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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 バテレンが愛した海 vol.1 



熊本に行かなきゃ!と思ったのは、2016年4月に起こった大地震の映像を見た時から。繰り返し流れるニュースを見ながら、祈りに行きたいとずっと考えていました。時間と機会ができて、半年経ってようやく熊本へ。今回はほんとに巡礼です☆


加藤清正像


前夜のフライトで熊本空港へ。一晩泊まって朝から史跡めぐりスタートです。まずはやはり熊本城。今回のメインターゲットですので。

お城に向かって歩いていると、入城手前で迎えるのは加藤清正像。長細い兜かぶっています。威厳がありますね。

堀の外からもうかがえるのは、自身の爪痕。建物を支える土台の石垣が崩れて危ない状態です。復興も修復も全然進んでいないんだなと感じました。



加藤清正像

熊本城案内図

建物の土台が


地震の爪痕


各所にボランティアガイドさんが立っておられ、見学のポイントを教えてくれるので、それがとっても有り難いです。

こちらの碑は崩れても倒れてもいませんが、上の石と下の石が回ってしまってズレています。こんな重い石材がズレるだなんて、どんな力がかかったんだろうと驚きます。

しかも揺れはねじれていたんですね、きっと。地面は揺れたのではなく波打ったのだろうと。恐ろしいです。まだ城内に入ってもいないうちから、脈拍が上がってきました。地震から半年経ってもこうですからね。地震直後の様子はいかばかりだったでしょう。



石碑

説明板

立入禁止区域

元々の様子

城彩苑


熊本城は現在入場無料で、危険な箇所があるので周りを迂回しながら見学するようになっています。

桜の馬場に城彩苑という観光施設があって、ここには観光バスも来ているようです。復興の様子を見て応援しようという人も多いんでしょうね。

だけど観光施設を一歩出て、城の方に登ろうとすると、途端に「立入禁止」が出てきて戸惑います。立入禁止エリアをどう避けるかに頭を使いますね。



城彩

立入禁止

西南の役回顧碑

西南の役回顧碑解説

未申櫓の石垣


やっと見えてきた熊本城の未申(ひつじさる)櫓。石垣が見事です。ここは被害を免れたのかなと思いきや、西側に回ったら大きく崩落していました(↓)。

櫓の損傷は比較的軽微だったけれど、石垣が大きく崩れたと書かれています。建物が大丈夫でもその土台が崩れてしまっていたら・・・どうするんだろう;;


崩落

大手門への道

二の丸から

二の丸公園

崩落の跡


広い二の丸公園を縦断しながら、宇土櫓を遠望。

戌亥(いぬい)櫓はさっきよりひどく崩れていますね。

よく見ると角石一つで持ちこたえていることが分かります。

いつ崩れるか分からない状態で、近寄ったら本当に危険そう。

城内は基本立入禁止で、堀の外側からしか見られない理由が理解できました。修復も相当大規模なものになりそうですね。天守だけでなく櫓やその石垣までと考えると。実際問題として修復可能なんだろうかと思うくらいに。



時習館跡

西南戦争関係の碑

戌亥櫓

大規模な崩落

加藤神社への道


宇土櫓と大天守、小天守を眺めるのに絶好のビューポイントだということで加藤神社へ。加藤清正を神として祀った神社です。

神社までの道で見かける光景が結構ショッキングで、これもまた見なければいけないものなんだろうなと思いました。

道の傍らに置かれたり積み上げられたりしているのは、すべて崩落した石材。それがまた崩れてしまわないように土嚢で押さえられ、危険だから近づかないようにと注意喚起されています。もう言葉失いますね。見に来ている人はそれなりにいるのですが、皆無言で歩いています。



崩落

土嚢の道

崩れた石垣

石垣

加藤神社


城内に入って近くで見られないので、今や加藤神社が熊本城を代表する名所のようになっています。

人を神に祀り上げるなんて、キリスト教世界ではご法度ですが、日本では古来からされてきたので抵抗感がないのでしょう。

境内には加藤清正ゆかりの遺跡などが配され、浮かれてる感じにならない程度(?)のグッズも売られています。



土嚢で保護

加藤忠広ゆかりの松

清正の旗立石

清正ゆかりの巨樹

加藤神社

道まで崩落

倒れた灯籠

木ごと崩落

大天守小天守


こちらが本丸に建つ大天守、小天守。熊本城のシンボルですね。

ここが撮影ポイントらしく、ゆるキャラと記念の台が。

ピースして撮るのはどうかと思いますが・・・。

宇土櫓


その右手前にあるのが宇土櫓。今回の地震で最も被害が小さかったと言われる建物です。

続き櫓とその石垣には損傷は見られるものの、宇土櫓自体はほとんど無傷で残ったのだとか。

この宇土櫓、なんで「宇土」と付いているかというと、宇土城主であった小西行長の元家臣が築いたからです。小西行長はキリシタン大名で、元家臣たちの中にもキリシタンが多かったと考えられます。もしかしたらお祈りしながら築いていたかもしれません――。


宇土櫓と小西旧臣


元々加藤清正は北肥後を、小西行長は南肥後を治めていたのですが、小西行長は関ケ原で西軍の将となり敗戦。京都で斬首され、行長の領地は清正のものとなりました。その際小西旧臣たちもほとんど清正の配下に入り、清正が信奉する日蓮宗に改宗させられました。

だからキリシタンとしての祈りを表立って捧げることはできなかったはずですが、中には心の裡に信仰を守っていた者もいたのではないかと思います。それがここに現れているような気がして、とても感動を受けました。

どこかの国のことわざにも「真心を込めた塔は倒れない」というのがありますね。その言葉の通りではないかと感じたりして。



宇土櫓

大天守、、小天守

宇土櫓

三つの眺望

棒庵坂


城内の主だった所を見終えて、少し急な棒庵坂を下っていくと、空き地に膨大な石が並べられていました。

堀の内側は石置き場になっていて、崩落した石たちはここで石垣に築き直されるのを待つようです。

ここにもボランティアガイドさんが立っていて、誰も石に近づいたりしないよう、また盗難などもないように見張っています。ご苦労様ですと会釈して通り過ぎましたが、ここも崩落現場とはまた違った意味でショックな場所ですね。復興への道のりが、夢物語のように容易でないことを実感させられました。



棒庵坂

石置き場

石置き場

仮置き場について

崩落


熊本城の被害はこれだけに留まりません。堀の外から城の塀を眺めると、シートで覆われている部分が。

現存する日本の城郭では最長の245メートルを誇る、熊本城の長塀ですが、そのうちの約100メートルが崩れて破壊されています。

市役所の前辺りがひどく、ブルーや白のシートが目立つので痛々しいです。


長塀の崩落

長塀の崩落

石置き場

石垣

熊本大神宮


少し進むと熊本大神宮がありました。鳥居の所にシートが張られ、一切立ち入りできなくなっていますね。

脇から見てみたら、まるで神社の本殿に向かって崩落してきたみたいに、石と土砂が覆っていました。

重機が入ってそれを取り除けようとしているようですが、南阿蘇の方でもまだ多くの人が家もなく暮らしているのに、ここに重機かなと思いました。



石造物の倒壊

石造物の倒壊

神社めがけて?

重機を投入

熊本城稲荷神社


熊本大神宮を過ぎたと思ったら、お隣も神社。熊本城稲荷神社です。神社、多すぎませんか?

そりゃそれぞれ違いはあるんでしょうけど、熊本城内に3か所って。しかもどれも力入ってるんですよね。

鳥居の下にぶら下がっている札には「鳥居崩落注意」と書かれていました。「注意」って・・・、下をくぐってる時に崩落して怪我しても責任持ちませんよということでしょうけど、それなら立入禁止にした方が良くないですか?
ご利益求めて来るのに、鳥居くぐるためなら死んでもいいと言う人なんていないでしょうから。

熊本の復興を願って来ているんですが、何かいろいろと矛盾を感じて、複雑な気持ちになります;;



熊本城稲荷神社

鳥居崩落注意

熊本城稲荷神社

神社のギャラリー

厩橋を渡って市役所へ


では厩橋を渡って熊本市役所の本庁舎へ。こちら14階からだと、一番被害が大きかった飯田櫓などがよく見えるのだと、ボランティアガイドさんが教えてくれたので。

これも人を通して教えてもらったことだろうと思います。行ってみましょう。信号を待っていると、車道には車があふれ、人の行き来も多くて、経済や市民生活は活気を取り戻しつつあるように見えますね。


加藤清正風オブジェ


市庁舎前には加藤清正風オブジェ。一見ダースベイダーみたいで、テーマ曲を口ずさみたくなります。

ダースベイダーの視線の先には崩れてシートに覆われた長塀の姿。清正のオブジェに見せつけているかのようです。清正はこれを見たらどう思うんだろう?

いや、清正は放っておいたとして私たちは、これを見てどう思うべきなんでしょうか。


熊本市役所

清正風オブジェ

長塀

周辺地図

城内の様子


エレベーターで14階に昇ると、緑が美しい風景が。

ここは展望階として設けられたんですね。レストランもあったようですが、今は被災者支援の申込窓口になっています。

とてもじゃないけど、「わぁ、キレイ」などと眺められる雰囲気ではないです。その言葉を発せられるくらいになるまでどのくらいかかるんでしょうか。

眼下には、ニュースでたくさん見た飯田丸五階櫓。大規模な足場を組んで被害を止め、修復への道筋をつけようとしています。二次災害が起こらないよう祈ります。


飯田丸五階櫓とキリシタン?


さて熊本城復興のシンボルとなっている飯田丸五階櫓ですが、キリシタンとちょっとだけ関係があります。熊本城築造に深く関わり、飯田丸五階櫓を建設して守備にあたったのが、加藤三傑に数えられた重臣 飯田角(覚)兵衛で、その息子 高伯(たかのり)の奥さんが伊地知文太夫の娘だったのです。

伊地知文太夫はパウロの霊名を持つキリシタンで、しかもかなり熱心な信徒だったので、一族郎党がキリシタンだったと考えられています。つまり息子の嫁にキリシタン女性を迎えたということですね。

もちろんその娘さんは信仰を棄てたからこそ嫁になれたのでしょうから、元キリシタンとなりますが。しかし高伯が伊地知文太夫の娘との間にもうけた嫡男 高転が家を継ぎ、その子孫は明治の世まで続いたのですから、キリシタンの命脈が受け継がれたことは間違いありません。

ヴァリニャーノの「日本巡察記」にも出てくるキリシタン城主 伊地知文太夫の末裔が現代に続いていたというのは、私にはちょっとした朗報です^^



飯田丸五階櫓

震災の様子

震災の様子

14階より


 崩れた城壁を見ながら古城方面へ


崩れた城壁


お城の方は時間をかけてたっぷり見たので、今度は城の外郭部へ。お堀沿いの遊歩道をトコトコ。

崩落防止シートの白さが目に焼き付きました。市民は毎日これを見ているんですね。

やっぱりもっとお祈りしようと思い、ベンチでしばし時を過ごしました。


熊本城城壁

遊歩道の休憩所

お堀

飯田丸

遊歩道


昔は城内だったろう地域に向かうため、南に延びる遊歩道に入って行くと、ガタガタになったまま直されていない箇所がゴロゴロと。観光場所じゃないからか、修復の手が回ってないようです。

店舗やビルの私有地では自前で修復している跡も見えますが、結構お金かかっていると思います。住居などではもっと深刻でしょうね、経済的な打撃も。


遊歩道

周辺地図

船場柳御門跡

船場柳御門跡

熊本第一高等学校


船場柳御門跡を過ぎて少し進むと、熊本第一高等学校が。ここは昔城内だった所で、明治になってからは、現・正門付近に医学校及び洋式の病院が設立されていました。

明治4年には現・体育館の所に熊本洋学校が開設されたので来てみたのですが・・・。ここも大変な被害を被ったようで、ブルーシートで覆われてコーンが林立しています。

生徒は違う門から入るんでしょうね。余裕があったら、熊本バンドのきっかけになった洋学校の跡、現在の体育館を見てみたかったですが、そんな対応をお願いできるような状況ではなさそうです。

隣の小公園に解説板があったので、そこで清正時代の城を偲びました。



熊本第一高等学校

被害の様子

小公園

古城堀端町について

清爽園


高札場があった場所も見てみようと、加藤清正時代の城を思い描きながら歩いて行くと、清爽園という日本庭園が。

どうやらここに城を守る桝形と御門があり、その門前に高札を建てて民衆に法令を伝達していたようです。

清爽園は西南戦争の戦死者を祀り記念するために造られた庭園なんですね。私が無知なせいかもしれませんが、来てみて初めて知ることが多いです。土地ごとにいろんな歴史があり、様々な形でその跡が残っているんだなと。



清爽園

清爽園について

新一丁目御門跡

高札場

高札場跡


こちらが高札場跡。石碑に「里程元標跡」(りていげんぴょうあと)とあるのは、九州各地への距離をここを起点として測ったからです。

街道を整備し、一里、二里と距離ごとに木を植えて旅人の休憩に供したことから、「一里木」「二里木」などの地名が今もバス停の名に使われていると書かれています。

ただの交差点に見えますが、昔はここから熊本の道が始まっていたんですね。よく見ると、道の形状が街道っぽいですね。宣教師が通った可能性もあるかも。どうなんだろう? 宿に帰ったら調べてみよっと☆

道をはさんだ所には熊本YMCAのビルが建っています。熊本はYMCAの活動が盛んなようですね。



高札場跡

解説板

札の辻跡

熊本YMCA

ランチのつもりが・・・


気付けば腹ペコだったので、熊本YMCAの前にあるカフェに入店したら、内装はおしゃれなのに、店員さんはおばあさん。来客も常連らしきおばあさんでした。

不思議なお店だなと思っていると、おばあさんが「モーニングですか?」と。結構歩いたので昼くらいにはなっているかと思いきや、時計を見たらまだ10時でした。あはは。

ランチだけどモーニングセットを頼んで待っていると、厨房から持って来てくれたのは若い女性。母の店を継いだ娘さんが、今風に内装とメニューをリニューアルして切り盛りしているようです(私の解釈)。味良しコスパ良しでおススメです(^^♪




 蔚山町から路面電車で♪


電停「蔚山町」


お腹を満たして休みも取って、電停「蔚山町」へ。この「蔚山(うるさん)」と韓国語そのままで読まれている地名は、加藤清正が朝鮮から連行してきた人々をここに住ませたことに由来しています。

いわゆる朝鮮出兵ですね。韓国では「壬申倭乱(イムジンウェラン)」と言いますが。最近では「文禄・慶長の役」と学校で教えているそうですが、日本での呼称はいずれも「侵略」の響きがありません。

他国を侵略し、殺し焼き尽くすだけでは飽き足らず、有用な人間は連れて来て働かせようとしたという、人権思想の欠片もない暴挙ですが、それが地名として残っていることが不思議です。残ってていいと思うんですけどね。日本人が何をしてきたかを語る証人ですから。「蔚山」の文字が、異国で亡くなった人たちが日本を糾弾する声のように、私には感じられます。



日本福音ルーテル熊本教会


では電停で「水道町」に行き、二つの教会を回るとしましょう。

なんとこの電停駅近辺には100年を超える教会が二つもあるのです。

一つ目は日本福音ルーテル熊本教会

ルーテル教会では1898年から熊本宣教を始め、7年後にここに教会を建てました。しかし初代の教会堂は戦災で焼失し、今の教会堂が建てられたのは1950年後のこと。九州学院もここと同じ教派ですし、強いですね。熊本で100年以上もの間ずっと根を張ってきた感じです☆



ルーテル熊本教会

教会案内

ルーテル熊本教会

カトリック手取教会


次はカトリック手取教会へ。この教会の創立は1889年で、1894年現在地に教会を建設しました。

設計施工は鉄川与助。手掛けた多くの教会堂が国の重文になっている棟梁です。惜しむらくは、彼がクリスチャンにならなかったことなんですけど。

開いているみたいなので入ってみましょう(*^^*)

聖堂内


聖堂内は白とピンクの夢見るようなしつらえ。

男性が、それも大工の棟梁が手掛けたとは思えないラブリーさです。

黙って祈っているだけでは物足りなくて、声に出して歌ってみることに。

ん、音響効果もすごくいいではないですか!ということで、どんどん大きな声で賛美すること3曲。やっと気持ちが解放されたような喜びに包まれました。一人で震災の跡回ってたから、どことなく荒んでたんだと思いますけど、癒されていくのを感じました。神様もそうだといいけど。

12時になると音楽が鳴って、私が歌うのをやめると人が2人ほど入って来たので、私は退出することに。お昼休みに祈りに来る人がいるんですね。1人は外国人みたいでしたけど。ただ12時を報せる音楽が「恋はみずいろ」だったのが・・・。そこは讃美歌じゃないのかなーと思いました。


カトリック手取教会

聖堂内

天井

パイプオルガン

路面電車で


またもや路面電車に乗って今度は九州学院へ。ヴォーリズ建築の礼拝堂が見たいと思いまして。

私のように慣れない者には路面電車って便利ですね。バスのように間違って遠い所に行ってしまうということがないので。それでいて地元の人と同じ交通手段を使うというのは、テンション上がりますし。


九州学院


人の流れについていきながら、難なく九州学院へ到着。

日本福音ルーテルでは1909年に牧師養成のための神学校(後に東京へ移転)を建て、1911年には九州学院、1926年には九州女学院を設立しました。

明治から大正にかけて怒涛の創立ラッシュをかけたんですね。熊本の人々の気質の中に、それだけの投資をするだけの何かを見出していたのではないでしょうか。

九州学院礼拝堂


「こんにちはー」と挨拶しながら構内へ。

礼拝堂は正門からは一番奥にありました。

1925年に学院の創立者ブラウンを記念して建てられたもので、設計したのはウィリアム・メレル・ヴォーリズ。近江兄弟社の創業者で、建築家としても知られている人物です。

ヴォーリズはここには他にも図書館と体育館を建てたのですが現存せず、一番古い講堂兼礼拝堂のみが残っています。1996年、文化庁により登録有形文化財に指定されました。

反対側の門から出ると、ルーテル大江教会がありました。元々は学院の中にあったようですね。



九州学院礼拝堂

九州学院

ルーテル大江教会


 震災の被害を見せつけられながら


徳富記念館


九州学院を反対側に出て西へ行くと、徳富記念館があることが分かり、ちょっと離れていますが歩くことに。1キロ強かな。

これくらいは億劫がらずに歩かねばと思いますが、朝からガンガン歩いているので、バテてきました。気温も高いし (;´・ω・)

前方に徳富記念館が見えてきましたが、門扉は閉まっているよう。でも「開館中」と大きく書いてあって・・・此は如何に?

徳富蘇峰・蘆花旧宅


受付で「開いてますか」と尋ねると、「開いてます。でも震災で見られない展示が多いので、それでも良ければ。無料です」とのこと。

無料って、普通ならうれしいけど、そんな理由ではうれしくないです。震災の被害も心配ですし。

館内の展示をじっくり見て戻ると、館長さんが外を案内してくれたのですが、徳富蘇峰と蘆花が住んでいた家は、正に倒壊寸前。支えがなければ横にぐしゃりと崩れる様が容易に想像できます。「次に少し大きいのが来たらもうダメかもしれません」と言っていました。


徳富蘇峰、蘆花の兄弟


徳富旧宅は徳富蘇峰、蘆花兄弟が父、一敬(かずたか)と一緒に住んだ家。1962年に蘇峰の娘婿の子孫から熊本市に寄贈され、徳富記念館とあわせて徳富記念園と呼ばれています。

兄である徳富蘇峰(とくとみ・そほう)は平民主義を唱えた思想家で、雑誌「国民之友」「国民新聞」を創刊し、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト。弟、蘆花(ろか)は「不如帰」で知られる明治の文学者で、二人ともクリスチャンです。

庭には木々と花のほか、徳富蘇峰が開いた私塾 大江義塾の碑が建てられていますが、実際に塾があったのは今は駐車場になっている辺りだそう。ここに宮崎滔天ら250人余りの門人が来ていたというから驚きます。

ついでに説明しますと、宮崎滔天もクリスチャンになった人物で、孫文と交友関係がありました。息子の嫁が柳原白蓮で、今だとそっちの方が有名かもしれませんね。

だけど熊本ではキリシタンや明治のクリスチャンなど、熱い人たちがたくさんいて、キリスト教の歴史が色濃く染みていることがうかがえます☆



徳富旧宅

徳富記念館

カルタパの木

新島襄と蘇峰

徳富旧宅

大江義塾

大江義塾

徳富記念館

夏目漱石の旧居(第三の家)


徳富記念館も見終え、一日の行程としては十分な気がしますが、時間があるので夏目漱石の旧居へ。第三の家と言われる住宅です。

移築されたジェーンズ邸もこの隣にあるはずで、どちらかというとそっちに行きたいのですが、入口が見つからないので、まずはこちらを見学して、誰かに訊いてみようと思い。

シンプルだけど良いしつらえの家という感じです。案内をしてくれる人に、夏目漱石が猫と一緒に寛いでいた縁側で、同じように座って写真を撮ってもらいました。それでジェーンズ邸のことも訊いてみると、その人の表情が一変。「本当は私はそちらの館長なんですが・・・」と悲痛な面持ちで庭先を示しました。



夏目漱石旧居

解説板

夏目漱石旧居

夏目漱石旧居

夏目漱石旧居

夏目漱石旧居

解説板

展示品

ジェーンズ邸


示された先にあったのはブルーシートが掛けられた残骸。

悲惨すぎて声になりません。どうりで入口が見つからなかったはずです。

近寄ると危険なため、立入禁止テープが張り巡らされています。


ジェーンズ邸と熊本バンド★


ジェーンズ邸とは、熊本洋学校に招聘されてきたL.L.ジェーンズが暮らした家で、後に佐野常民がこの館で有栖川宮親王から直許を得て博愛社が創設されたことから、日本赤十字社発祥の地ともされています。

なぜこれほどジェーンズ邸を見たかったかというと、ここが明治期にキリスト教が熊本に入る原点になったからです。その辺を説明するのには、まず時代背景と熊本洋学校の成り立ちについてお話しなければと思うのですが、お時間大丈夫ですか?(誰に訊いてますのやら。。)

時代は明治になった直後のことでした。横井小楠の甥、大平がアメリカから帰国し、小楠の門弟である野々口為志と洋学の必要性や外国人の招聘、本格的な洋学校の設立などを力説。藩知事の細川護久にも進言し、取り入れられることになりました。

横井大平は大学南校(東京帝国大学の前身)の教師、フルベッキに外国人教師の人選を依頼し、その結果L.L.ジェーンズが招聘されたのです。洋学校では日本で初めて男女共学が行われ、横井小楠の娘みや子、徳富蘇峰の姉初子らが入学。先進的な授業が行われました。

ジェーンズは赴任して2年ばかり過ぎた頃から生徒の有志、伊勢時雄(横井小楠の息子)や、金森通倫海老名喜三郎(弾正)宮川経輝らを集めて聖書の研究会を始めました。最初は興味半分だった生徒たちも、回を重ねるごとに理解、感服するようになり、日曜日の礼拝がジェーンズ邸で行なわれるようになったのです。

そして1876(明治9)年1月30日の早朝、イエスに忠誠を尽くそうと決心した生徒たちは花岡山山頂に集合。奉教趣意書に35名が誓約署名しました。その中には徳富猪一郎(蘇峰)、浮田和民の名も。ここに明治のキリスト教三大潮流の一つとされる熊本バンドが生まれたのです☆



ジェーンズ邸

日本赤十字社

熊本バンド

奉教趣意書

奉教趣意書の署名

奉教趣意書について

ジェーンズ邸の被害

ジェーンズ邸


 水前寺成趣公園へも参りましょう☆


熊本聖三一教会


ジェーンズ邸で気合を入れ直し、まだ日が高いので、教会を回って水前寺成趣園へ行くことに。

日本聖公会の熊本聖三一教会です。ボランティアセンターで作業している人たちを見かけました。活発に社会に奉仕する活動をしているようです。


熊本聖三一教会

ボランティアセンター

曼珠沙華

水前寺成趣園の富士山


行きつ戻りつ結構歩いて水前寺成趣園に到着。

何このいにしえ感。

市内一等地とは思えないスケールで庭が広がっていて、「広い」というより「遠い」です。

そこに富士山に見立てた山やらどっかの川やらが悠々と配置されていて、一見するだけで、「現代ではないな」と感じさせられます。昔の殿様というのは居住モジュールが今と全然違ったのね。

特に細川家は天皇に古今和歌集を講じたという由緒ある家柄だけに、戦国のような武家のピーンとした感じも、安土桃山めいた絢爛豪華さもなく、ただひたすらに風雅。私のような無粋者でも和歌の一句も詠めそうな!(詠めまへんが)。みやびですわ。



水前寺成趣園

水前寺成趣園

鳥居と神社

水前寺成趣園

細川藤孝・忠利像


さすがに水前寺成趣園は観光客が一杯で、そのうちの半分が外国人。細川藤孝・忠利像の前ではガイドさんを中心に人だかりができていました。

が、細川藤孝と忠利って、その間にいる忠興は? 藤孝の息子が忠興で、忠興の息子が忠利なんですけど。

忠興が文句言うとも思えないので、いいっちゃーいいんですけど、忠興の奥さんが細川ガラシャ夫人で、この人のことはどこかに書いておいてほしかったなと。忠利だってガラシャから生まれてるんですし。

細川ガラシャは戦国一の美女と言われた人で、明智光秀の三女。謀反人の娘として処刑されてもおかしくないのに、忠興が熱愛して隠したために助かったのですが、秀吉が伴天連追放令を出した翌年にキリシタンになったんですよね。ザ・波乱万丈。

本名は玉(たま)なのに「ガラシャ」と呼ばれているのは、洗礼名から。「ガラシャ」の意味は「恩寵」です。ガラシャ亡き後も、忠興と家督を継いだ忠利はしばらくの間キリシタンには好意的でしたが、江戸幕府の締め付けがきつくなるにつれ態度を硬化させ、キリシタン処刑を命じるまでになりました。

それが熊本や小倉での殉教です。だから清正ランドの熊本城とこちらは迫害者の双璧なんですよね。身内にキリシタンがいたかどうかの差だけがあるように思います。



細川藤孝・忠利像

細川忠利について

細川藤孝について

水前寺成趣園

出水神社


水前寺成趣園も熊本城同様、敷地内に複数の神社が。さすがに「細川神社」はないですが。

出水神社には多くの参拝客が来てましたが、この社殿だけが被害がひどくて、大丈夫なのかなと心配です。

修理用の足場が組まれているのに、かなり近くまで人が行ってて。どこもかしこも被害が出てると少し感覚が鈍って、いつ倒れてくるかと恐れる気持ちが薄まるのかもしれません。正常化バイアス、気をつけなければ。



水前寺成趣園

水前寺成趣園

水前寺成趣園

水前寺成趣園

熱中症気味で


もうすぐ10月だというのに今日は最高気温33℃。夏ならしょうがないですが、長引く暑さに体がこたえます。

さっきからめまいがして変なので、日陰に入りたくて園内の茶屋に。糖分も必要そうだったので冷やしぜんざいをチョイス。

冷たい麦茶をいくら飲んでも渇きが癒えなかったので、やはり脱水で熱中症になりかけてたのかも。めまいくらいで済んで感謝ですよ (*^^*)


古今伝授の間


水前寺成趣園のラストは古今伝授の間。天皇に藤孝が古今和歌集を伝授した部屋が移築されているんだとか。

京都から九州まで、建材をばらして船で運んだんでしょうけど、大変なことでしたね。そこまでして残したのは、地元で栄光を輝かせたかったんだと思いますが。

そんなに栄誉を得たいなら、自分の行いで輝けばいいのにと思いますがね。例えば忠興は「天下一気の短い」と言われるほど短気で、気に障った家臣を手打ちにした数はなんと36人。36人と言えば三十六歌仙じゃないかということで、愛刀に付けた名前が「歌仙」。シュミ悪すぎて引きますわ。

ガラシャへの偏愛もすさまじく、ガラシャにちょっと見とれていた庭師をその場で斬って捨てたなど、そういう香ばしい話がザクザク出てきます。私も人の言動をとやかく言えるような人間ではありませんが、その分「倣おう」という気持ちが強いです。忠興も「倣おう」とすればそばにいい人がいたんですけどね。高山右近という、茶仲間で親友のキリシタン大名が。



解説板

古今伝授の間

古今伝授の間

古今伝授の間

古今伝授の間から

古今伝授の間

茶屋

くまモンに


くまモンに見送られて退場。しっかり見たのでしばらく見なくても大丈夫かな。いや来たくてもすぐには無理か。

以前来た時にはゆるキャラの流行り始めで、くまモンはその最たる例だったのですが、今では復興のシンボルに見えます。置かれている状況によって、物事の見え方が違いますね。

まさか熊本を、震災と復興という目線で訪れることになるとは思ってもみませんでしたし。常日頃から、心の位置をもっと究極的なところに持っていかなければいけない気がします。「いつ死んでもいいくらい」の状態でいることは簡単でないけれど、それに準じたくらいの心の芯を、自分の中に――。



水前寺成趣園入口

大鳥居

日本基督教団 熊本草葉町教会


路面電車を下りて宿に向かいつつ、遠回りして日本基督教団の熊本草葉町教会に寄ってみました。

1885年創立の熊本バンドの伝統を継承した教会だとHPに書いてあったので。どこから見てもまっすぐに見えない金色の十字架が特徴的ですね。

誰か有名な人の設計建築なのかなと思って調べてみたら、設計は(株)計画環境建築という工場を主に造っている会社で、施工は地元熊本の(株)岩永組でした。中は見られませんでしたが、「楕円に金のモザイクタイルを貼った十字架」が正面に掲げられているそうです。

熊本バンドの流れを継承しているというからには、きっと熊本バンドの誰かが関わって、育てたんでしょうね、教会を。詳しく知りたいなと思いました♪



熊本草葉町教会

熊本草葉町教会

上通、下通


熊本市内は通町筋の上通と下通という大きなアーケード街があって、買い物飲食などは全部ここで事足りるような充実ぶり。

だけどたった一本横の道になると、ぎょっとするほど雰囲気が変わり、けばけばしい看板の風俗店が立ち並び、店の前には黒服の男たちが。

私が予約した宿がちょうどその道の端にあって通るようになったのですが、まるでソドムとゴモラのようでした。息を止めて走り抜けたいくらいに。一日の最後に祈るべき課題を見せつけられた感じでした。

どんな街にもソドムとゴモラがあるんでしょうけど、機会が与えらえたら祈っていくのがいいですよね。はー、お疲れさま。とんかつの乗ったカレーが食べたい!(熱中症はどうした?)





祈りに、来ました。


九州はキリシタンの宝庫なので、どこでもいつでも行きたいのですが、今回の目的はお祈りに置きました。

2016年4月、二回にわたり起こった震度7の大地震で甚大な被害が出ました。復興はもちろんですが、それだけで終わりと言えるのか、また何かあるとしたら、被害をできるだけ小さく受けるように祈ろうと思って。

聖書によれば、小さな人の小さな祈りにも耳を傾ける神様だということです。ならば小さな私が行くことが、もしかしたら御心に合うのではないかと。

今日一日歩いてみて、祈っている人、悔い改める人が少ないことに気付いたので、それを少しでも満たせたらと思います。

無神論者からすれば無意味にしか思えないであろう試みですが、自己満足でも構いません。歴史と現実を見つめて、祈る心で歩いてみたいと思います☆





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