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旅行記 > 北国の使徒たち 2
今日は佐渡ヶ島へ! 佐渡には殉教地があるので行きたいと思っていたけれど、こんなに早く行ける日が来るとは思いませんでした。
しかし実は数日前まで台風が直撃するとの予報が出ていて、前日にも大雨強風警報が発令されていたので、フェリーが欠航になるかと思ったのですが、いずれも大丈夫になり…。天が与えてくださった機会だと思うので、感謝して行きたいと思います♪
佐渡汽船
カーフェリー
海鳥
佐渡ヶ島
両津港
カトリック佐渡教会
聖堂内
佐渡金井キリスト教会
佐渡金井キリスト教会 |
ロシア兵の墓 |
明治紀念堂 |
殉職の碑 |
では中山峠のキリシタン塚へ!!
標識
中山旧道入口
倒木も
どっち!?
ビューポイント
キリシタン塚
キリスト磔刑像
どんぐり
峠の茶屋跡
大久保長安の足跡を追って
相川町
疎水坑道 |
幼稚園 |
大安寺
慶長11年(1606)、初代佐渡奉行・大久保石見守長安が創建した寺。本堂には「三つ葉葵」の寺紋を掲げる。長安が自分のために生前に建立した「逆修塔」、黎明期の佐渡金銀山の開発に努めた河村彦左衛門の供養塔「五輪塔」があり、両者は国指定の史跡。佐渡奉行所役人の墓も。
大久保長安の逆修塔
大久保長安の逆修塔 |
河村彦左衛門の五輪塔 |
本堂 |
高台に建つ |
森知幾の墓
佐渡相川の人で祖父柏倉熊次郎は士族、御船水主であった。柏倉一徳の弟で母方の御船水主森家を継いだ。明治四年より八年まで修教館に学び後丸山溟北塾に入り、十二年相川伝習所小学校師範伝習科卒業各地の小学校に勤務した。十八年上京、師範科予習学校、東京物理学校、大日本水産会水産伝習所、明治法律学校に学び、病気で帰郷した。東京では内村鑑三に私淑し堺利彦、幸徳秋水、西川光二郎等と交友し、キリスト教社会主義思想の洗礼をうけた。三十一年日刊佐渡新聞を創刊し、官権の横暴をつき時の郡長吉屋雄一(作家吉屋信子の父)と対立した。また佐渡中学生北一輝(輝次郎)を知って一輝の「国体論と純正社会主義」の一部を新聞に掲載した。二十九年相川町長時代に佐渡鉱山払下運動が起こった時、これに反対し遂に恩賜金七万円獲得に成功した。一方部落解放運動に挺身し、私設明治学校を三十三年に開設して校主となり、相川小学校長樋口虎之助の協力を得て、四十二年まで旧乞食の子弟の教育にあたった。
※「佐渡新聞(さどしんぶん)」
明治三十年(一八九七)九月三日、森知幾によって創刊された佐渡で最初の本格的新聞。
兄柏倉一徳は、若いころ熊本師範に在職中は熱心なキリスト教信者で、徳富蘇峯と共に布教活動をしたと「佐高八十年史」は伝えています。徳富は当時十八才の少年で熱心なクリスチャンであり自由民権運動の斗士でもありましたが、のち突如国粋主義的思想に変った人です。柏倉も小野村林蔵との初対面のときには「無宗教で」と挨拶しています。しかし長女の節子は嶺直貴によって病床で洗礼をうけ、小野村が来島する直前に亡くなっています。また柏倉一徳の弟森知幾は、内村鑑三と親しく、内村は若いころすでに本業の水産の仕事を通して佐渡と結びついた上、森の経営する佐渡新聞を通して島人に強烈なメッセージを送ったりして霊的世界への啓蒙をするという、面白いつながりなつくっていた。
柏倉一徳と森知幾:キリスト者になったというわけではないが、佐渡史に足跡を残した兄弟、柏倉一徳(いっとく)と森知幾(ちき)についてここで触れておく。1879(明治12)年、佐渡出身、柏倉は、東京高等師範学校を卒業し、熊本中学に勤務。熊本バンドと接触。柏倉は後に新潟、佐渡の教育界で活躍する。また弟、森知幾は1888(明治21)年、大日本水産会伝習所に入学。内村鑑三の影響を強く受け、帰島後ジャーナリスト、政治家として活躍する。
鑑三の水産伝習所(水産伝習所の後身である現在の東京水産大学(*尚、同大学は2003年に、東京商船大学と合併して東京海洋大学となった))時代の教え子には、のちに『佐渡新聞』を創刊する森知幾(ちき)や、田岡嶺雲(れいうん)らがいた。
相川郷土博物館
御料局(明治憲法下で皇室財産を管理)佐渡支庁を活用しているため、屋根瓦は菊の御紋入り。建物は国指定史跡。1階から3階までの展示室には、金山と佐渡奉行所などを紹介。小さな黒いマリア像と伝わるものがある。
黒いマリア像
遊女
復元された佐渡奉行所
佐渡奉行所
御裁許所の御白州
埋鉛
復元されていない部分
道遊の割戸
佐渡金山
坑内
坑内
宗太夫坑を出て
展示室
大久保長安の勧請祭文
佐渡小判
町を見て宿へ☆
京町の鐘楼
本日の宿
前の浜
夕餉
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