トップページ >
旅行記 > watashiを見つけてくれてV
さて、と・・・。今日は朝から晩まで思いっきり一人です。ぼっち旅を満喫できるような性格をしていればいいのですが、人見知りの割に寂しがり屋の私にとっては、見なければならないものがあるから行く!一日になりそう。くじけないよう応援してください
(・Θ・;)
船上城跡
まずは、今回絶対に行かなければと思っている船上城跡へ。高山右近がキリシタンゆえに改易されるまで居城していた城です。
高槻からここ明石への移封は出世でしたが、長くいられなかったのでキリシタンの集団を生むことはできなかった、あるいは後世まで残ることはなかったと考えられています。
だけれど高山右近は来年(2017年)2月に列福されることが決まったので、さぞや地元は盛り上がってるだろうと思っていましたが、それほどでもない感じ。地図には「船上城跡」の文字が見えますが、案内板等がないので迷いに迷って1時間半。しょっぱなからエライ苦戦しております。。
まあ、この一帯に船上城があったのだと思えばうれしくもなり、右近が城下を見て回ったんだろうなと想像すると楽しくはなってくるのですが、駅でコインロッカーを見つけられず、徒歩10分くらいかと高を括って、重い旅行カバンを持ち歩いてしまったからオーマイガー。
朝から汗びっしょりでさ迷う羽目になるとは、やっちまった感がハンパなく、地に伏して泣きたいくらいです (>_<)
船上城跡発見!
ついに発見!船上城跡。分かってみれば最初に来た所のすぐ裏手でした。
が、私有地で近づけず、周囲が家なので、近くに来てても見る方向が違うと見つけられないのでした。
田んぼと、昔は堀だったのかなと思う川を挟んだ所に公園があり、そこからだと船上城の本丸跡だと言われる小祠堂が見えます。写真も公園か、田んぼ越しに撮るしかなさそうですね。地域の誇りにしてもいいし、史跡めぐりで訪れる人も巡礼で来る人もいるだろうから、町興しにしてもいいと思うんですが、この有様はどないでしょうか。
カトリック教会では右近のゆるキャラ(う〜こんどの)まで作って、右近ゆかりの地を紹介する本も出しているのに、この状況を動かせないんですかね。町と話し合って、少なくとも「船上城跡」の説明板くらいは出してほしいです。私は神様にお願いを…(*゜。゜)m。☆オネガヒ
横の公園 |
フェンス越しに |
フェンスの網目から |
船上城跡マップ |
では岡山へ o( ̄ー ̄\)Go!!
西新町駅
念願の船上城跡を見ましたが、30分くらいで行って戻って来られると思っていたのに2時間余りかかってしまい、おまけに相当体力も削ぎとられて、もう今日一日終えたいくらい。
しかしそんなヘタレたことも言ってられないので、マスカット・カルピスでエナジー補給。あちこち工事してて遠回りさせられる(それでコインロッカーが見つからなかった訳ですが、これも列福の準備?そんなことないか)西新町駅を後にして兵庫県にサヨナラを。また来ますね♪
岡山駅
そんなこんなで岡山駅に到着。電車を乗り継ぎながら昨日Gさんにもらったクッキーを一気食い。猛烈にお腹がすいてしまって。もっとおしゃれに食すべきところを、食糧みたいに食べてごめんなさい。いや、今日はサバイバルだな。
岡山駅では賢くコインロッカーに大きなカバンを入れて、身軽になって街へ。これこれ、こういう風に旅慣れた様子で闊歩したかったんですよね ( ̄▽+ ̄*)ホホホ
ノートルダム清心女子大学
駅から向ったのは岡山の
ノートルダム清心。シスターの渡辺和子さんが学長を務めていたので、ちょっと学校を見てみたかったのです☆
今年もう87歳か、それくらいになられるはずですが、先日東京の
イグナチオ教会で行われた講演会では2時間立ったまま話されてました。お水とかも飲まずに。
人としての基本姿勢を学ばせてもらいました。いつどこで誰に話す機会を与えられるんだとしても、心をしっかり立てて、矜持を持って話したいなと。渡辺和子さんの本は大学時代からたくさん読んでいるけれど、爪の垢ほども吸収できてない気がしますね。人格とか人としての姿勢とかは。情けないけど、これからも努力はしていこうと。
ノートルダム清心 |
ノートルダム清心 |
岡山県立美術館
駅に戻って見渡すと、バスやら路面電車やらが走っていて、たぶん使いこなせれば便利なんだろうけど、旅行者にとってはちんぷんかんぷん。
バス案内所の人に訊いて、バスの番号と停留所名だけ教えてもらって乗車しましたが、知らない街を一人運ばれていくのって不安なものですね。岡山県立美術館の前で下車。うーん、ここからはスマホのナビに頼ろうかな。
カトリック岡山教会
スマホ(と天使)に導かれて
カトリック岡山教会に無事到着♪
あ、ディエゴがいる!!
聖堂前に手を合わせて立つ
ディエゴ喜斎は26聖人の一人。長崎の西坂で殉教しましたが、岡山の出身でした。なので私からすると、「岡山と言えばディエゴ!」という感じ。会えてうれしいです。ディエゴの故郷、芳賀までは遠くて今回は行けないけれど、いつか行ってみたいとお祈り中。では聖堂にも入ってみましょう♪
カトリック岡山教会 |
カトリック岡山教会 |
ディエゴ喜斎像 |
ディエゴ喜斎解説 |
聖堂内
聖堂は最近建てられたものらしく、長い歴史よりはフレッシュな印象ですが、両側のステンドグラスに日本のキリシタンが歩んできた貴重な歴史が表されています。
吹き荒れる嵐のような迫害と、約束を信じて待った信徒発見――。この2つの場面を選んだ気持ちは、私なんぞでも分かります。
歴史を大切にする思いが込められていることに心動かされました (^-^)/
ステンドグラス |
ステンドグラス |
天井 |
庭の織部灯籠 |
浦上玉堂の碑
カトリック岡山教会の向いにある公園には、浦上玉堂という、私は知らないけどきっと立派な人なんだろうと思われる人の記念碑が。
この辺りは江戸時代「弓之町」と呼ばれる所だったと書かれた解説板もあります。城下町の中でも武家衆の暮す一帯だったんですね。
江戸時代はざっくり言ってしまうと戦争がなくなり武士の「武」たる要素が必要なくなった時代なので、この人たちがやっていたのは治安維持や警察的なことでしょうか。ならばキリシタン捕縛などにも関わったかもしれませんね。
公園を抜けるともう一つ公園があって、こちらは「土光敏夫先生記念苑」と名付けられていました。公園名に「先生」と付ける必要あるのかと思いますが、その人の死後にリスペクトする人が付けたんでしょうね。中央に「土光敏夫先生」の作品が据えられています。そしてここは「中堀跡」だったと書かれています。もう城はすぐそこみたいですが、今回は時間的に岡山城までは行けないんですよねぇ。
岡山市立オリエント美術館
大通りに戻ると右手に岡山市立オリエント美術館が。備前藩の牢屋敷があった所です。
この場所は元々は郡会所でしたが、そこに1682年、何かの理由で牢屋敷が移ってきて、そしてまた何らかの理由で1705年には他の場所に牢屋敷は移されていきました。
明治初頭、長崎から浦上キリシタンが流されて来て収容されたのは恐らく藩の牢屋敷だったろうと考えられているので、ここに牢屋敷があった時代ならビンゴ(表現が軽過ぎ?)ですが、浦上の信徒たちが来たのは1869年だから関係ないでしょうかね。
正直言って岡山ではディエゴさえ見られればいいやと考えていたので、リサーチが甘くて歴史を深く味わえません。自然に歩いて行くうちにビンゴ(大当たり)を見つけられたらいいな、みたいな感じで。きっとここにも知るべきことがたくさんあるだろうに・・・ε-(ーдー)ハァ
しろちか
大通りの交差点に信号がないので、どう渡るんだろうと思ったら地下道がありました。「しろちか」と書いてあります。
降りて行くと薄暗い中にぽつぽつと人影が見え、真ん中には素敵な噴水が。地下にある公園なんですね。日陰だから休憩にもってこいだし☆
外に出るとここが内堀の跡だったと解説板が教えてくれました。岡山城は三重の内堀と中堀、外堀と、合わせて五重の堀に守られた堅牢な城だったようです。そっか、堀が埋め立てられて大通りになったということか。何とも知らないことが多いですな。そんな城なら見なきゃいけなかったじゃん!と思いますが、後の祭り。次回持ち越しです。
西丸西手櫓
しかし古地図をじっと見ていたら一つ発見。城は見られないけど櫓はすぐそこに!
しっかも来るときすごーく気になった「禁酒会館」の隣にあるというラッキーな展開。ちょっと足を伸ばして(ほんの2、3分)見に行ってみましょう♪
ということで、コチラが岡山城の
西丸西手櫓。西が2つ付いてて分かりにくいですが、西の丸にあった西方の見張りをする櫓ということですね。櫓自体は完全に修復されてて新しさがぷんぷん香ってきますが、下の石組みは昔ながらのものに見え、しかもかなり立派です。造った人たちのこだわりと矜持さえ感じます。
西の丸は池田光政ら、歴代藩主が引退した後に住んだ櫓だということです。岡山城にはかつて34もの櫓がありましたが、今はここと本丸の月見櫓しか残されてないそうで、これが見られたのはほんとラッキーですね。
《後日談》
後で調べてみたら、26聖人が長崎に行く時岡山を通って行ったのですが、その際宿泊したのは岡山城内外で、候補地として二の丸に評定所が挙げられています。二の丸と西の丸は堀を挟んでいるものの隣接していて、距離的には目と鼻の先。つまりこの櫓から右手に十数メートル進んだ辺りに26聖人が宿っていたかもしれないということです。行った時に分かっていたら見てきたと思うんですが・・・(;´д`)
西丸西手櫓 |
西丸西手櫓解説 |
岡山禁酒会館
では国の登録文化財にも指定されている
岡山禁酒会館へ。西手櫓の向って左手前にあります。金色の「禁酒会館」の文字が目立っているので見落としようもないですが☆
現在は一階にカフェとキリスト教書店、二階三階にも小さなお店等が入居しているようです。全体的にレトロでおしゃれですね。
おしゃれな時間を
一階の「珈琲屋ラヴィアンカフェ」で、「昭和6年の味」と銘打たれたカレーを♪ お腹がすいてなくてハーフで注文しましたけど。
奥のガラス扉から西手櫓の石垣が見られたのはうれしかったです。ご飯を形作る型みたいなやつが欲しくなりました (*゜v゜*)
路面電車で岡山駅へ
では岡山駅へと戻りましょう。午前中に船上城跡で手こずったのでのんびりはしていられないのです。
帰りは路面電車で。西日本って路面電車、すごく残ってますね。バスの方が効率的だけど、この趣が癒されます♪
次は倉敷 (*^.^*)
カトリック倉敷教会
では次は倉敷へ。こんな強行軍、ツアーとかでは有り得ないかもしれませんが、今回は時間が限られているので仕方ありません (;^_^A
大原美術館だけは見ておこうと思い倉敷に来たのですが、せっかくだから教会に寄りながら向かいましょうかね。
荷物を再びコインロッカーへ入れ、まずは
カトリック倉敷教会へ。
1930年、九州から来た倉敷紡績の女子工員のために、現在地に献堂されたのが始まりだそうです。この町はクラボウと共に有りという感じですね。現在の聖堂は1996年に建て替えられたものだということで、新しく清楚な印象を受けます。
カトリック倉敷教会 |
カトリック倉敷教会 |
日本基督教団 倉敷教会
10分弱歩いて
日本基督教団 倉敷教会へ。
この後訪れる大原美術館の大原孫三郎らが創立メンバーとなった教会ですね。
現在地に教会堂が建てられたのは1922(大正11)年のことで、設計は後に文化学院を創立した西村伊作(いさく)。この人、名前はバリバリのクリスチャンですが、両親がそうだっただけで本人は信仰を持っていたのか・・・。
海外にいる時にクリスチャンかと問われて、自由思索家だと答えていますが、戦時下において天皇を絶対視せず、そのせいで拘留されましたが、それでも意見を変えなったのですから、キリスト教的思想が根底に流れていたようにも思えます。今後もうちょっと追ってみようかと思いますが☆
商店街
ではこの時期にしては強烈な日差しを避けて、アーケードを通って倉敷の美観地区と呼ばれる方面へ。店の雰囲気を揃えて、明治大正風にしているのがいいですね♪
倉敷と言えばクラボウ、クラレなどの近代産業で知られていますが、昔から倉敷地方には近隣の村々の地主や素封家が暮していたようです。だから文化水準は高かったのではないかと思います。
で、倉敷紡績で巨万の富を築いた大原孫三郎は、この街を「東洋のエルサレムとなす」ことを天与の使命と考えて頑張っていました。だからこの街でその痕跡を見つけられたらいいなと・・・♪
倉敷教会創立の地
あっ!
と思わず口をついて声が出てしまいましたが、早速すごいものを発見。狙っていたわけでもないのに。
「倉敷教会創立の地」碑です。先ほどの教会堂が建てられて移転していく前、倉敷教会が最初に創立された場所がここだったんですね。
仮聖堂は大原美術館の向い辺りにあったようですが、創立地はこちらだということで、おお、見逃したくないものをよくぞ発見できたことよ、と感謝感激。碑まで建ててくれてありがとーですし
(o^-^o)
倉敷教会創立の地 |
倉敷教会創立の地 |
誓願寺 |
三楽会館 |
登録文化財 旧倉敷銀行
しばらく進むとでっかい公民館のある広場に出、その右手に登録文化財の
旧倉敷銀行がありました。
聞こえてきた人力車のお兄さんの解説によると、「大儲けをした大原孫三郎さんの貯金箱」だったんだとか(ものすごく分かりやすい説明^^;)。
つい最近まで中国銀行の出張所として営業していたみたいですが、倉敷駅前支店と統合され閉鎖されたみたいですね。今後はどうなるんだろう?
登録文化財 |
駅前支店と統合 |
旧倉敷銀行 |
戦時中の防火水槽 |
倉敷川畔美観地区
倉敷川畔美観地区は、その名の通りの美しさ。水辺の表情が情緒を醸し出していますし、建物もレトロでいい感じに和洋折衷です。
こりゃ観光客に人気が出るはずだよと、冷めた目で見るつもりが、素敵な光景が現れる度にいつの間にかシャッターを押しているという、、私もすっかり観光客。
解説板等はないけれど、新川に架けられたコチラの橋、今橋は大原孫三郎が支援した児島虎次郎の作品ですね。時の移ろいによる風化にも負けない確かなデザイン性が見受けられます。簡単に言うと、今見てもイイ。
大原美術館
ではお目当ての
大原美術館へ。
倉敷の実業家大原孫三郎が設立した、日本で最初の西洋美術中心の私立美術館です。
入るまでは入場料1300円は高いかなと思いましたが、中を見たら安いくらいですね。
コレクションの質が相当高いです。お金があるといってもこれだけのものを揃えようとしたら、かなりの審美眼がないと不可能でしょうね。それをやったのが児島虎次郎で、自らの画業の傍ら、買い付けも行ったというので驚きです。
倉敷のキリスト教
さて倉敷のキリスト教がどのような始まったかというと、実業家の大原孫三郎は幼少の時から林源十郎と親しくしていて、その紹介によって石井十次を知るようになり、孤児院を設立して奮闘する石井の姿に感銘を受けた大原がその活動を支援したことから始まります。大原は自らも倉敷教会に通い洗礼を受け、キリスト教徒の交わりが広がっていったのです。
そんな大原の元に訪ねて来た一人の画学生が児島で、児島は後に石井十次の娘と結婚します。芸術家にしては堅実で誠実でもあった児島を大原が見込んで、奨学生に推薦し、展覧会で受賞してからは留学にも行かせました。
そして買い付けも託し、大原美術館の素晴らしいコレクションが完成したわけですが・・・。児島虎次郎は石井の遺言通り、誠心誠意大原の期待に応えましたが、クリスチャンにはなりませんでした。
特定の宗教を超えたところにある精神性に惹かれていて、そのスタンスを打破しようとしなかったのです。そのため児島は石井の長女、友子と結婚しましたが、石井の死後、友子はキリスト教から離れていくようになりました。これは2人を夫婦にと持ちかけた大原にとっても、娘を嫁がせた石井にとっても誤算だったことでしょう。
大原美術館 |
大原美術館 |
自由に入れるエリア |
日本庭園 |
美観地区
再び美観地区に戻り、再び素敵さに打たれました。
川遊びをする菅笠の一行に、浴衣姿の女性たち。柳が静かに日陰を作っています。
まるで映画のセットに入り込んだかのようです♪
聞こえてくるのが主に中国語で、日本人よりもはるかに外国人が多いことを除けば典型的な日本の姿なんですが。入り込んではいけない独特の「作り物」感も否めませんかね
(^^;
路地を進むと
大原美術館には本館、分館、工芸・東洋館の他に児島虎次郎記念館があり、児島記念館だけ別の場所にあるので倉敷アイビースクエアを目指して路地へ。
蔵を改造した店などがあって、そぞろ歩くだけでも楽しいです☆
倉敷アイビースクエア
ものの5分で
倉敷アイビースクエアに到着。観光スポットが集まっているので、徒歩で回りやすい街ですね。
クラボウの企業城下町が観光化に成功した、と言うと、身も蓋もないですが。
驚いたのは、ここが昔代官所だったと書かれていたこと。クラボウ発祥の地は倉敷代官所跡だったなんて・・・。
代官所が置かれていたってことは、幕府直轄地(天領)だったということで、するとキリスト教禁令が全国に先立ちいち早く実行された所だったということですね。怪しい者がいればひっ捕らえてたでしょうし。そこがクリスチャンの実業家が大成功を収める地となったのですから、皮肉というか、不思議、です。
代官所跡 |
代官所解説 |
代官所の位置 |
アイビースクエア |
児島虎次郎記念館
アイビースクエア内にあるレンガ造りの建物が児島虎次郎記念館。児島虎次郎の作品ばかりが展示されているのかと思ったら、館内はオリエントの美術品、発掘品の山でもありました。
古代エジプトのミイラが被っていた仮面みたいなものから、地母神信仰が色濃く出た土偶など。旧約聖書に出てくる地方の発掘品もあって興味深かったです。
児島虎次郎の絵もいいことはいいんですよね。堅実だっただけあって巧いです、写真みたいに。人々の暮らしから切り取った場面もヒューマニズムに溢れていて、云わんとするところが一目瞭然。ある意味、分かりやすい作品です。だけれど明治の絵だなと感じます。私の見方で、ですが
('-'*)
児島虎次郎記念館 |
アイビースクエア |
大原邸
最後に見たいと思っていた
大原邸が見つからず、記念館に戻って職員に訊き、無事発見。
何かを届けに来た駐在さんが、私がカメラを構えているのを見てちょっと隠れてくれましたが写っています。。
届け物があるということは、今も人が暮しているんでしょうね。それで案内板もなく、公開もされてないのかと。
竹中正夫「倉敷の文化とキリスト教」の口絵を見ると、たぶんこの家で撮られたんじゃないかなと思う写真が載っています。大原の招きに応えて、倉敷には多くのクリスチャンや著名人が訪れたみたいですね。徳富蘇峰やバックストン宣教師等々。
私は以前この本を読んで「すごーい。倉敷も行きたい」と思った(小学生みたいな感想ですけど^^;)わけですが、それが今日叶っているんですね。普通に来たと思わずに、特別に来させてもらったと考えるべきだと思いました♪
さあ、ラストは三原だ!
山陽本線
さあ、ラストは三原だ!ということで山陽本線に。神戸を出てから今日はずっとこれ乗ってます。列車編成の少なさには慣れましたが、わびしさは募ってきました。
やっぱり一人は寂しいですね。分かってはいたことだけど。観光地であれ、住宅地であれ、いつも浮いてる気がして。疲れても一人だし、お腹すいても一人だし、対話する相手がいないと気持ちが解けないし・・・。
人と共にあることは贅沢なことなんだと気付きました。今日みたいな日は仕方ないけど、ありがた味(み)を感じながら人と接したいという気持ちは忘れないようにしなければ。
三原城跡
三原とうちゃーく。三原は明日に回そうかとも考えたのですが、まだ暗くなってなかったので寄ることにしました。
駅の2階から
三原城跡の天主台跡に出られるようになっていて、ちょっと斬新。っていうか、駅が元々城だったんですね。城を突っ切って線路通したからこのような感じになったみたいです。
ここに城郭を築いたのは小早川隆景。当時は海がすぐそこまであって、そこに突き出る形で船入櫓が築かれていて、三原城は軍港としての機能も持ち合わせた城だったということです。
でも三原市のサイト等にはここを「天主台」と書いているのですが、奇妙ですね。普通は「天守台」とするものですから。天に在る神様を「天主」と呼んだキリシタンの用語を使って、安土城に自らを神とする「天主」を築いたのは信長だけだと思っていました。誤植(誤入力)・・・ではないですよね?
三原城主 小早川隆景とキリシタン
小早川隆景は1585年、四国攻めの手柄によって秀吉から伊予一国も与えられた際、黒田官兵衛の勧めもあってイエズス会の伊予道後での教会建設を支援したことがあります。その計画は1687年に伴天連追放令が出されたことで頓挫してしまったのですが、キリシタンに好意を示した時期があったことは事実です。
それと直接的な関係があるとは言えませんが、養子に迎えた実弟の小早川(毛利)秀包は、1586年山口で受洗し、筑後久留米城主となってフランシスコ大友宗麟の娘マセンシアと結婚しています。秀包の受洗に関わったのも黒田官兵衛なので、官兵衛としては兄弟2人をキリスト教に導こうとしていたことが窺えます。
大谷吉継の祟り説
1594年、隆景が秀吉の甥の秀秋を養子に迎えざるを得なかったため、秀包は別家を設け「毛利」氏となるのですが。その後この「小早川」氏になった秀秋が、関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返って、東軍に勝利をもたらす結果となったのは有名な話ですね。
関ヶ原の戦いからわずか2年後の1602年、秀秋は21歳の若さで急死したため、秀秋のこの早世に関して、西軍の大谷吉継の祟りだという俗説がありますが、それはないでしょうね。大谷吉継はキリシタンだったので。恨んで祟ってやるとは言わないでしょう。。( ̄
 ̄;)タブン
城町公園
さて三原まで来たら絶対に見て帰らなければならないのが(絶対に負けられない戦いみたいになってますが)、
トマス小崎像!
26聖人の一人となった少年で、三原で母に書いた手紙の内容が今に伝えられているのです。船入櫓跡にその像があるというので来てみたのですが、、
ナイ!?
トマス小崎像
ナイナイナイと、旅行カバンを持ったまま走り回り、最終的に見つかったのはすぐ反対側でした。
そっか、道に面した方に像建てたのね。慌てん坊ってやーね、まったく(私のことです)。
それだから付け合せのラデッシュ丸ごと飲み込んだりするのよ(最近あったことです)。
ああ、でも会えて良かった!
この像を誰が制作したのか、作品としての価値はどうなのか等は分かりませんが、よくできていると思います。じっと前方を見つめる眼差しの先には、何かが見えているかのように、そこへと心が飛んでいってるように見受けられます。母親の顔、幼い弟たちの面影・・・。
トマス小崎の手紙
トマス小崎ら24人(26聖人は道中2人が加えられて26人になるので、この時はまだ24人)は、長崎に連行される途中、三原で恐らく城内の牢かそれに類する所に入れられ泊まりました。その時母親に書いた手紙の内容が伝えらえており、全文が分かっているのですが、要約するとこのような感じです。
「神の御助けにより、この数行をしたためます。私たち24人は長崎で磔刑を受けるため、ここまで参りました。私のこと、ミゲル父上のことをご心配くださいませんように。天国でお会いできることを希望しています。お待ちしています。たとえ神父が近くにいなくても、臨終には熱心に罪を告白して悔い改め、イエス・キリストの幾多の御恵みを感謝なさいませ。そうすれば救われます。弟たちが異教徒にならないようにご尽力ください。私は母上のことを、われらの主にお願いいたします」――。
この手紙がどうして今に伝えられているかというと、一緒に殉教したミゲル小崎(トマス小崎の父)が長崎で磔刑にされた時、殉教者の形見を求める信徒たちが、ミゲル小崎の懐から手紙を見出し、長崎の教会に届けたからです。
恐らく息子が一生懸命書いた手紙を、機会があったら誰かに託そうと思い預かっていて、それが亡くなるまで果たせなかったのでしょう。共に殉教の道を歩んでいった父と子の間には、後に残していく人たちへの祈りが絆となっていたのではないでしょうか。
トマス小崎像 |
トマス小崎像 |
トマス小崎について |
船入櫓跡 |
みこころ保育園
ここまで来たんだから、トマス小崎像を建てて顕彰している三原のカトリック教会にも行っちゃおう☆
スマホで検索すると住所が出たので、ナビに入力してゴー。地図上では近いかと思われましたが、伏兵みたいに急坂がそびえていて予想外でした。5分くらいかと思ったんだけどな
(*_*)
カトリック三原教会
聖母をイメージしたのであろう「みこころ保育園」のネーミングに癒しの風を感じながら、最後の坂道を登ると
カトリック三原教会が。
折り悪しく園児のお迎え時間とバッティングしてしまい、教会前では外国の人たちが何かの作業もしていて、聖堂内に入っていける雰囲気ではありませんでした。
堂内にもトマス小崎像があると聞いてたんだけど、HPとかで見て満足しましょうかね。時間も押してることだし帰ります。うん、これで三原は完了だ♪
カトリック三原教会 |
ルルドの聖母解説 |
ルルドの聖母 |
西条駅
車窓から徐々に薄ピンク色に染まっていく空を眺めていたら、西条駅を通過。昨日知ったことですが、広島大学ってこの駅にあるんだそうです。医学部以外かな?
広島に行ったらついでに広島大学も見てみたいなと思っていたのですが、日程的に可能かどうか分からなくなりました。でもまあ今日駅だけでも見たからいいかな。早く宿に着いて休みましょうと、一人だったけれど楽しかった一日(無事だったし)を感謝しました \(o ̄∇ ̄o)/
人間の孤独
眠りに落ちるまでのほんの数分、孤独について考えました。今日一日、孤独だったけれど、それと同様に人生は孤独そのものではないかと。一人で生まれて一人で死ぬ。これが誰しも同じく運命づけられたことならば、人間は皆、本来孤独なのだと言うことができるわけで。
だけれど人間には霊と心と体があり、霊はこれを授けた神に帰ると聖書には書かれています。また使徒パウロは、私たちをキリストの花嫁として婚約させたいのだと述べています。
つまり、肉体は生まれてから死ぬまで、人と一緒にいてもいなくても結局は孤独な人生を過ごすしかないけれど、永遠な神様の世界にはキリストを新郎として生きる希望があるということです。
永遠な孤独から抜け出すために、もっと主という愛の対象を掴んでいかなければと思った夕べでした...お(ノ ̄0 ̄)ノや(o ̄・ ̄)oす(。_ _)。みzzz..
NEXT >>