院が、昭和になって中学、高校、幼稚園、短大を設置して、平成になって共学とし、名前も九州ルーテル学院と変えたのです。
学校への道の途中にあるのが日本福音ルーテル室園教会で、九州女学院の有志から始まった教会だそうです。現在は女性の牧師さんが牧会してらっしゃるようですね。
九州ルーテル学院 |
九州ルーテル学院 |
ルーテル室園教会 |
ルーテル室園教会 |
済々黌高等学校
続いて済々黌高等学校へ。ルーテル学院から熊本大学までは意味ある所を歩いて回れるので便利です。
済々黌は敬愛する姜尚中さんの出身校。それで来てみた訳ですが、有名進学校ですね。
最近は大学に進学する人が多いから進学校という言い方もあまりしなくなりましたが。この環境なら熊大、普通に目指そうとするでしょうね♪
熊本大学YMCA花稜会
熊大に入ろうとすると手前に素敵な建物が!
熊本大学YMCA花陵会を検索してみると、「日本のキリスト教(プロテスタント)の3大発祥地の一つ、熊本バンドの流れをくむ、100年の歴史ある学生YMCA(学生キリスト教青年会)の寮です。キリスト教が寮の背景にあるのは確かで、聖書研究会への参加こそ義務になっていますが、信仰の強制はありません」とのこと。
聖書研究会をやっているんですね。いいなぁ。建築として見てもかなりいい感じです (*'▽')
YMCA花陵会 |
YMCA花陵会 |
YMCA花陵会 |
YMCA花陵会 |
熊本大学 黒髪キャンパス
では熊本大学の黒髪キャンパスへ。医学部はまた違う所にあるみたいです。
まるで案内してくれるかの如く構内に入って行く学生がいたので、さりげなくついて行くと・・・、うぁ、森みたい。わさわさと葉が生い茂っていて、植栽として植えられたのでなく、森か林の中に学校を作ったよう。
小泉八雲記念碑
構内を進むと緑陰に記念碑が。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の記念碑です。
ラフカディオ・ハーンはギリシャに生まれ、世界を遍歴して来日し、日本の土になった人物ですが、熊大が熊本第五高等中学校だった時代に教鞭を取っていました。
ギリシャは今でも国民の95%以上がギリシャ正教徒ですが、小泉八雲は毎朝神棚を拝んでいたというので、クリスチャンではなかったんでしょうね。
五高記念館
小泉八雲記念碑のバックにあるのが五高記念館。
熊大のシンボルと言っても良さそうです。
第五高等中学校の本館として使われていた建物なので、小泉八雲も夏目漱石もここで働いていたはず。
化学実験場・表門(赤門)とともに国の重要文化財に指定されています。地震により大きな被害を受けたため、当分の間休館しますと書かれているのが残念ですが。
五高記念館 |
五高記念館 |
五高記念館解説板 |
国登録重要文化財 |
構内
構内には彫刻もちらほら。五高生の青春を表現したものでしょうか?若々しい希望を感じます。
緑で見通しがよくききませんが、歩いてみると広いですね。日曜なので授業はないと思いますが、楽器を練習する音など聞こえてきて、人もまあまあいます。
休みでも学校に来る人が多いのかと☆
表門
こちらも国登録重要文化財の表門。赤門ですね。横断歩道の向こうに工学部が見えますが、この間にある道にご注目!
この道、豊後から続く豊後街道なんです!!
力いっぱい言ってみましたが、重要性を理解してもらえたでしょうか?豊後街道と言えば、そう!宣教師が通った道。
豊後街道と宣教師
豊後街道(肥後街道)は熊本を始点とし、大津から阿蘇外輪山を二度、二重峠と滝室坂で越えて朽網(くたみ。今の長湯)を抜け、府内(大分市)へ至るルート。1550年代から宣教師が頻繁に往来したことが記録から分ります。豊後府内で日本初の西洋式病院を創設したアルメイダ修道士は、このルートをとりわけ骨の折れる難路だと言っています。
冬ともなれば雪が降り積もり、徒歩で外輪山を越えるのも大変だったでしょう。それでも通ったのは大友家の保護があり、安全だったから。また途中の里にはキリシタンがいて、宣教師を厚く迎えたのだとか。朽網は温泉場なので、たぶんいいお湯に浸かって体を癒したのではないかと。
豊後方面から阿蘇を越えてやって来た宣教師は、熊本の城下町に用がない時には、恐らく薩摩街道にぶつかった所から北へ向かって高瀬(玉名)に、あるいは南に向かって川尻(川尻町)に行ったことでしょう。そこに宣教師の滞在場所があったからです。
高瀬にはザビエルと一緒に来日し、その後の日本布教を一身に背負ったトルレス神父、川尻にはアルメイダの下で医療を学んだシルヴァ修道士です。1552年に16、7才で来日したシルヴァは、若かったため日本語の習得が早く、芸術の才能にも恵まれて、府内でアルメイダを助ける傍ら、聖歌や演劇の指導にもあたりました。
府内で教育を受けた後、川尻に派遣され布教活動をしたのですが、あまりの過労で病に倒れ、アルメイダが悪天候の中、薬を持って府内から駆けつけましたが、シルヴァは骸骨のように痩せ細っていました。そして薬よりも高瀬にいるトルレス神父に会うことを願いました。それは神父でなければ、告解を受け、死に際して終油の秘跡を行えないからです。
川尻が肥後六港の一つだったこととシルヴァの病状から考えて、アルメイダはシルヴァを船で高瀬に運んだものとみられます。シルヴァがまだ20代の青年で、アルメイダの助手をしていたことを思うと、抱きかかえて運ぶアルメイダの心痛がいかばかりだったか・・・。シルヴァは高瀬で10日後に息を引き取りました。
さてと・・・、どこへ行こう?
くまモン
豊後街道(県道337号)から薩摩街道(国道3号)へと、昔の宣教師の通った道をバスで辿りながら、人でごった返す通町筋に到着。
当時も殷賑を極めていたんでしょうね。城下町の歓楽街ですから。宣教師もソドムとゴモラと思ったかもしれません。性欲の果てに生まれた子供を捨て、ストリートチルドレンとなった子供が犯罪に使われる。
そんな有様を見て宣教師たちは子供養育院を作るのですが、それさえ「子供の血を吸い、肉を食べるのだ」と噂を立てられました。いつの時代でも悪評と闘いながら善を行ってきたのが信仰者たちなのですが、行われた悪がチャラになるとは思えません。いつか落とし前をつけなければいけない時が来るのではないでしょうか。
小泉八雲旧居
さて少し時間が余ったので、小泉八雲旧居に来てみました。ほんとは横井小楠の旧宅(四時軒)に行ってみたかったけれど、そこまで行く時間と体力がなくて、小泉さん家ならばと。
見た目にはそんなにダメージを受けてるようではありませんが、やはりこちらも展示品がちゃんと見せられないからと無料。
熊本城から始まり、徳富記念館もここも、このパターンの入場無料、うれしくないし、むしろ辛いですよね。
展示
やや雑然と置かれた展示品と解説板。ここが小泉八雲が暮らし、執筆していた家なんですね。
小泉八雲お気に入りのトイレが残されているとネットには書いてありましたが、見られないようです(それがすごく見たかった訳ではないですが)。
というか、受付前の一室しか足を踏み入れることができなくて、そこから覗くことができる所までしか見学できません。切ないですね。被害を受けた人たちがもっと切ないでしょうから、口を慎まなければいけませんけど。
えっ、横井小楠家の瓦を?
小泉八雲旧居の概要を見ていたら、気になる記述が。えっ、横井小楠家の瓦をもらってきたって?
どうやら小泉さん家の近くに横井さん家があって、横井さんが引っ越すっていうんで瓦をもらったみたいです。
・・・ということは、
この近所に横井小楠の家があったってこと!?
興奮して館長さんに訊いてみると、「家があった年代とか詳しくは知りませんが、横井家があったのは隣の公園の辺りだと聞いています」とのこと。普通「横井小楠 住居」と検索しても四時軒しか出てこないのに、こんな市内中心部に家があったなんて、横井小楠クラスタでも知らないんじゃないかな。ねぇ、知ってる?
横井時雄、横井みや
私が横井小楠のことをしつこく訊いたのは、小楠自身というより2人の子供、
横井時雄(一時は伊勢を名乗った)、
横井みやに関心があるから。2人は上サムネイルの人物相関図にも書かれているように、L.L.ジェーンズの教え子。しかもジェーンズが離日した後も同志社で学んだ生粋の熊本クリスチャンです。
横井時雄は熊本バンド代表する一人で、東京の弓町本郷教会で牧会をしていました。ジェーンズ邸の館長によると、熊本バンドの一員とされるためには「熊本洋学校、花岡山奉教趣意書、同志社」の三つの要件を満たさなければならないということなので、横井みやは熊本バンドとは言えません。
しかし、みやが結婚した
海老名弾正は熊本バンドのやはり代表格。同じく本郷教会(現・弓町本郷教会)で牧会をしていたのですが、大正デモクラシーで知られる
吉野作造は海老名の説教に惚れ込んで教会に通っていたくらいでした。
おっと、話を熊本に戻しますと、横井小楠が四時軒に引っ越すのが1855年、私塾を開くのが1857年で、ちょうどその頃時雄が生まれているので、時雄もみやもここで生まれたのではなさそうです。
しかし八雲が入居するこの家が建設されたのが1877年のことで、その際に横井家の瓦をもらって来たのですから、それまで家が存在していたようです。ならば熊本洋学校にも近いこの家に、2人も来たことくらいはあったのではないでしょうか?親戚とか住んでいたかもしれないし。
あり得ないかなぁ? ま、何か手がかりを発見できただけでも神様からのプレゼントだと思いましょうかね (#^^#)
街をゆく
まだ日が高いので、あと一か所くらい行けるよねーということで、お城の方面へ。そんなに見たい訳ではありませんけど、横井小楠と維新群像とやらを一応見ておこうと思い。
今日も結構歩いてヘトヘトですけど。気温34℃とか言って、残暑残りまくりですけど・・・。そんな不満めいたこと言っちゃいけませんね。好きなことさせてもらっているんだから☆
市役所前
見えてきたのは加藤清正風オブジェと崩落防止の白いシート。
宿敵の小西行長が滅んで、勝者となったかに見えた加藤清正も、性病か毒殺かハンセン病で死亡。
跡を継いだ忠広も改易されて配流先で死去しました――。
時を俯瞰しながら生生流転を眺めてみると、誰が勝った、誰が負けたと言えるんだろう?と思ってしまいます。この世だけを見ても、勝ち負けや幸不幸を言い切れることは滅多にないと思うのに、死んでからの世界まで考えたら、それが逆転していることだってありそうです。この世での栄達もいいけれど、永遠の世界でのそれも同時に考えていきたいなと思うばかりです。
公園入口
体を引きずるようにして、像のある公園に。そんなにまでして来ることなかったのに若干意地になってしまい。
せっかく来たんだから見てみましょうか。郷土の偉人の像が、ネットで調べても出てこない人までいろいろ建てられています。
何かに貢献したから像になってるんでしょうし、情報がなくても素晴らしい人たくさんいるんでしょうけど、私は像は建ててもらわなくていいかな(建ててもらえるくらいのことをしてから言いましょう)。
横井小楠と維新群像
そしてこれが横井小楠と維新群像。
歴史学者が言っていたことですが、最近は坂本龍馬バブルで、龍馬がナントカと言えば大盛り上がりするそう。
御多分に漏れず、ここにも龍馬さん。それだけでも足りないと思ったのか勝海舟まで。もちろん皆関係があるのはあって、龍馬は四時軒訪ねて来たこともあったんですが、全ての人を横井小楠の御付きの者のように配しているのはどうかと。
興味深いのは、横井小楠の元に通ったメンツに徳富蘇峰・蘆花の父、徳富一敬がいることですね。台座のレリーフに顔出ししてます。小楠、一敬の息子たちが熊本バンドを形成して、日本に政治とは違う熱風を起こしていくんですから、維新は二段階でここから起こっていったというなら、私だって賛同しちゃうんですけど♪
がんばろう!熊本
くまモンと「がんばろう!熊本」と書かれたビルを見ながら、壊れた日常を取り戻す大変さを思います。
そんなことを考えていたら、くまモンが熊本バンドに思えてきた・・・脳にブドウ糖足りてませんね。何か食べましょ。
次に来るときには「がんばろう!」が何かに変わっていることを願って (*'ω'*)
「私のくまもと」
物事を考えるとき、自分のこととして考えることが大切だなと思います。自分に関りがあると思えば、自然と関心が湧き、それが行動にもつながっていくのですが、自分のことだと思わないとそうはなりません。それが「他人事」。
熊本出身でもなく、住んでいる訳でもない私が、熊本を「他人事」にしないためにはどうしたらいいだろうと思い、とりあえず関心を持って、訪れてみることだけでもしてみました。
来てみたら、この街いいなと思い、人に会えば情が移り、深く祈るようになり・・・。十分だとは到底言えないけれど、それでも今回来てみたことで少し「私のくまもと」という感覚が自分の中に芽生えたように思います。
こういう感覚を日本全体で共有していけたら、もっと早く復興も進んでいくのかもしれないですね。
「他人事」から「自分事」になったら、祈れば自然と涙があふれます。自分自ら祈っていこうという気持ちにも。そんな感覚になれたことが、今回の一番の収穫です☆彡
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